6-5:『レシピLv.2』の解放と、新たな実験
王都でのコンフィチュールの成功と、バルト商会からの最高純度の食材(「純度99.9%のグラニュー糖」など)の調達により、エリアーナの研究は次の段階へと進んだ。
アトリエの『食材図鑑』に、新たな情報が加わっていた。
『レシピ:コンフィチュール(Lv.Max)』
『レシピ:クッキー(Lv.2)』
『レシピ:パート・シュクレ(タルト生地)(Lv.2)解放』
「来たわ、アンナ!」
エリアーナは、魔導便で届いたばかりの、『無塩発酵バター(乳脂肪分82%以上)』の固まりを手に、歓喜の声を上げた。彼女の瞳は、まるで未知の鉱物を発見した鉱物学者ように、興奮の光を放っていた。
「師匠! その、パート・シュクレというのは、何でしょうか? また新しい『魔法の呪文』ですか?」
アンナは、毎日厳しい指導を受けながらも、その探求心は衰えることを知らない。彼女の瞳は、新しいレシピのコードを見るかのように、エリアーナの手元の情報に集中していた。彼女の体は、師匠の知識を吸収することへの、純粋な喜びで満ちていた。
「パート・シュクレとは、タルトやパイの『土台』となる生地よ。王都のタルトは、小麦粉と水分を混ぜすぎて、グルテンが過剰に形成され、焼き上がりが『湿った粘土』のように硬くて歯切れが悪いの。あれは、タルトではないわ。ただの、硬い器よ」
エリアーナは、その「湿った粘土」という言葉に、王都での苦痛な茶会の記憶を思い出し、顔を歪めた。その表情は、妥協を許さないプロフェッショナルの怒りだった。
「私の求めるパート・シュクレは、『サクサク』と噛み砕ける、繊細で、粉の香りが立つ『芸術品』でなくてはならない。そのためには、バターの乳脂肪分、砂糖の純度、そして生地の冷却温度、その全てが完璧である必要があるわ」
エリアーナは、アンナに、新たなレシピの理論を叩き込んだ。
「いい? バターに含まれる水分をいかに減らし、グルテンの形成を最小限に抑えるか。それが、サクサクの秘訣よ。この発酵バターの乳脂肪分82%という数値は、まさに奇跡。王都の一般的なバターは乳脂肪分が70%台で、残りは水と不純物よ。この純粋な脂肪分が多ければ、生地はサクサクに、香りは芳醇になる。これは、単なる素材の違いではないわ。科学的な優位性よ」
アンナは、師匠の理論を、頭の中で即座に「味覚」へと変換していた。彼女の脳裏には、乳脂肪分の結晶が、グルテンの網目を粉砕し、空気を取り込む様子が、鮮明な図として浮かんでいた。
(乳脂肪分が多いほど、生地は崩れやすくなり、噛むたびにバターの香りが口の中で爆発する……! なるほど! 師匠の求める『サクサク』は、単なる食感ではなく、『風味の解放』なのね! グルテンの形成を抑えることが、これほど香りを引き立てるとは……!)
この日から、エリアーナとアンナは、アトリエの石窯の前で、新たな『タルト生地の化学実験』に没頭した。アトリエには、微かにバターの芳醇な香りと、石窯の温かい熱、そして思考の熱気が満ちていた。
最新式の魔導コンロは、今や蒸気滅菌器としてフル稼働し、銅鍋や道具を常に清潔に保っている。そして、エリアーナが一番弟子として育成したアンナは、師匠の指示を完璧に再現する、最も信頼できる『味覚センサー』として機能していた。
「アンナ、試食して。生地温度を15度で捏ねたものと、18度で捏ねたものの違いを。生地の感触を、指先で確かめなさい」
アンナは、その二つの生地で作られた、全く同じ見た目のクッキーを、一口ずつ味わった。彼女は、目を閉じ、口の中に広がる風味の『構造』を、探求者のように分析した。
「……っ。師匠! 18度で捏ねた方は、わずかに歯ごたえがあります! 噛み砕くのに『力』が必要です。対して、15度の方は、口の中でホロリと崩れます! グルテンの形成が、こんなに違うのですね! 15度の生地は、バターの純粋な香りが、舌の奥まで届きます!」
エリアーナは、アンナの正確なフィードバックに満足げに頷いた。彼女は、アンナの舌が、0.数度の温度差によるタンパク質の微細な変化を、正確に捉えていることに、自らのチート能力以上の価値を見出していた。
「そうよ、アンナ。貴女は、もう私の『作品』を完璧に理解しているわ。私が教えられる技術は、もうほとんどない。貴女の舌と、私の知識が融合すれば、王都の誰も到達できない領域よ。次の『作品』は、このパート・シュクレを土台にした、『白夜の桃のタルト』よ」
エリアーナは、アンナの肩を叩いた。彼女の瞳には、最高の弟子と最高の素材を得て、パティシエールとしての探求心を完全に解放した、純粋な喜びの光が宿っていた。彼女の静かなスローライフは、最高の協力者を得ることで、ますます「研究」へと傾倒していくのだった。




