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真実の告白

 夫婦の寝室で、季節外れに炊かれた暖炉の炎が、私たちの影を壁に揺らめかせていた。


「君に話さなければならないことがあるんだ」


 暖炉に向かって横並びになった椅子に座るアンドリューは、静かに私の手を取った。


「リリアーヌ嬢の子は、僕の子ではないんだ」


(じゃあ一体誰の子なの?)


 彼が名を明かすのを待つ。


「ミシェルの子らしい」


 その名を聞き、思わず目を見開く。


 ミシェルは、アンドリューの弟だ。


 六年前。国を挙げた近隣国との戦いに海軍兵士として参加した彼は、海上戦闘において敵の蒸気艦を沈めた英雄として帰還して、十字勲章を国王より授与された人物。


 立派な功績を挙げたはずの彼は、帰還後、まるで人が変わったように酒に溺れることが多くなり、見目麗しい見た目もあってか、女性との噂が絶えず、社交界一の放蕩者に成り下がっている。


 その件について、同じく海軍兵士として参加したアンドリューによると。


『悪夢にうなされているんだよ。たとえ勝利して終えたとしても、殺戮が当たり前に行われる日々に身を置いた者は、傍目には見えにくい傷を負っているものだから』


 ミシェルの放蕩っぷりに寛容な態度を示している。


 当のミシェルは、「結婚など、私には縁のないもの」と宣言し、今も独身を謳歌中。


 英雄であり、自由奔放で、魅力的で、けれどお酒臭くて女にだらしない、心に傷を負った人。


 それが私と同じ歳で、義理の弟でもあるミシェルという人物だ。


「すべては僕の責任だ」


 アンドリューは苦しそうに目を伏せた。


「弟の名誉を守るため、僕が愛人を持っているという噂を利用した」


 黙って彼の言葉に耳を傾ける。


「戦争に参加して、僕は嫡男だという理由だけで前線任務を免れた。けれどミシェルは肩に負った傷が示す通り、生き残るために戦う日々を強いられていた。正直そのことに負い目があるから、どうしても彼を庇いたいと思ってしまったんだ」


 アンドリューは苦しげに目を伏せたまま、静かに続けた。


「君の事を蔑ろにするつもりはなかった。けれど、もっと早くにこの問題を知らせておくべきたったと、後悔している」


 苦しそうに吐き出された言葉に、何も返せなくなる。


 リリアーヌの子がアンドリューのものではなく、ミシェルの子だったという事実。それ以上に、彼が弟のために嘘をつき、自らを悪者に仕立て上げたことが、私の胸を締め付けた。


(私に言えなかったのは、不妊の件に囚われた私に、悩みを共有できなかったから)


 暖炉の火が揺らめき、影が壁に滲む。耳を澄ませば、薪がはぜる音だけが静寂の中に響いていた。


「アンドリュー様、あなたは……何もかも背負い込もうとしすぎるわ」


 震える声でやっとの思いで言葉を紡ぐ。


 アンドリューは微かに苦笑しながら、まるで子どもみたいに私の肩に頭を乗せる。


「君に辛い思いをさせてすまない。でも、これが僕の選んだ道だ。弟を守るためなら、僕は何を言われても構わない。ミシェルも君も、僕にとっては大事な家族だから」


 正直すぎる告白に、胸が痛む。


 兄でありながら、戦場で苦しむ弟を救えなかった悔恨。


 名門の長子であるがゆえに、守られる立場にあった自分への嫌悪。


 そして今、弟の過ちさえも自らの責任として引き受けようとしている。


 彼はいつもそうだ。誰よりも強く、誰よりも優しい。でもその優しさが、彼自身をどれほど傷つけているのか。


 私は妻なのに、そんな彼を支えるのではなく、困らせてばかりで愚かすぎるにも程がある。


 彼を喜ばせるどころか、悲しませるばかりの自分が情けない。


 自分への罪悪感で心に厚い曇り空が広がりそうになる。けれど、飲み込まれてたまるかと、言葉を吐き出す。


「私は、何があっても、あなたが望むことを尊重するわ」


「ありがとう、シシー」


 暖炉の火が、小さくはじける音を立てた。


「リリアーヌ嬢は、懇意にしている修道院で密かに出産させて、その後、可哀想ではあるけれど子どもは孤児院へ預けようと思う。彼女は修道女として生きてくれたらいいけど、そういう生き方を選びそうもない。手切れ金を寄越せと、言ってきたからね」


