第十二章 風が囁く、忘れられたゆがみ
村の風は、いつも決まった場所をぐるぐると巡っているようだった。
朝には風が霧を払い、昼には子どもたちの笑い声が路地をくすぐり、夕暮れには誰かが火を焚いて、乾いた草の香りが空を染める。
烈月は、日に日に歩ける距離を伸ばしていた。
村人たちは多くを語らなかったが、必要なものはそっと彼のそばに置かれていた。
水瓶のふた、干した果実の小皿、朝摘みの野草。名も告げられぬ手の優しさが、風のように彼に寄り添っていた。
そんなある日の午後――。
烈月は、村の外れにある小さな祠の前に立っていた。
祠は古びて半ば土に埋もれていたが、誰かが手入れしたような跡があり、柱には風の印がうっすらと残されていた。
「……ここ、気になるんですか?」
花英の声が、背後から落ちてきた。
烈月はうなずく。
「なんとなく……呼ばれてる気がして」
「呼ばれてる?」
「風に運ばれたときから、何かが中に入り込んでるような……そんな感じがする」
花英は黙って、祠の面を見つめた。
そして、そっと右手を空へ差し出す。
その瞬間、風が揺れた。
祠の奥で、乾いた葉が擦れる音。
空気が一ヶ所に集まり、音なき声のように渦を巻いていく。
精霊たちが現れた――目には映らぬ、けれど確かに“ここにいる”存在たち。
花英の瞳が、微かに光を宿す。
「……この土地には、裂け目があります」
「裂け目……?」
「風の流れに、歪みがある。昔、精霊と人が共にいた時代――その記憶の断片が、正しく祀られず、今もこの地に縛られている」
烈月は眉をひそめる。
「じゃあ、この祠が……その原因か」
「はい。本来、風の精霊は“縛られる”存在ではありません。でも、かつての人々は恐れた。風を、精霊を。そして“留める”祀りを残してしまった」
花英は祠に向かい、指先で木の面をなぞる。
「精霊の名前を記した文字も、今では誰も読めません。けれど、音なら……」
花英の指先が触れた瞬間、かすれた模様から、風が音を運びはじめた。
それは――かつてこの土地に息づいていた、風の歌。
烈月の記憶の底に、ふいに浮かぶ旋律。
あの少女が口ずさんでいた、あの子守唄に似ていた。
烈月はそっと口を開いた。
「……“めぐれ、めぐれ、風のうた わすれられし名を いま、ひらけ”」
その言葉とともに、祠がわずかに震える。
精霊たちが静かに身を揺らし、村を包む風が一段と強く吹き抜けた。
風が空へ昇っていく。
その流れとともに、何かが解き放たれた。
祠を囲んでいた“縛り”の気配が、ゆっくりと消えていく。
次の瞬間――。
村のあちこちで、風が音を運びはじめた。
家々の布が揺れ、木々がざわめき、火がぱちぱちと歌うように燃える。
子どもたちが笑いながら駆けてくる。
「わぁ……! 風が、笑ってるみたい!」
その声とともに、一人の少女が立ち止まる。
彼女の瞳が、まっすぐ花英を見つめていた。
「……おにいちゃん、見えるよ。ちゃんと、見えるよ!」
花英は驚いたように、けれどゆるやかに微笑んだ。
他の子どもたちも、次々に彼の周りに集まり始める。
無邪気な瞳が、確かに“そこにいる”花英を見つめていた。
「……変わったんですね」
烈月がぽつりとつぶやく。
花英は静かにうなずいた。
「ええ。“忘れられたもの”が、“思い出された”のです」
祠の前で、風がもう一度、烈月の背をそっと押す。
優しく、けれど確かな力で。
それはまるで、「ここはもう、大丈夫」と告げているようだった。
◇
翌朝、陽がまだ淡い金色に空を染めている頃、烈月と花英は村の外れに立っていた。
霧はもう晴れていた。風は柔らかく、草の先を撫でるように吹いている。
村の人々が一人、また一人と集まってくる。
誰も多くを語らなかった。ただ、どの手にも、小さな花や果実、あるいは布で包んだ何かが握られていた。
烈月は少し戸惑いながら、一歩前に出た。
「……ありがとうございました。助けてもらって、何も恩返しができないまま、行くのが申し訳ないです」
言葉は素直だった。けれど、その声には、本心からの感謝が滲んでいた。
その時、村の中央に立っていた老婆がふっと微笑んだ。
「いいえ、おまえさんたちがもたらしたものは、お礼以上のものじゃよ。風が、また村に帰ってきた。それで、もう充分すぎるほどだよ」
その言葉に、村の誰もがゆっくりと頷いた。
子どもたちがそっと花英のそばに寄り、名残惜しそうに手を振る。
今では彼の姿が見えるようになった子もいた。
けれど、それを大げさに語る者は誰もいない。ただ“そこにいる”ことを、静かに受け止めていた。
烈月は振り返り、もう一度村の家々を見渡した。
静かな朝の光に照らされたその景色は、まるで長い夢の中のようで――けれど確かに、彼の中に刻まれていた。
「さて、行こうか」
烈月が声をかけると、花英が静かに頷く。
「東の道を抜ければ、いよいよ都ですね」
烈月は少しだけ笑った。
「長かったな。……でも、楽しみだ。あの都には、いろんな人と、いろんな精霊がいるって聞いてる」
「ええ。見るべきものも、きっとたくさんあるでしょう」
そう言いながら、花英はふと空に目を向けた。
風が一瞬だけ、音もなく揺れる。
「……ただ、少しだけ気になることがあります。精霊たちの間で、都についての“噂”が囁かれていて……あくまで、まだ微かな気配ですが」
「気配?」
「言葉にならない囁き。静かすぎる場所に、声が届かない……そんな感じの」
烈月は何も言わなかったが、その横顔にはわずかな緊張が浮かんでいた。
「ま、実際に見に行けばわかるさ。目的地には変わりない」
「はい。きっと、何かが待っています」
二人は歩き出す。風が背を押すように、その道を照らしていた。
その先に何があるかはまだ分からない。ただ、旅の足取りは、確かに都へと向かっていた。




