第五章:風が伝えるもの
その夜。
風は冷たく、月はまだ雲の中に隠れていた。
蕾村の屋根の上で、烈月は膝を抱えたまま、ただ静かに村を見下ろしていた。
目の前に広がるのは、いつもと変わらぬ家々の並び。けれど、音が違った。光が違った。
まるでこの場所だけが、自分のいない未来に向かって進んでいるようだった。
眠れなかった。
まぶたを閉じるたびに、凌岩の声が耳の裏側にしつこく残り続ける。
——「もう、お前のこと、仲間だと思ってねえ」
気にしてないはずの言葉ひとつが、どうしてこんなに残り続けるのか、自分でも分からなかった。
「……別に、大したことじゃないよ」
吐き捨てるように、けれど誰にも届かない小さな声でつぶやいた。
——そして、風の中に、もう一つの声が交じった。
「……寝ないのですか?」
その声は、夜気と同じ温度で背後から届いた。
振り返ると、屋根の縁に花英が立っていた。雲間からわずかに洩れた月光が彼の髪に触れ、それを銀の糸のように照らしていた。
「お前こそ……眠らないのか?」
「私は夢の中でも目を開けています。眠るというのは、私には少し苦手な感覚で」
花英はそう言って、烈月の隣に腰を下ろした。板がきしむ音が、しんと張り詰めた空気の中に柔らかく吸い込まれていった。
「昼のこと、気にしていますか?」
返事はなかった。ただ烈月は、目を少しだけ伏せた。
その沈黙に、言葉よりも多くの感情が詰まっていた。
「気配が、揺れていました」
「気配?」
「はい。烈月様は強く見せようとされる。そのぶん、内に揺れるさざ波が、よく伝わるのです」
「……そっか。バレちまうんだな、お前には」
「それも、契約の副作用です」
花英の声は、どこか痛みを含んだような翳りを持っていた。烈月は肩を少しすくめ、どこか独り言のように続けた。
「……凌岩がさ、言ってたろ。もう仲間だと思ってねえって」
言葉は軽く吐き出されたが、その裏に潜む痛みは鋭く、声の端に小さな棘を残していた。
「大したことじゃないって、思いたいんだけどな……。でも、どうしても、耳に残る」
花英は、答えなかった。
夜風がふたりの間をすり抜けていった。どこかで、桃の葉が屋根を転がる微かな音がした。
「やはり、後悔していますか? 私との契約のことを」
「お前のせいなんかじゃない。ただ……変わっていくってことが、思ってたより、重いだけで」
沈黙が降りた。けれどそれは不安の色ではなく、言葉では触れきれない感情たちが、ゆっくりと夜に溶けていくような静けさだった。
「……なあ、花英。お前、精霊のこと、いろいろ知ってるよな?」
「はい。風が教えてくれます」
「風?」
「風は村から村へと渡ります。ときに、精霊たちの囁きを連れて」
花英は、月を見上げた。その瞳の奥に、遠い景色が揺れているようだった。
「北の氷の谷には、凍てついた吐息で道を刻む精霊がいると聞きました。西の砂地には、風の音を読む鳥の精霊が空を渡る、とも」
「……本当にいるのか、そんなの」
「姿を見たことはありません。でも風に触れたとき、記憶の痕のようなものを感じるのです。夢の残響みたいに、誰かの存在が指先に染み込んでくる……そんな感覚」
烈月は、わずかに目を細めた。
「……会ってみたいか? そういうのに」
花英は少しだけ考えるように黙し、そして静かに頷いた。
「はい。私も、自分という存在の意味を知りたい。“異端”と呼ばれるのなら、その理由を確かめたいのです」
烈月は、静かに空を見上げた。
その瞳の奥にあるものは、夜空よりも深く、風よりも遠くにあった。
「……この村、ちょっとだけ、狭く感じるようになってきたんだよな」
風が吹いた。
冷たいはずなのに、どこか温かく、胸の奥を撫でていく風だった。
「だったらさ、行ってみようぜ」
「……え?」
「お前が夢で聞いた精霊たちのところへ。お前が知らない“自分”を見つける旅に。……ついでに、俺も見てみたいんだ。“本当の強さ”ってやつをさ」
花英は、言葉を失ったまま烈月を見つめていた。
その横顔に宿っていたもの——それは痛みでも、怒りでもなく、決意という名の光だった。
そして、ふたりの前に広がる世界は、まだ見ぬ風の向こうで、そっと瞼を開けようとしていた。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。次回もどうぞお楽しみに!