【1】
人間には見えないカフェが、岐阜県のとある場所に存在する。
そして今日も、お客様の訪れを待っている――。
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【Case0】絶望が運命を変える――始まりのカフェ
憎らしいほど美しく澄み切った青空。
絶好のドライブ日和だというのに、ハンドルを握る私の心は土砂降りだ。
絶望へ堕とされたのは二週間前。
恋人の賢吾が浮気していると知ってしまった。
……いや違う。
正確には私が浮気相手だった。
賢吾は当然のように相手の女性を選び、私はあっさり捨てられたのだ。何の温情もなく。そんな人間と見抜くことができず交際していた自分にも腹が立つ。
忘れなければ。
前を向かなければ。
何度も自分に暗示をかけ、「これからは仕事に生きよう!」と意気込んだ。
勤め先は小さな建築会社。
細々と事務員を続けて約四年。
すっかりマンネリ化してしまった仕事だが、今こそ気合を入れるときだ。
カラ元気でも何でもいい。
賢吾のことを忘れられるのなら。
キャリアウーマン目指してがむしゃらに頑張ってやる――はずだったのに。
突然、会社が破産。
嘘でしょ、ドラマじゃあるまいし。
そんなチープな感想しか抱けなかったが、間違いなく降りかかってきた現実。何故こんなことになってしまったのだろう。
いっそ地球が爆発しちゃえばいいのに――ピントの合わない目で破産・解雇通知の書面を見下ろしているうちに、そんな独り言が漏れた。
あるのは絶望のみ。
それなのに何故か、私は笑っていた。
想定外の出来事で脳がキャパオーバーすると、涙でなく笑いが込み上げてくるのだと知った。
踏んだり蹴ったりの事態を経て無職になった。こうしてあてのないドライブをしているのも、時間が有り余っているからだ。
これからどうすればいいのか――いや、やるべきことは分かっている。しかし心の傷が癒えないままで就活する気力はゼロだ。陰鬱な気分を吐き出すように溜め息をつき、赤信号にブレーキを踏む。
――そこでハッとした。
家を出て約三時間。
考えたくもないことを考えながら適当に車を走らせていたため、自分がどこにいるのか分からなくなっていた。
周囲に見えるものといえば山や田畑。
目印となるような建物はない。
ずいぶんな田舎町に迷い込んでしまった。
信号が青に変わり、ブレーキからアクセルに踏みかえる。一体どこにいるのだろう。大きな通りに出ることができれば案内板があるはず――なんて考えていた矢先、ガタンと強い衝撃が全身を貫いた。
あぁ終わった、事故だ。
さようなら地球。
爆発してほしいなんて思ったりしてごめんね。
まるで走馬燈のように、くだらない考えが脳内を流れていく。
しかし私は死んでおらず、怪我らしいものもなく無事だった。
無事でないのは車の方だ。
正面から鉄柵に激突している。
周囲に人気はなく、事故に気付いた人はいないようだ。
車を降りてフロント部分を確認する。それほど凹んでいなかったものの、鉄柵はひん曲がっていた。柵を支えるためのコンクリートブロックも割れている。
この柵は駐車場を囲むものだった。
一列に並ぶ五台分の駐車スペース、最奥には黒いセダンが一台停まっている。その向こうに見えるのは二階建ての西洋風建築。建物の入口横には《Tea&Gallery》という旗が立っている。カフェであり、何らかの展示スペースでもある――ということだろうか。
しかし妙な気分だ。
つい先ほどまで田んぼ道を走っており、こんなお店など見当たらなかった気がするのだが。そもそも何故鉄柵にぶつかってしまったのか分からない。まるで、目の前に突如お店が出現したかのような違和感を拭えなかった。
車内へ戻り、手前の駐車スペースに車を停める。ショルダーバッグを肩に掛け降車すると、重い足取りでお店の入口へ向かった。家を出たときは七月初旬と思えぬ暑さに眩暈がしたが、今は不快なほどの熱気を感じない。建物が木々に囲まれているからだろうか。周囲はどこからどう見ても山道で、私が車を走らせていたはずの田んぼ道など存在しない。
お店のドアには《open》という札が掛かっており、その上に木製の板が打ち付けられていた。
《川のほとり -一杯の紅茶に幸せを添えて-》
……店名だろうか。
まるでフランス料理の名前のようだ。
ドアノブを引くと、カロンと小さな音が鳴った。穏やかなピアノ曲に出迎えられる。オレンジ色のライトが灯っており、アンティーク店を彷彿させるような内装だ。
正面にはレジカウンター。
右側には木製テーブルとソファのセットが並んでおり、カフェらしい雰囲気がある。
一方、左側はギャラリースペースになっていた。壁を覆い隠すかの如く絵画が展示されている。その中央にはテーブルがあり、ブックスタンドが乗っていた。いくつもの本が背の順で美しく並んでいる。
店内に人の姿はない。
呼び掛けようとした直後、ギャラリースペースの奥にある階段から男性の姿が覗いた。私と同世代――二十代後半くらいだろうか。さらさらとしたミルクティー色の髪、透き通るような白い肌、すらっとした長身。白いシャツの下に黒い腰エプロンを巻いている。このカフェの従業員だろう。
モデル体型の爽やかイケメンが登場したことに驚いたが、私より彼の方が戸惑った様子に見える。妙な間が空いたのち、男性は苦々しい笑みを浮かべた。
「これはこれは……ずいぶんと珍しいお客様ですね」
「いえ、その……私はお客じゃなくて。こちらの駐車場に車をぶつけてしまったんです」
「お怪我はありませんか?」
「私は平気なんですけど、お店の駐車場を囲んでいる柵が――」
「あなたが無事なら良かったです」
悪いのは全面的にこちらなのに、私の身体を気遣ってくれるなんて。怖そうな人でなかったことに安堵した。