第六章:旅立ちの理由
朝、陽が昇りきる少し前。
烈月は、まだ少し冷たい空気の中をひとり歩いていた。村の屋根が朝靄に沈むなか、彼の足音だけが淡く響いていく。
目指していたのは、村の最奥にある長老の家。嘉凛が住まう、古びた石造りの屋敷だった。
戸を叩くと、しばらくして重い扉が軋む音を立てて開いた。姿を現したのは、深い皺の奥に光を宿す、あの人だった。
「……烈月か。こんな朝早くに、何の用だ?」
「話したいことがあるんだ。大事なこと」
烈月はまっすぐに言った。
嘉凛は少しだけ目を細め、無言で手を招いた。
部屋の中は、どこか懐かしい木と火の匂いがした。机には古い巻物、棚には薬草や記録の壺が並んでいる。その空間は、まるで村の歴史そのものだった。
烈月は正座をして、真っ直ぐに嘉凛を見た。
「俺、村を出たいと思ってる」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気がふっと揺れたように感じた。
嘉凛は、わずかに眉を動かすだけで、すぐには答えなかった。
「……理由を聞いてもよいか?」
「旅に出たいんです。花英と一緒に。村の外に広がってる世界を見てみたい。精霊たちのことも、自分のことも、もっと知りたい。……それに、強さの意味も」
言葉はまっすぐだった。夜の冷たさを越えたあとだからこそ、それは火のように静かで、確かな熱を持っていた。
嘉凛は、長い間黙っていた。
やがて、小さく、深い息を吐く。
「……この村ではな、外へ出る決断をした若者は、お前が初めてだ」
「そうだろうと思ってた」
「掟では、私の許可がなければ、村の外へは出られぬ。……だがそれ以前に、私は“引き止める言葉”を探している」
その声には、これまで幾度となく村を見守ってきた者の重みがあった。だが同時に、どこか寂しげでもあった。
「烈月。お前が今つらい思いをしていること、分かっているつもりだ。……私の力が至らず、村の者たちが冷たく当たっている。それを思えば、出て行きたいという気持ちも無理からぬことだと……」
「違うよ、長老」
烈月は、言葉を挟んだ。
「確かに、つらいこともあった。でも、それだけじゃない。出たいのは、逃げたいからじゃなくて——知りたいからなんだ。俺がこの手でつかんだ“契約”が、どれだけの意味を持つのかを」
嘉凛の目が、烈月の目を深く見つめる。
「誰かに認められるためじゃない。ただ、俺自身が、ちゃんと知っていたい。“弱い”って笑われても、俺は花英と契約したことを誇りに思ってる。だから、この村だけじゃなくて、もっと広い世界で、それを確かめたいんだ」
その言葉は、火のようだった。激しくはないが、ずっと胸の奥で燃えていた炎だった。
嘉凛は目を閉じ、長い静寂のあと、深く頷いた。
「……わかった。だが、すぐにというわけにはいかぬ」
「……え?」
「一週間、待ってくれ。村の掟というものは、感情だけでは動かせぬ。村の者たちと向き合うための時間も必要だ」
烈月は少しだけ考えて、こくりと頷いた。
「わかった。一週間だけなら待つ。その間、桃畑の手入れでもしてるよ」
嘉凛はふっと笑った。その表情には、ほんのわずかに、烈月の決意を嬉しく思う気配が滲んでいた。
「……お前が旅に出たいという気持ちが、ただの衝動ではないことは分かった。だからこそ、私も……その重みを背負わねばならぬのだろうな」
「ありがと、長老」
烈月は頭を下げる。そして、軽やかな足取りで立ち上がった。
窓の外には、やわらかな陽が差し込みはじめていた。風が吹き、どこかで桃の葉が揺れる音がした。
ふたりの背中の向こうで、世界が、少しずつ動き始めていた。