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第九話:襲いかかる災厄

旅に出て、五日が過ぎた。


歩を進めるたび、山の輪郭は少しずつ変わっていく。標高は静かに上がり、空気の密度も、肌を刺す冷たさも、日に日にその質を変えていた。


朝の冷えは骨に染みるほど鋭くなり、岩と土の色は赤味を失い、灰がかった色に落ち着いていった。


その日、ふたりは偶然、小さな泉を見つけた。


斜面の割れ目から細い糸のように清水が流れ出し、岩を伝って小さな水たまりを作っていた。陽が差すと、穏やかな波紋の上に光の破片が踊り、そこだけが時の流れから取り残されたような、不思議な静けさに包まれていた。


烈月は泉の縁に膝をつき、両手で水をすくう。そのまま乾いた喉へと流し込んだ。


「……生き返る……」


喉の奥を水が滑り落ちる。ひんやりとした冷たさが、体の奥へと沁み渡っていく。乾いた皮膚の内側まで、静かに潤されていくような心地だった。


旅は依然として厳しい。


だが、最初の数日よりは少しだけ、野営の準備に慣れてきていた。火の起こし方、風よけとなる枝の組み方、石を積んで鍋を支える術。

烈月の身体は少しずつ、生きるための所作を覚えはじめていた。


長老・嘉凛から託された路銀。

小さな革袋のなかに入っていたのは、乾燥食、干し肉の薄片、数枚の銅貨、それに干し薬草の束だった。


それらは、できる限り最後まで取っておくと烈月は決めていた。

というより、そもそもこの山奥では、使うあてもないのが現実だった。


いまは僅かな手持ちの食糧と、花英が見つけてくる山の実や根菜、野草を頼りに、どうにか日々をつないでいる。


「これ、たぶん茹でたらいけると思います」


花英が手渡してきたのは、縁のギザギザした緑の葉。煮ると、かすかな苦みと一緒に、土のような匂いが立ちのぼった。


食べられた。けれど——


烈月の腹は、それだけでは満たされなかった。

育ち盛りの身体は、もっと重みのあるものを求めていた。


川で身体を清めたとき、水面に映った自分の姿に、一瞬だけ息をのんだ。


浮き上がった肋骨。痩せこけた頬。

目の奥が、以前よりも深く影を宿しているのがわかった。


夜の冷えは厳しく、眠りも浅い。


それでも烈月は歯を食いしばり、前を向いて歩きつづけていた。

進めば、きっと何かが変わる。

その一心だけが、脚を動かす力になっていた。


 ——そして、その夜だった。


 月は丸く、森の梢の上に、どこか不安げに低く浮かんでいた。

 風は止み、虫の声もかすれるように小さくなっていた。


 焚き火の熱が、まだわずかに石の間に残っている。

 烈月がまどろみの縁でまぶたを閉じたとき、隣に座る花英の耳が、ぴくりと動いた。


 その反応に、烈月は本能的に目を開ける。


「……どうした」


「何か、来ます!」


 花英の声は低く、けれど確かな輪郭を持っていた。


 耳を澄ますと、ガサリ、と草が裂ける音が聞こえた。

 それに続いて、濁った唸り声。獣のものとも、そうでないものともつかぬ、異様な低音だった。


 森の影が揺れた。

 現れたのは、灰色と煤けた黒をまとった異形の獣。

 狼にも山犬にも見えたが、その背中の毛は逆立ち、牙はむき出しに泡を吐き、眼だけが赤黒く濁って光を帯びていた。


 烈月は立ち上がり、腰に手を伸ばしかけたが、そこに武器はない。

 短剣など持っていなかった。旅の荷にあるのは調理用の小さな刃物だけ。あれでは到底戦いには使えない。


 辺りを見渡す。視界の端、倒れた木の根元に朽ちかけた太い枝があった。

 烈月はそれを拾い上げる。節が多く、重くて不格好。けれど、棍の訓練で叩き込まれた身体が、その重みの扱いを覚えている。


 そのとき、花英が烈月の袖を軽く引いた。


「左から来ます」


 烈月は頷き、枝を両手で構える。

 腕が重い。空腹と疲労で、握力すら危うい。肺の奥はすでに乾いて、呼吸が熱く痛む。

 けれど、退けない。ここで倒れれば、すべてが終わる。


 獣が突進してきた。まるで弾丸のように、地面を裂く勢いだった。


 烈月は横へ転がってかわす。直後、獣の爪が空を裂き、焚き火の火花が宙に跳ねた。


「右に回り込みます」


 花英の声は、風の動きを読むように静かだった。


 烈月は声の通りに振り返り、枝を横に振る。

 しかし、空気を切るだけで獣には届かない。奴は、速い。しかも狡猾だ。


 影のように獣が地を這い、今度は花英のほうへ回り込もうとする。


「——こっち!」


 花英が烈月の手を引いた。その瞬間、獣の牙が虚空を噛む。

 あと数瞬遅れていたら、あの牙は喉元を裂いていたかもしれない。


 烈月は息をつき、体勢を整える。枝を再び構え直す。

 次で終わらせるしかない。そうでなければ、こちらが終わる。


 獣が跳んだ。


 烈月は一瞬だけ後ろへ退いたふりをして、逆に左へ踏み込む。

 枝を右に大きく振り抜いた。


 ——鈍い音が響いた。


 枝の先が、獣のこめかみに命中した。

 呻き声が、森の奥へと響きわたる。


 しかし獣はまだ動く。

 烈月の脚を狙い、唸り声とともに突進してくる。


「右脚、引いて!」


 花英の声。それに従い、烈月は反射的に脚を引く。

 次の瞬間、獣の爪が地面を裂いた。


 その裂けた土の隙間に向かって、烈月は枝を振り下ろした。

 最後の力を込めて。骨に届かずとも、重さだけは込めた。


 獣が叫び、地を蹴って森の闇へと逃げ去っていく。


 ——そして、烈月の体から、力が抜けた。


 棍を杖代わりにしようとしたが、腕は言うことを聞かなかった。

 膝が崩れ、地面へと倒れ込む。


 視界がぐらつき、耳の奥が遠くなっていく。


 最後に感じたのは、肩に添えられた手のぬくもりだった。

 花英が、隣にいた。


 「もう大丈夫。行きました」


 その声は、水面に落ちる雫のように静かで、優しかった。


 烈月はその言葉に、小さく頷いた……つもりだった。


 だが意識は、ほどける糸のようにゆっくりと、静かに闇のなかへ沈んでいった。

 焚き火の残り火がぱちりと弾け、風が笹の葉を揺らす音だけが、遠く、遠く、耳に残っていた——

作者は左右の識別が苦手なので、書きながら若干混乱してました。自分が烈月なら食われてそう……。

次回は、初めて故郷以外の村を訪れる話です。

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