第八章:初めての旅路
山は、思っていたよりも遥かに険しかった。
村を出て最初の一日は、陽の光と開けた草地に助けられて、どこか遠足のような空気さえあった。
けれど二日目に差しかかる頃には、岩肌が露出した斜面や、苔に滑る足場が続き、気づけば息は早く、肩で風を吸い込むようになっていた。
烈月の背中には小さな荷がある。
けれどその重さは、距離とともに倍増していくようだった。
足元では、靴の内側がじわりと擦れる音がしていた。
夕暮れには、両の足裏に小さな水脹れができていた。
歩くたびに、薄皮の下で溜まった液がぷにりと押し返す。
何でもない一歩が、じわじわと全身に響いてくる。
夜には、初めての野営。
焚き火の火加減もわからず、火口にしたはずの枯葉がすぐ燃え尽き、何度も火打ち石を叩きながら、ようやく弱々しい火を起こした。
飯盒の蓋を開けたとき、焦げついた匂いが鼻をついた。
それでも、烈月は無理に笑ってみせた。
「……食えるだけマシ、ってことで」
花英は何も言わなかった。
涼しげな顔で、焚き火のそばに腰を下ろしていた。
目元の表情ひとつ変えず、黙々と米を口に運ぶ。
動じない。疲れを見せない。
むしろ、烈月よりも淡々と、この旅のすべてを“当たり前”のように受け入れていた。
夜になっても、花英は驚くほど自然に動いていた。
暗がりの中で、焚き火の光から離れても、その足取りはまるで躊躇がない。
草を踏み分ける音が、夜の静けさにまるで溶け込むようだった。
烈月が薪を取りに出ようとすると、すぐに花英が戻ってきて、手に乾いた小枝を抱えていた。
「暗いの、平気なんだな」
思わずそう言った烈月に、花英は少しだけ首を傾げた。
「見えますから。音も、匂いも。……精霊は、暗闇の中に生きてきたものです」
その言葉を聞いたとき、烈月はあらためて思い知らされた。
——自分と、花英は、まったく違う存在なのだ。
目に見えるもの。聞こえるもの。
風の流れ、地の鼓動、木々のざわめき。
烈月にとってそれは「感じ取ろうとすればわかるもの」であって、花英にとっては「そもそもそこにあるもの」だった。
同じ道を歩いているはずなのに、見えている世界はまるで違っていた。
烈月は、焚き火の火が落ちてゆくのをぼんやりと見つめながら、己の中に生まれつつあった小さな焦りと、苦い後悔に気づいていた。
——俺、甘かったんだな。
精霊と契約すれば、すべてが特別になると思っていた。
村を出れば、すぐに何かが変わると信じていた。
でも、現実はただ、足が痛く、飯がまずく、眠りが浅いだけだった。
烈月は、ごろりと寝返りを打つ。
夜の大気は肌に冷たく、地面の硬さが背骨を伝ってくる。
目を閉じても、風の音と虫の声がひたすらに広がっていた。
それでも。
その隣に、確かに花英がいること。
たとえ世界の見え方が違っても、同じ方向に向かって歩いているという事実が、烈月の中の冷たい部分を、じんわりとあたためていた。
翌朝、烈月は足を引きずるように立ち上がりながら、ため息まじりに言った。
「……ちょっとだけ、旅ってもんを舐めてたわ」
花英は振り返りもせず、涼やかな声で答えた。
「それでも、昨日より進みました」
烈月は小さく笑った。
自分よりも少し先を行く、その背を見つめながら——この旅は、まだ始まったばかりなのだと、静かに胸に刻み込んだ。
長老が少しばかり路銀は持たせてくれてますが、山を越えて行くことは、そう簡単ではないのでした。