第二章:桃の木は誘う
東の空がゆるやかに白みはじめ、山の稜線をなぞるように柔らかな陽が差し込む。蕾村の家々はゆっくりと目覚め、戸が開かれるたびに朝の空気が流れ込み、炊事の香りと湿った土の匂いが混じり合った。
霧の向こうでは小鳥がさえずり、風が木々を揺らす。
烈月は、まだ夢の余韻を引きずったまま、祖母の家のある村の外れへと歩いていた。
——お前が、私を選ぶのか?
昨夜、夢の中で響いた声が、耳の奥に残っている。淡い銀の髪、静かな瞳、ゆらめく衣の気配——すべてが夢のうちの幻だったのか。それとも——。
祖母の家の庭にある、古い桃の大樹。
枯れかけた幹の中に、何かが眠っているのか。烈月はそれを確かめずにはいられなかった。
◇
桃の木は、谷の外れで静かに佇んでいた。
葉には朝露が滲み、陽の光を受けて微かにきらめく。ほの甘い香りがわずかに漂うが、それは今にも消え入りそうなほどに儚い。
幹は深くひび割れ、枝先は力を失い、まるで時の重みをその身に刻み込んでいるかのようだった。
烈月はそっと手を伸ばし、昨夜と同じように幹に触れる。
「おい、なあ。返事しろよ……」
かすれた声が風に溶ける。返事はない。ただ、葉が静かにふるえ、霧が揺らめくだけだった。
「やっぱり夢だったのか?」
ふっと自嘲気味に呟いた、その瞬間——。
——お前は、何を望む?
それは確かに、聞こえた。
烈月の指先に、微かな温もりが伝わる。それは血の巡る鼓動にも似た、かすかな脈動だった。まるでこの木の奥で、何かが確かに生きているような——。
空気がふっと揺れた。
幹の表皮が淡く光を帯び、桃色の輝きが枝の隙間から零れ落ちる。まるで春の訪れを告げるかのように、微かな花の香が漂った。そして、光の中から、一人の青年が静かに現れる。
淡い銀の髪。桃花の色をした瞳。
夢の中で見た姿、そのままだった。
青年はゆるやかに微笑み、静かに口を開いた。
「……お前が、私を起こしたのですね」
烈月の眉間にかすかな皺が寄る。
「お前、お前って……やめろ。そんな呼び方をされるのは好きじゃない」
青年は瞬きをし、ゆるやかに首を傾げた。
「おや、いけませんか。では、何とお呼びすれば?」
「……俺の名前を呼べばいいだろ」
青年はそっと目を細めた。
「では、その名を——いただいても?」
烈月は、一瞬だけ躊躇したあと、小さく息を吐き、口を開いた。
「……烈月」
それを聞いた瞬間、青年の表情がふっと和らぐ。
「烈月……」
その名を、確かめるように繰り返した。
そして、ゆっくりと目を閉じる。
「烈月様。確かにお名前を『頂戴』しました」
まるでその言葉そのものを噛み締めるかのように。
その声音には、静かな喜びが滲んでいて——それが烈月には、ひどく不思議だった。
「私は、花英。この木に宿る精霊——貴方の……烈月様の契約者となる者です」
契約者。
その言葉の重みが、烈月の胸に静かにのしかかる。
「は、はぁ!? ちょっと待て! 俺はまだ何も契約なんて——」
烈月の動揺をよそに、花英は静かに続ける。
「烈月様が私を呼び覚まし、手を差し伸べ、名前を明かした。ならば、私はそれに応えねばなりません」
風が吹いた。桃の葉がさらりと震え、銀の髪が光をまとって揺れる。
「ちょ、ちょっと待てって! 俺は今日、岩の精霊か、鉄の精霊と契約するつもりで——」
花英は、ただ烈月を見つめていた。その瞳はまるで、「それが本当に貴方の望みなのか」と問いかけるようだった。
烈月の胸に、一瞬の迷いが生まれる。
「……強い精霊を選ぶのが、村の掟だ」
それは、この村で生きる者として当然のことだった。
その言葉に、花英はふっと瞳を伏せる。
「……そうですね。私は、貴方の望む“強さ”を持っていないかもしれません」
けれど——
花英はそっと、烈月に向かって手を差し出した。
「貴方の隣に立ち、貴方と共に歩むことなら、私にもできるはずです」
静かな言葉だった。だが、それは烈月の心の奥に波紋を広げていく。
強さとは、何なのか——。
烈月は、花英の差し出された手をじっと見つめた。
そのとき——。
村の鐘の音が、霧の向こうから響いた。
契霊の儀が始まる刻限が迫っている。
烈月は、まだ答えの出ぬまま、花英を残して村へと駆け出した。
しかし、知らず知らずのうちに芽生えた迷いは、烈月の運命を大きく変えていくことになる——。
(第二章・了)
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
今回のエピソードを書きながら「いつの間にか契約したことになるの怖すぎない?」と思いつつ……まあ、これで成立ではなく、次の話で詳しく儀式の内容が描かれます。引き続き、よろしくお願いします♪