第十章 目が覚めれば、知らぬ空
目覚めの瞬間、烈月はしばらく自分が生きているのかどうか、確信が持てなかった。
視界には見慣れない天井があった。編み込まれた木の梁と、乾いた草の香り。肌の下には柔らかな敷布団。すぐ近くで、誰かが静かに息をしている気配があった。
ゆっくりと首を動かす。動かすたびに身体の節々が軋むように痛んだが、耐えがたい苦痛ではなかった。窓の向こうに薄い霧が立ち込めていた。陽はまだ高くなく、夜の余韻を残した白んだ空の下で、小さな家々の屋根がまるで積み木のように重なっていた。
「ここは……どこだ?」
声が、やけにかすれていた。喉に張り付いた空気が、しばらく言葉を拒んでいたかのようだった。
そのとき、ふっと誰かの気配が近づく。空間が微かに震える。温度ではなく、密度が変わるのを感じる。次の瞬間、懐かしい声が静かに響いた。
「烈月。気づいたんですね」
視線を横に向ければ、そこには花英がいた。淡い霧のような光に包まれた彼は、かつてと変わらぬ眼差しで、けれどどこか安堵を滲ませながら、彼を見下ろしていた。
「花英……あの獣は?」
「逃げました。倒せたわけじゃありませんが、ひとまず……今は安全です」
烈月は、ふう、と長く息を吐いた。それから、ゆっくりと体を起こそうとする。けれど、全身が鉛のように重く、肩をわずかに動かしただけで、皮膚の下から鈍い痛みがじわじわと広がった。
「……ちょっと待ってください。まだ身体は本調子じゃないんですから」
花英の声は、命令でも懇願でもない。ただ、確かにそこに“彼を守ろう”とする意志が込められていた。花英の指先がそっと烈月の背に添えられた瞬間、肌に伝わる冷たくて優しい感触に、烈月はようやく現実に引き戻された気がした。
「俺……倒れてたよな」
「はい。列月様はもう何も食べられないくらい弱ってました。意識も、ほとんどなかった」
「じゃあ、今は……どこに?」
花英は、窓の外へ目を向けた。その眼差しは遠くの霧を見ているようでいて、同時に、かつて置き去りにされた何かをも見つめていた。
「風の精霊の助けを借りました。この村まで運んでもらったんです」
「村?」
烈月はようやく、自分がどこかの建物の中にいるのだと理解した。布団の下には木の床があり、壁には手描きの風の文様。火の使われた痕跡はないのに、不思議と空気は冷たくない。むしろ温もりに近い何かが、空間全体にゆっくりと流れていた。
「ここは“見えなくなった人たち”の村です」
「見えなくなった?」
花英は小さく頷いた。
「昔は精霊が見えていたそうです。でも、何かのきっかけで、それを失ってしまった。いまは、私のことも、もちろん見えません」
「……それで、誰もお前のことに触れなかったのか」
烈月はぼんやりと夢のような記憶をなぞった。自分を運ぶ風、木々のざわめき、香のような、懐かしい匂い。そして、何者かの腕が、確かに自分を抱えていた温もり。
「でも、なんとなく……わかってる気がする」
「ええ。彼らは“感じている”んです。風の動き、花の香り、ふいに立ち止まって空を見上げるような、そんな小さな気配を」
「そっか……」
烈月は、かすかに笑った。村の誰にも理解されなかった日々を思い出しながら、それでも「見えないものを感じ取る」ということが、こんなにも穏やかで優しい営みだと知って、胸の奥がじんわりと温かくなった。
思い出したように、彼は尋ねる。
「俺を運んだのは、お前……ひとりか?」
花英はわずかに目を伏せた。
「私が案内しましたが、村人たちが、あなたを抱えてくれました。最初は戸惑っていました。“誰もいないのに、身体だけが空に浮いている”と。でも……」
——記憶が、花英の言葉の先を補った。
霧の中、意識が遠のく烈月を支えながら、風が優しく巻き起こる。
花英の姿は誰にも見えない。けれど、彼の声なき祈りのような導きに応えるように、村の入り口にいた老人が、足を一歩踏み出した。
「これは……運命の御使いだ」と誰かが呟いた。若者が烈月の腕を支え、女たちが布を持ち寄り、子どもたちが走って火を焚いた。
ひとつの生命が、誰のものでもなく、ただ“誰かのために”扱われていく。それは説明のつかない連携であり、同時に、見えない存在を信じるための儀式のようでもあった。
額に浮かんだ汗を、誰かが拭う手のやさしさ。喉元に落ちた滴をそっと拭き取る指の細さ。ひとり、またひとりと、烈月の傍に人が集まり、無言のままその命を抱きしめてくれていた。
「ありがとう」
烈月が呟くと、花英は静かに笑った。目には見えなくても、彼の微笑がそこに確かにあった。
「なあ、花英。この村、不思議な場所だな」
「……そうですね。少し、昔の何かが残っている。忘れられたままじゃなくて、“手放したくなかったもの”が、まだ息をしてる感じです」
烈月は頷きながら、うっすらと開いた窓の先を見つめた。霧は少し晴れ、陽の光が淡く差し込んでいる。遠くで子どもの声が響いていた。
それは、見えない誰かと話しているような、そんな声だった。