深淵からの生還
「っ…」
ポトリと冷たい雫が頬を濡らし、目を開ける。
「正気か!」
横から聞こえた声に、ゆっくりと顔を向けるとアンドリュー様がいた。どうやら私は、彼の膝の上に頭を乗せているようだ。
「どうして、どうしてこんなことを」
濡れた髪から水滴を垂らし、着衣も乱れたまま、彼は震える声で私を睨む。
「アンドリュー様?」
かすれた声で呼びかけると、彼は激しく私を抱きしめてきた。
「頼むから、死のうなどと、二度と考えないでくれ」
怒りを吐き出す彼は、震える腕で私をぎゅうぎゅう包み込む。
「本当に、無事で良かった」
そんなはずはないのに、私はまだ生きているらしい。
「私、どうして……」
水を飲みすぎたせいか、喉がヒリヒリと痛む。
「メアリーが知らせてくれて」
「え?」
驚いて辺りを見回すと、少し距離をおいた所にメアリーがいた。
どう見ても、泣き腫らした顔で。
「メアリー。ごめんなさい」
「私こそ、奥様を一人にさせてしまい申し訳ございません」
「いいえ。私がこっそり屋敷を出たのが悪いのよ」
「でも、私がもう少し気を効かせて――」
この世の終わりみたいな表情をした彼女の言い分を、慌てて遮る。
「私ね、もう疲れてしまったの」
アンドリューが驚いたように私を見つめてきた。そんな彼に微笑みながら続ける。
「あなたの子を産むことも出来ないし、アンドリュー様の妻でいることに疲れたの」
「シシー」
彼が小さく首を振る。
「私ね、ずっと考えていたわ。あなたには相応しくないんじゃないかって」
「何を言うんだ。 そんなことがある訳ないだろう?」
泣きそうな表情で彼は、私を抱く手に力を込める。
「シシー、君は僕の妻だ。 君以外と子を作る気なんてないし、子宝に恵まれなくたって君以外を愛するつもりはない」
彼の腕の中は温かくて、とても優しい。その温もりが嬉しくて、でも辛い。
「ありがとう、アンドリュー様」
私は彼の背中に腕を回した。
「あなたの子なら、きっと可愛らしい子が生まれるわ」
「……シシー?」
私の言葉の真意を測りかねたのだろう。腕の中から私をのぞき込む彼に笑って答える。
「リリアーヌ様は、あなたの子を身ごもったとおっしゃっていたわ」
敢えて明るいトーンで言葉を繋ぐと、アンドリューが表情を硬くした。
「それは、違うんだよ。誤解なんだ」
「誤解?」
「ああ。僕は君を裏切るようなことをした覚えはない」
「でも彼女は、お腹の中にあなたの子がいるって」
歯を食いしばるように、彼はゆっくりと言葉を吐き出す。
「リリアーヌ嬢が妊娠したのは確かなようだが、僕の子ではない」
「え?どういうこと?」
首をかしげる私の両肩に手を乗せて、彼は口を開く。
「詳しいことは、後でしっかり説明する。だけどこれだけは言わせてくれ」
彼は林に溶け込むような、エメラルドグリーンの瞳を私に真っすぐ向けた。
「僕は、君以外の女性を愛せない。だから、僕から離れるなんて言わないでくれ」
彼の視線が私を突き刺す。
今の言葉は嬉しいけれど、重すぎる。
彼を苦しめている原因が私なら、その苦しみから解放したいと願っているのだから。
(それに、そんなことを言われたら)
泣きそうになるけれど、グッとこらえる。
「私はあなたから離れたいわけではないわ。むしろその逆。ずっとあなたのそばにいたい」
愛情に振り切った気持ちが爆発して、つい本音を明かしてしまう。
彼の指が、濡れた私の髪を撫でる。
「もう二度と、君を手放したりはしない」
彼の頬を涙が伝う。
ポトリと私のおでこに落ちた雫は、湖の水のように冷たくはなく、生命の温もりを感じさせるものだった。
「君がいてくれるだけで、僕は十分なんだ」
深い闇の底から、温かな光の中へと導かれたような安堵感に包まれながら、アンドリューの腕の中で、静かに目を閉じた。
(ごめんなさい。やっぱりあなたのそばにいたい)
出来損ない、死に損ないの私だけど、その思いだけは揺るぎそうもない。