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母性のめざめ

「リリアーヌ様、少しお話しできるかしら?」


 離れの扉をノックすると、中から機嫌のいい鼻歌が聞こえた。


「どうぞお入りになって」


 まるで自室に友人を迎え入れるかのような軽い調子だ。


 私は扉を開け、室内に足を踏み入れた。


 リリアーヌは窓際の椅子に腰かけ、カーテンを靡かせながら、まどろむように紅茶を飲んでいた。蜂蜜色の金髪はゆるく結い上げられ、ルビー色のシルクのガウンを纏っている。


「ねえ、セシル様。ここの紅茶って本当においしいのね。毎日飲んでも飽きないわ」


 彼女は屈託なく笑い、私の方に手招きする。


「あなたも飲む? さっき、厨房でお菓子を作らせたのよ。一緒に食べましょう」


 ゆっくりと首を振り、否定を示す。


「リリアーヌ様、少しだけ真面目な話をさせてもらえるかしら?」


 彼女は片眉を上げ、面白がるように私を見た。


「まあ、公爵夫人が真面目なお話だなんて、なんだか怖いわ」


「あなたの自由な振る舞いについて、屋敷の者たちが少し困っているの」


「まあ!」


 リリアーヌは口元を手で覆い、わざとらしく目を丸くした。


「私、何か悪いことをしたかしら?」


「ええ、まずは――」


 深呼吸し、できる限り穏やかな声で続けた。


「歌のことよ。朝の廊下での歌は控えてもらえるかしら?」


「えっ?」


 彼女は本当に驚いたように目を瞬かせた。


「でも、朝って楽しいじゃない? 目が覚めたら、お日様が輝いていて、今日も素敵な一日になるって思うと、つい歌いたくなるのよ」


「気持ちはわかるわ。でも、朝は皆、仕事の準備で忙しいの。それに、ここは公爵家なのよ。屋敷の中で酒場の歌を響かせるのは、あまりふさわしくないと思わない?」


「……むぅ」


 リリアーヌは唇を尖らせた。


「じゃあ、せめて小さな声でなら?」


「ハミング程度なら許容範囲かもしれないわ」


「うーん、わかったわ。妥協してあげる」


 頷いたものの、どこか不満そうにティーカップを弄ぶ。


「あと、お風呂のことだけれど」


「それもダメなの?」


「いえ、回数を制限するつもりはないわ。でも、香油や花びらを撒くのは控えてくれるかしら。片付けるのが大変なのよ」


「ずいぶん、細かいことを気にするのね」


「それが『家を守る』ということよ」


 堂々と告げるとリリアーヌは唇を噛み、じっと私を見つめた。


「……ねえ、セシル様。あなたって、本当にきちんとしてるのね」


「そうかしら?」


「ええ。私はいつも、目の前のことだけを考えて生きてきたから、そんな風に物事を整えていくのって、ちょっと不思議」


 彼女は小さく笑い、足を揺らす。


「でも、嫌いじゃないわ。あなたが私のことを本気で『ちゃんとしたい』と思ってくれてるのが、なんとなく伝わるもの」


「……あなたの奔放さには、正直少し振り回されているけれどね」


 小さくため息をつくと、彼女はくすくすと笑った。


「ふふっ、私を引き取るってそういう覚悟もあってのことでしょ。一応努力はするわ。歌も、お風呂も、夜の庭散歩も、できるだけ控えるわ。でも、もしもどうしても抑えられなかったら――その時は大目に見てね?」


「できるだけ、よ」


 彼女の目をまっすぐ見つめる。


「……それで、厨房の件だけれど」


「あ、それは譲らないわよ!」


 リリアーヌは笑いながら、ティーカップを掲げた。


「だって、甘いものを食べる時間だけは、誰にも邪魔されたくないんだもの」


 子どものように頬をふくらませる彼女に呆れて、小さく笑ってしまう。


「……仕方ないわね。でも、ほどほどにね」


「ええ、努力するわ」


 彼女はにっこりと微笑む。


 この日を境に、ぎこちなかった私たちは少しずつ、折り合いをつけながら歩みよることになった。


 まるで、正反対の性質を持った二つの花が、同じ庭で咲くように。



 *



 秋の陽射しが差し込む離れの一室で、リリアーヌは窓辺の長椅子に腰かけていた。妊娠六ヶ月を過ぎた彼女の腹は、ゆるやかな曲線を描いている。


「私ね、絵を描くのが好きだったのよ」


 紅茶を傾けながら、リリアーヌが何気なく話はじめた。


「初耳ね。じゃ、スケッチブックを用意しておくわ。暇つぶしにも胎教にも良さそうだし」


「親が十七歳の時に、二十三歳のハンサムで物静かな絵画の先生を家庭教師につけてくれたの。春の庭で、お互いをスケッチし合うのに夢中になって。先生は知識が豊富で、学び合う情熱がいつしか、恋心に変わっていって、私は誘惑に負けたのよ」


