エピソード3 —温もり—
蓮花のあとを追い、レイヴァンはアパートの階段を上った。
二階の一室。蓮花が鍵を取り出し、ドアノブを回すと、静かに扉が開く。
「狭いけど、まあ入って」
蓮花が靴を脱ぎながら振り返る。レイヴァンも 後に続き部屋の中へ足を踏み入れた。
部屋はシンプルだった。六畳ほどのリビングには、小さなテーブルとソファが置かれ、隣にはもう一室。奥には簡易的なキッチン。壁際には本棚とテレビ台。生活感はあるが、散らかっているわけではなく、どこか几帳面さを感じさせる部屋だった。
「そこ座ってて。何か温かいもの淹れるから」
「ああ……助かる」
レイヴァンは蓮花に促されるまま、ソファに腰を下ろした。
部屋の暖房が効いているせいか、冷え切った体が少しずつ温まっていく。
気がつけば、体のあちこちがじんじんと痛んでいた。先ほどの喧嘩で殴られた場所が、今になって悲鳴を上げているのだろう。
痛みを紛らわせるように、レイヴァンは部屋の中を見回した。
壁に掛けられた時計が、午前二時を指している。こんな時間に、知らない女の部屋にいる
――そう思うと、改めて奇妙な状況だった。
「はい」
蓮花が湯気の立つマグカップを差し出した。
「……ありがとう」
受け取ると、カップの底からじんわりと熱が伝わる。
湯気から立ちのぼるのは、ほのかに甘い香り。口をつけると、優しい甘さと温かさが喉を通っていく。
「これは……?」
「ホットミルクに、少しだけ砂糖を入れたの。疲れてそうだったし」
「……そうか」
レイヴァンは黙って、もう一口飲んだ。体の芯から温まるような感覚に、少しだけ肩の力が抜ける。
蓮花はマグカップを両手で包みながら、ふとレイヴァンの顔を見つめた。
「ねぇ……レイヴァン」
「ん?」
「よく考えたら、アンタっておかしくない?」
「……おかしい?」
レイヴァンはマグカップを持つ手を止めた。
蓮花は少し視線を落としながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「あんな時間に、あんな場所で……しかも服も着てなくて。何か理由があるんでしょ?」
「……」
「襲ってきた連中とつるんでるわけじゃないってのは、まぁ、何となく分かる。でも、じゃあ一体何があったの?」
蓮花は言葉を選ぶようにしながらも、真っ直ぐにレイヴァンを見つめていた。
疑っているというよりは、単純な興味と、少しの心配が混じったような視線。
レイヴァンは、その視線から逃れるように目をそらし、握りしめていたマグカップをそっとテーブルに置いた。
「……分からない」
「え?」
「名前以外、何も思い出せないんだ」
レイヴァンはゆっくりと頭を振った。
「あそこにいた理由も、どうして裸だったのかも……全部、分からない」
蓮花は驚いたように目を瞬かせた。
そのまま少しの間、沈黙が降りる。
「……そっか」
やがて、蓮花は静かに息をついた。
「記憶喪失……ってこと?」
「多分……そうだと思う」
自分で言いながらも、違和感があった。
記憶を失った人間が、こうして普通に会話できるものなのか? そもそも、自分は何者なんだ?
頭の奥がぼんやりとした霧に包まれているような感覚。考えれば考えるほど、自分のことが分からなくなっていく。
すると、蓮花はふっと小さく笑った。
「変なの」
「……何が」
「いや、普通、そんな大事なことが分からなかったら、もっと焦るんじゃないの?」
「……焦ってるさ」
レイヴァンは自嘲気味に笑い、膝の上で拳を握る。
「でも、焦ったって何も出てこない」
「……ふーん」
蓮花は何か考えるようにレイヴァンを見つめたあと、そっと立ち上がった。
「とりあえず、今日はもう遅いし、ゆっくり休んだら? いきなり追い出すのも気が引けるし」
「……いいのか?」
「まぁ、いきなり放り出して変な目に遭われても面倒だし」
蓮花は軽く肩をすくめて、隣の部屋を指差す。
「そっちに布団敷くから、使っていいよ」
レイヴァンは一瞬迷ったが、正直、疲れ切っていて断る気力もなかった。
「……助かる」
「感謝しなさい」
蓮花はどこか満足げに笑いながら、寝具の用意をしに部屋を出ていった。
レイヴァンは再びマグカップを手に取り、残りのホットミルクをゆっくりと口に運ぶ。
甘く、温かい味が広がる中、ぼんやりと考えていた。
(俺は……何者なんだ?)
記憶の霧は、まだ晴れそうになかった。