 明かされる事実の重みが、ゆっくりと心に沁み込んでいく。


(孤児院に預けられる……)


 ずしりと心に重くのしかかる決断だ。


「リリアーヌ様が妊娠したと聞いた時、ミシェルは何か言っていたの?」


 慎重に言葉を選びながら問いかける。


 アンドリューは苦しげに眉を寄せ、ゆっくりと首を振った。


「……いいや。何も言わなかった。ただ、リリアーヌ嬢が子どもを金で手放そうとしていると知った時、ミシェルは何もかも投げ出したように笑ったんだ」


 ミシェルの冷めた笑顔が脳裏に浮かぶ。


「僕は、ミシェルに子どもを認知するよう説得したんだけど。でも彼は、そんな資格はないと言って拒んだ。親になれるほど立派じゃないらしい。そういうことをしている癖にと思ったけれど、親にはなれないの一点張りでね」


 その答えは、ミシェルらしいとも思えた。


 彼は決して善人ではないし、自らの主張を曲げない頑固な人だから。


「アンドリュー、あなたはどうしたいの?」


 静かに尋ねると、彼は迷いなく私の手を握りしめた。


「もし君がそれを望むならだけど」


 言おうかどうか、迷っている。そんな間があって。


「僕たちの子どもとして育てるのもアリかなとは思う」


 小さな声で遠慮がちに告げられた。


「リリアーヌ嬢が金で子を手放すと言うなら、君のもとで育てるのが最もふさわしい。君なら、心から愛し育ててくれるだろう?」


 私はそっと目を伏せた。


 子どもが欲しかった。どんな手を使っても、自分の腕に抱きたいと思う気持ちは今だってある。


 けれど、お腹を痛めていない私が母になれる自信なんてない。


 母親は子どもをお腹で十ヶ月も育てた人が、なれるもの。


 でも、世間一般の意見を認めたら、私は子を育てる資格がないことになる。


(そんなの、嫌よ)


 誰かの母親になりたいと、切実に願う。


「私が……母に、なれるかしら」


 不安が滲む声に、アンドリューは優しく囁いた。


「君は、誰よりも優しい母親になれると思う。けれど、無理にとは言わない。人を育てることは、責任や覚悟を伴うことだから、安易に決めていい問題じゃないし」


 逃げ道があることを示され、ホッとする一方で、奇妙な痛みが心に残る。


「セシル」


 アンドリューが私の顔を覗き込む。目の下には隈があって、だいぶ疲れている様子だ。


「許して欲しい。君に辛い思いをさせてしまってばかりなことを」


 彼の顔には、深い後悔の色が浮かんでいる。弟を想う兄としての苦悩と、妻を傷つけてしまった夫としての懺悔の情が混ざり合い、深く沈んで見えた。


「謝らなきゃいけないのは私の方だわ。ごめんなさい」


 これまでの苦しみを受け入れ、そして許し、許されたいという思いを込めて、静かにアンドリューの手を包み込む。


 大きくて、だけど今は少し頼りない手を愛おしいと思う気持ちがこみ上げる。


「色々あったような気がするけど、私たちの愛には、嘘はなかったのね」


「ああ」


 アンドリューは力強く頷く。


「君だけが、僕の妻だから」


 涙が溢れそうになる。


「私も......あなたを愛しているわ」


 夫婦の寝室に、暖炉の炎が静かに燃え続けていた。

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