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4-5:一番弟子の育成(清潔と正確)

一番弟子としてアンナを迎えたエリアーナは、早速、彼女の教育に着手した。

エリアーナにとって、アンナは単なる助手ではない。将来、このアトリエを担い、彼女の「研究」の成果を『完璧に再現』する、最も重要な後継者レプリカだった。彼女の頭の中では、アンナの成長がそのまま、自身の研究の発展に直結する『方程式』が成立していた。

「いい、アンナ。レシピとは、単なる文字の羅列ではないわ。それは、素材の持つ力を、最大限に引き出すための『魔法の呪文』よ。そして、その魔法を操るために、最も重要なのは、『清潔』と『正確』。この二つよ」

アトリエの隅にある、真新しいホワイトオークの作業台で、エリアーナはアンナに語りかけた。魔導コンロの青い炎が、静かに彼らを照らしている。

エリアーナは、まず「清潔」の概念を叩き込んだ。

「貴女が昨日まで使っていた村の台所は、『雑菌の巣窟』よ。目に見えない敵(カビや酸化)が、貴女の生地やクリームの味を、一瞬で『陳腐なもの』に変えてしまう。パティスリーは、光と闇の戦いなの。光とは『風味』、闇とは『雑菌』。貴女が作る全ての作品から、闇を排除しなければならないわ」

エリアーナは、セバスが急遽手配した、巨大なガラス製の滅菌容器を指差した。中では、銅鍋や泡立て器が、沸騰した水蒸気で洗われている。

「だから、このアトリエでは、全ての道具を、使用前と使用後に、沸騰させた水で滅菌する。村の人々は、これを単なる贅沢な儀式だと思っているでしょう。でも、これは、味を究極まで突き詰めるための、絶対的な防御線よ。これが第一の鉄則。手洗いも、爪の間まで、五分間かけなさい。手は、最も汚染されやすい『道具』よ」

アンナは、王都の貴族が、雑菌などという下賤なものに、ここまで神経を注ぐことに驚愕していた。彼女の村では、水は貴重で、鍋を洗うのも適当だった。だが、エリアーナの教えの通りに作業すると、クッキー生地が翌日になっても新鮮な風味を保っていることに気づき、その「清潔」が「美味しさ」に直結することを、肌で理解し始めた。彼女の瞳の色は、畏怖から確信へと変わっていった。

次に、「正確」の教育だ。これは、エリアーナのパティシエール魂の核だった。

エリアーナは、魔導便で届いたばかりの、0.1グラム単位まで計測できる高精度な魔導天秤をアンナの前に置いた。天秤の台座には、青い魔力の光が微かに灯り、空気中の振動すら感知しているようだ。

「お菓子作りは、化学よ、アンナ。感覚ではないわ。特に、スポンジ生地のグルテンの形成、メレンゲの気泡の安定。それは、水分とタンパク質の『化学反応』なの。たった一グラムの水分の差が、焼き上がりの食感を『サクサク』から『フニャフニャ』に変えてしまう。貴女が持つ優れた舌を、曖昧な勘で鈍らせてはいけないわ」

彼女は、王都の貴族が使うような、手のひら大の測り(目盛りは適当)をゴミ箱に捨てさせた。

「だから、レシピにある『卵一個分』や『小麦粉少々』という曖昧な言葉は、このアトリエでは禁止よ。卵は、『グラム単位』。小麦粉は、『種類とグルテン値』。バターは、『温度と乳化度』。全てが数値化された、『確かなデータ』でなくてはならないわ」

アンナは、最初は、この厳密な指導に戸惑った。村での料理は、全て「目分量」と「勘」だったからだ。彼女が、以前使っていた、ひびの入った古い計量カップを手に取ろうとすると、エリアーナは鋭く制止した。

「そのカップは、ひびの中に雑菌が潜んでいるわ。そして、貴女が『ちょうどいい』と感じる目分量には、貴女の体調や感情といった『ノイズ』が紛れ込む。作品の完成度を左右するのは、ノイズの排除よ」

しかし、エリアーナが、卵黄と卵白を1グラム単位で調整し、砂糖の配合比率を0.1%変えるだけで、クッキーの『サクサク度』が劇的に変わるのを見て、アンナはその「正確さ」の魔法に魅了されていった。彼女は、師匠の教えを、まるで聖典のように、一言一句漏らさず羊皮紙に書き留めた。

「師匠……! このクッキーは、昨日より、さらにバターの香りが強く立っています! わずか0.5グラムの水の差で、こんなに……!」

アンナの並外れた『味覚と再現力』は、この厳密な教育によって、さらに磨かれていった。エリアーナの『食材図鑑』は、アンナの味覚を『センサー』として捉え、彼女の成長を『クッキーLv.1 → Lv.2』というように、リアルタイムでフィードバックしていた。

(アンナの才能は、驚異的だわ。私の一言一言を、彼女の舌が、すぐに『データ』として吸収している。私が彼女に教えるべきは、レシピではなく、この『探求の喜び』なのよ。彼女は、王都の誰よりも、私の『作品』を理解できる、もう一人の私だわ)

アトリエは、エリアーナの情熱と、アンナの素直な才能が、火花を散らす、活気あふれる研究室へと変貌していった。窓の外では、辺境の冷たい太陽が、この師弟の新たな始まりを、静かに見守っていた。


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