第十一章 忘れられた祈りの形
体の奥にまとわりついた重さは、朝になっても抜けきっていなかった。
骨の芯にべっとりと張りついた疲れ。息を吸っても、胸の奥がきしむように重たい。
それでも――俺は、外の空気が吸いたかった。
烈月は、敷布団の温もりを惜しむようにゆっくり体を起こし、壁に手をついて立ち上がった。
踏み出すたびに足首が疼く。まだ痛む。だが、それすらも「生きている」という感覚につながっていた。
木戸を引くと、乾いた音が響いた。
同時に、冷たい霧が肌に触れる。空気が白い。視界すべてが、ぼんやりと霞んでいた。
濡れた石畳の匂い。刈られた草の香り。遠くで、鳥の声。
なのに、耳の奥は不思議と静かだった。まるで、音そのものが霧に飲まれていくようだった。
「……村のはずなのに、まるで森の中にいるみたいだな」
「この村は山に囲まれていますから。風が巡って、音が閉じ込められるんです」
ふいに背後から声がした。振り返ると、花英が立っていた。
まるで空気の一部のように、気配もなくそこにいる。
そうだ。村人たちに彼の姿が見えないというのも、どこか納得がいく。
「外に出て、大丈夫なんですか?」
「少しだるいけど、平気。少しだけ歩いてみたい」
花英は静かに目を細めて、一歩下がった。そして、うなずく。
「では、見える範囲で。無理はなさらないでください」
村の道は、想像していたより整っていた。
固められた土の小道が、家々の間をゆるやかに続いている。ところどころに小さな石の祠。
風に晒されながらも、まるで生きているようにそこに佇んでいる。
祠の前に、黒く焦げた灰と、干からびた花。火を焚いた跡。
「……これ、なんの跡だ?」
俺がしゃがみこみ、灰に指先を触れながら呟くと、道端に腰かけていた老婆がゆっくりと顔を上げた。
「風を鎮める火じゃよ。今はもう焚かんが、昔はようやっておった」
「風を……鎮める?」
老婆の言葉を繰り返しながら、祠の奥に目を凝らす。何もない。ただ、焼け残った香の匂いが、かすかに土の中から立ちのぼっていた。
老婆はじっと俺を見つめ、そして目を細めた。
「おまえさん、風の匂いがするねぇ。春の雨の前みたいな、少し懐かしい匂いだ」
「俺が、ですか?」
「ふふ、精霊でも連れてきたんじゃろうよ。目には見えんが、そういうことはあるもんじゃ」
その言葉には、疑いもからかいもなかった。ただ、あたりまえのように語られた“昔話の真実”。
俺は思わず花英の方を見た。
彼は何も言わず、首を少し傾けただけだった。
その仕草が、「どう受け取るかは、君次第です」と語っているように見えた。
「この村の人たち、精霊が見えないんじゃなかったのか?」
「ええ。でも、“いない”とは言ってません。見えなくなっただけです。そして――それを、忘れないようにしてる」
もう一度、俺は祠に目を向けた。
足元に、小さな白い花がひとつ、そっと置かれている。
朝露をまとったその花は、ついさっき誰かが摘んだものだろう。
そのとき――声がした。
「ねぇ、おにいちゃん」
振り返ると、昨日見かけた小さな少女が立っていた。
手に小さな籠を抱え、俺と花英をじっと見つめている。
「昨日ね、風のおにいちゃんが、あなたを運んできたよ」
「……風の?」
少女は笑って、花英の方に手を伸ばす。
「このひと、花のにおいがする。おばあちゃんが言ってたよ。お花の神さまは、遠くに行っても、春が来たら帰ってくるんだって」
その言葉に、胸の奥がふるえた。
まるで何かが、小さく響いたように。
「……君、この人が“見える”のか?」
少女は、俺と花英を交互に見て、コクリと小さくうなずいた。
「ちゃんとは見えないけど……でも、いるのはわかるよ。あたたかい。風の中に、お花のにおいがするから」
彼女の言葉は、目で見るでも耳で聞くでもなく、“感じる”という力に満ちていた。
見える、見えないじゃない。ただ、確かにそこに“いる”と知っている。
それだけで、すべてが成立しているようだった。
花英の瞳が、ふわりと揺れる。
それは驚きではなく、遠くの記憶に触れたような――そんな目だった。
俺は、ゆっくりとうなずいた。
「……そうか。たぶん、帰ってきたんだな」
少女は嬉しそうに笑い、手の中の花を祠の前に置いた。
その花から、淡く甘い桃の香りが立ちのぼる。春の訪れを告げるような、やさしい香りだった。
ふわりと風が吹く。
霧の粒が、その風に乗って、村の家々のあいだを縫うように流れていった。
その一瞬、俺には見えた気がした。
祠に触れる手。花に頬を寄せる影。
見えないはずの何かの、たしかな輪郭。
花英は、黙って空を見上げていた。
その視線の先には、遠くの山の稜線があった。
ふと気づくと、少女の影が俺と花英の足元に重なっていた。
彼女の小さな手の中には、摘みたての花がいくつか、あたたかく息づいていた。
それは、見えなくなったものたちが、今もこの村で愛され続けているという、ささやかで確かな証だった。