 唐突な告白に、驚いて手元の刺繍を刺す針の動きを止めた。


「それって……」


「想像通り、体を許したってことよ。当時は恋する気持ちは本物で、この人と人生を歩みたいって本気で願っていたんだけど」


 リリアーヌは遠くを見るような目をしながら続けた。


「今思えば、一人の女性として見てくれる彼の視線に、高揚感を覚えていただけだったみたい。それで誘惑に、口づけの先に続く愛の形に対する好奇心に負けてしまったんだわ。無邪気だったのよ、あの頃の私は」


 彼女は片手で自分の髪を弄びながら、自嘲的な笑みを浮かべた。


「結局のところ、私の純潔を奪った翌日、先生は泣きながら両親に謝罪して、家庭教師をやめたの。理由は簡単。身分の差、それから自分一人が生きるのに精一杯な経済力では、私を養うなんてとんでもない。ついでに、何不自由なく育った令嬢はいずれ苦しい生活の中、不甲斐ない自分を恨むようになるだろうって。実に体のいい断り方よね」


 淡々と語られる内容は、あまりに重すぎて何と返していいかわからない。


「一度傷物となった私は、もうまともな結婚はできない。そればかりか、実家の領地経営もカツカツで、持参金も期待できない。だったら一生独身で、自由に生きていこうと決めたの。これが私のルーツよ」


「そう……だったのね」


 リリアーヌが紅茶を一口飲んでから続けた。


「だから子どもなんて、一生いらないって思っていたの」


 彼女は自分の大きくなった腹に手を当てた。


「別にミシェル様が好きなわけでもないし、子ども好きでもない。自由を奪われる厄介な存在に、生死をかけるつもりもなかったんだけど」


「だけど?」


「不思議ね。今、私はこの子の誕生を心待ちにしているし、産みたいと思っているわ」


 リリアーヌは私を見て微笑んだ。


「好きじゃないなら、どうして?」


 単純な疑問をぶつけてみた。


「孤独から脱することができたから、かな」


「孤独?」


 首を傾げる。


「そう。朝から晩まで。いつも一緒にいるでしょ。最近は動いてるのがわかるの。最初はうわぁって、気持ち悪かったけど、今は動かないと心配に思うくらいには、気になる存在になってる」


 リリアーヌの手が、ゆっくりと腹の上をなぞる。


 その仕草は、彼女らしからぬほどに優しくて、どこか神聖なものにさえ見えた。


「あなたに子どもをあげるって言ってたけど、産まれてきたら、私が育てていいかな?」


 思いもよらぬ問いかけに、指先がぴくりと震える。


 とっさに答えられなかった。ただ、手元の刺繍に目を落とし、針の先を見つめる。


 ひと針、ふた針。規則的な動きを繰り返してみる。けれど、さっきまで自然にできていたはずの動作が、今はひどくぎこちない。


「……育てる、の?」


 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど乾いていた。


 リリアーヌは私の反応に気づかないのか、あるいは気づいていながらも気にしないのか、柔らかく笑う。


「そうよ。だって私のお腹にいるのは、私の子でしょう?」


 何の疑いもない声音だった。


 当然のことのように、自分の子と呼ぶ彼女に、私は一瞬、息が詰まる。


 正直なところ私は、彼女との日々を送るうちに、勝手に母になるつもりでいた。彼女の代わりにこの子を育て、母と名乗るつもりでいた。


 でも今、目の前の彼女は、自分の意志で母になろうとしている。


 それが、ひどく眩しく見えた。


「そう……ね」


 誤魔化すように呟いて、そっと針を置く。


 窓の外を見ると、秋の陽射しが紅葉を透かしている。あたたかく、穏やかな午後。


 リリアーヌのお腹の中の子は、今、どんな風に世界を感じているのだろう。


 暗闇の中で、小さく手足を動かしながら、リリアーヌの声を、そして私の声を聞いているのだろうか。


「……元気な子を産んで」


 気づけば、そう願っていた。


 嫉妬のような、焦燥のような感情は、確かに私の中に生まれた。


 けれど、それ以上に、ただ願わずにはいられなかった。


 見守り続けている、彼女の子が無事に生まれてくることを。


 彼女が母になることを。


 私が手に入れられなかったものを、彼女が手にしようとしている。


 心から望む私に与えられなくて、好きでもない、夫でもない男性の子をいとも簡単に身ごもった彼女を、ずるいと妬む気持ちがある。


 それでも――。


「産まれたら、抱かせてくれる?」


 問いかけた私に、リリアーヌは、少し驚いたように瞬きをした。


 そして、ふっと微笑む。


「ええ。もちろん。私はこんなだから、しっかり者のあなたにも手伝ってもらうつもりよ。だから、覚悟していてね」


 指先が、少しだけ温かくなった気がした。


 視線の先には、白バラと深紅のバラが、同じ庭で美しく、そして等しく咲いている。それは、まるで私たち二人の関係を象徴するかのように、私の目に映った。

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