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第七章:静けさのなかの見送り

 旅立ちの朝は、静かだった。


 風は止まり、雲ひとつない空は水を張ったように澄んでいた。朝靄に包まれた村は、まだ眠りの中にいるようだった。どの家も戸を閉ざし、軒先に吊るされた風鈴は動かず、空気はひどくやわらかく、冷たかった。


 それでも、気配はあった。いくつかの戸口がわずかに開き、内側の闇から目だけが外を見ている。誰も声を発さず、ただその視線が、見えない言葉のように空気に浮かんでいた。


 「あの精霊を連れて旅に出るなんて……」

 「役に立つのか?あんな儚げなやつが」


 昨夜、小さく交わされた囁きが、まだ空気の中に溶け残っている。けれど今、その誰の口からも音は生まれない。ただ沈黙だけが、朝の景色を覆っていた。


 烈月は村の外れ、桃畑の小道をひとり歩いていた。草は露を含んでいて、踏みしめるたびにしっとりと靴の底が濡れる。空はうっすらと明るくなり始めていたが、風はまだ姿を見せなかった。木々は息を潜めていて、葉も枝も、寝息のように揺れなかった。


 その中で、花英の姿だけが静かに動いていた。桃の木のあいだをゆっくりと歩きながら、枝に手を添え、何かを語りかけるようにしていた。細く、穏やかな仕草。何も言わずに、ただ木々と対話するような姿だった。


「……最後のあいさつか?」


 声をかけると、花英はふとこちらを向いて、やわらかく笑った。


「はい。この場所をずっと見守ってくれた木々に、別れを伝えていました。でも、最後というより“しばしの別れ”という方が、しっくりきますね」


 烈月はその言葉を胸の中で確かめながら、少しだけ頷いた。


「……そうだな。俺たち、帰ってくるし」


 その一言に、花英の笑みが深くなる。光が差し始め、桃の枝が朝を受けてきらりと揺れた。咲きかけの花は少しだけ頼りなげで、それでもどこか誇らしげに空を仰いでいた。


「……また来ような。ここは、俺たちの“はじまり”だから」


 その言葉とともに、風がようやく動き出した。葉がそっと揺れ、桃の花びらが舞う。朝の静けさの中に、かすかな音が生まれた。それは、誰かの声のように――「忘れないで」と告げるような気配だった。


 烈月と花英は、朝の光が差し始めるころ、長老・嘉凛の屋敷を訪ねた。

 木の門をくぐると、庭の奥にある縁側で、嘉凛が静かに座っていた。手にした茶碗を指先でなぞっている。もう湯気は消えていたが、その仕草は、何かを記憶から呼び戻すように繰り返されていた。


 烈月が歩み寄り、深く頭を下げると、嘉凛はふと顔を上げて目を細めた。


「……どうしても、行くのだな」


 その声には、怒りも困惑もなかった。ただ、ゆるやかな諦めと、微かな名残惜しさがにじんでいた。


「はい」


 烈月の返事は短かったが、しっかりと芯のある響きを持っていた。その奥に、小さな揺らぎがあることに、嘉凛はすぐ気づいたようだった。


 しばらく言葉は続かず、風が屋敷の隙間をすり抜けていく音だけが聞こえた。嘉凛の視線は庭のほうへと移る。

 草の匂い、石畳に根を張った苔、古い木の柱が静かに軋む音――それらのすべてが、この村の時間を語っているようだった。


「……お前のような子が、村に残ってくれればと思わなかったわけではない」


 それは過去形で語られたが、そこには今もなお残る想いが滲んでいた。


「けれどな、村ってのは、ただ守られるだけの場所じゃない。誰かが外へ出て、風を知って、雨に打たれて、それでもまたここを思い出す……そうして初めて“戻る場所”になるんだ」


 その言葉に、烈月は息をのんだ。目を伏せかけたが、ふいに思い直したように顔を上げる。


「……俺、いつか戻ってきたいです。花英と一緒に。そのときは、胸を張って帰れるような旅にしたい」


 その言葉は、まだ拙さも残っていたが、まっすぐだった。嘉凛は目を細め、その顔にわずかな笑みを浮かべた。


 それは、年老いた者の笑みというより、どこか少年の面影を残したような、静かな温かさを宿したものだった。


「……ならば、行け。風の向こうに、答えがあるだろう」


 そう言って、嘉凛はそっと目を伏せた。

 それ以上は、何も言わなかった。引き止める言葉も、惜別の挨拶も。

 ただその背に、見えない祈りだけが宿っていた。



 村を出る道は、なだらかな坂になっていた。

 朝の空気は冷たく澄んでいて、家々の屋根が少しずつ小さくなっていく。


 煙が細く立ちのぼり、空へ溶けていくのが見えた。振り返れば、村の静けさはそのままだった。

 まるで何事も起きていないかのように、変わらぬ姿でそこに在った。


 烈月は一度、足を止めた。


 風が背中を押すように吹いていた。遠くで誰かが笑った気がした。

 子どもたちのはしゃぐ声、走る足音。いくつもの記憶が、胸の奥で柔らかく軋んだ。


「……おい」


 ふいに背後から声がした。


 振り向くと、道の端に凌岩が立っていた。腕を組み、険しい顔のまま、じっとこちらを見ている。見慣れたその姿に、烈月の胸の奥がじわりと温かくなった。


「……言っとくけどな。俺は、お前が旅に出るのが正しいとか、間違ってるとか、そんなことはどうでもいい」


 いつもより少しだけ低い声だった。強がるような、けれどどこか苦しげな響きがあった。


「でもな――途中でくたばったら、ぜってーに許さねぇからな」


 言葉のあとに、短い沈黙があった。凌岩の目は、まっすぐに烈月を捉えている。


 烈月は一瞬だけ目を見開いて、そして笑った。


「……うん。約束するよ」


 その笑みには力があった。言葉より先に、ちゃんと届いていると感じた。


 凌岩は、ふいにそっぽを向いた。肩を少しだけすくめたように見えたのは、気のせいではなかった。


 隣で花英がその様子を見つめ、心の中で小さく呟く。

 ——本当は、いちばん泣きたいのは、あの人のほうかもしれない。


 春の風が吹き抜けた。桃の花の香りが、どこからか届く。


 烈月と花英は、ふたり並んで歩き出す。


 何かが終わった音がして、同時に、まだ知らない始まりの気配が足元に広がっていた。

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