1-2:王太子の断罪
エリアーナが息を吸い込み、グラスをテーブルに戻そうとした、まさにその時だった。
会場の喧騒――貴族たちの談笑も、優雅なワルツの調べも、まるで水に沈められたかのように、ふっと静まり返った。
視線が、針のように鋭く一点に集まる。
王太子アズライトが、ヒロインのリリアーヌの手を引き、まっすぐにエリアーナの元へと歩み寄ってくるところだった。
金の髪を輝かせ、青い瞳に(彼自身が信じる)正義の色を宿した王太子は、この国の未来を象徴する、まさしく絵画のような美丈夫だ。彼の仕立ての良い軍服が、その鍛えられた体躯を完璧に引き立てている。
対照的に、彼に庇われるように立つリリアーヌは、純白のドレスに身を包み、小動物のように震えていた。潤んだ瞳が、これから起こるであろう悲劇(あるいは喜劇)を、エリアーナに見上げながら訴えかけている。
(……茶番だわ)
エリアーナは内心でため息をついた。
周囲の貴族たちが、息を詰めて事の成り行きを見守っているのが肌で感じられる。好奇、憐憫、そして嘲笑。それら全てが、一斉に彼女へと突き刺さる。
アズライトが、舞台俳優のように芝居がかった動作で、エリアーナの前で足を止めた。
彼が厳かに口を開いた。
「エリアーナ・フォン・クライフェルト公爵令嬢」
冷たく、よく通る声。その声には、これから「悪」を断罪するという、絶対的な自信が満ち満ちていた。
「卒業を機に、汝に言い渡すべきことがある」
アズライトはそこで一度言葉を切り、リリアーヌの肩を強く抱き寄せた。まるで、エリアーナという「悪」から彼女を守るかのように。リリアーヌは「アズライト様……」と、か細い声で彼を見上げる。
「リリアーヌは……この純粋で心優しい彼女は、王妃教育という名目で、君から陰湿な嫌がらせを受けていた! 私が、その証拠だ!」
会場が「おお」とどよめく。
「やはりそうだったのか」「クライフェルト嬢の冷たい目は、いつもリリアーヌ様を睨んでいた」「可哀想に」と、同情は一斉にヒロインへと集まった。
(嫌がらせ? ……ああ、あの時の)
エリアーナは、数ヶ月前の出来事を思い出していた。
王妃教育の茶会で、リリアーヌが「心を込めて焼きました」と、アズライトのために黒焦げのクッキーを持ってきた時のことだ。
『伯爵令嬢。その黒い物体は何ですの? 炭を殿下にお勧めするとは、ご実家ではそう習いましたの? それとも、高温で長時間加熱すれば、素材の悪さが隠せるとでもお考えで?』
エリアーナは、純粋な「食」への冒涜として、そして何より、そんなものを食べさせられる王太子の健康を(公爵令嬢の義務として)案じて指摘しただけだった。だが、リリアーSヌは「ひどい……私、アズライト様のために一生懸命……」と泣き崩れ、アズライトが「君はなんて冷たいんだ! 彼女の心を考えろ!」と激怒して彼女を連れ去って行った。
(事実を述べたまで。それにあんなものを食べさせられては、殿下の健康が危ぶまれるわ。第一、心がこもっていれば、炭を食べさせても良いという道理がどこにあるのかしら)
エリアーナが黙考していると、アズライトは彼女が反省しているとでも勘違いしたのか、さらに声を張り上げた。
「君はいつもそうだ! 厨房にこもり、意味の分からない実験に没頭する! 王妃教育を疎かにし、リリアーヌのように純粋な者をいじめ、王太子である私に寄り添おうともしない!」
(意味の分からない実験、ですって? あれは「乳化」という、この世界の菓子作りにおける最大の欠陥を補うための、崇高な化学実験よ)
「君は!」と、アズライトはビシリとエリアーナを指差した。
「お菓子作りにしか興味のない、冷たい女だ!」
「……」
(お菓子作り、ではないわ。「パティスリー(芸術)」よ)
訂正しかけたエリアーナだったが、それを口にするのは、この場の空気をさらに悪化させるだけだと判断し、黙って王太子の次の言葉を待った。この茶番のクライマックスを。
「よって、私は真実の愛を選んだ! エリアーナ・フォン・クライフェルト! 私は君との婚約を、今この場で破気する!」
高らかに響き渡る、婚約破棄の宣言。
リリアーヌは「そんな……私のせいで……アズライト様とエリアーナ様が……」と泣き真似をしながら、その実、アズライトの腕にすり寄っている。
会場のすべての視線が、断罪された「悪役令嬢」エリアーナに注がれた。
誰もが、彼女が泣き崩れるか、あるいはヒステリックに叫び出すか、そのどちらかを期待している。
その期待が、会場の空気をパンパンに膨らませていた。
だが。




