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沈む

 朝日が窓から差し込んでくる。


 いつもと変わらない光なのに、今朝はどこか冷たく感じられた。アンドリューの温もりのない寝台は、まるで冬の湖のように冷たい。


「なるほど。お帰りにならなかったのね」


 ついて出た愚痴が、部屋の静寂を破る。


 いつもなら、この時間になると彼の腕が私を求めてそっと伸びてくるはずなのに。


 私の髪に触れ、頬を撫で、そして――。


 記憶は昨日まで変わらず訪れていた幸せを、容赦なく突きつけてくる。


 思考を振り払うように首を振る。


 今日彼が隣にいないというのが、現実だ。


 たった一日で、こんなにも世界は変わってしまうものなのだろうか。


 寝台に置かれた彼の枕に顔を埋める。冷たいけれど、そこには確かに彼の匂いが残っている。


 昨夜、彼は「今日は遅くなるので、先に寝ていて欲しい」と伝令をよこした。


 それが意味するところを、私は悟っている。


 脳裏に無邪気に微笑み、お腹をさするリリアーヌの美しい笑みが浮かぶ。


「お目覚めですか、奥様」


 侍女たちが部屋に入ってきた。


「ええ」


 身を起こし、微笑む。


 いつもと同じ朝の儀式が始まろうとしている。


 彼女たちは気を遣うように、普段よりも静かに動く。


 この調子だと、昨日のリリアーヌの来訪のことは、屋敷中に知れ渡っているのだろう。


「今朝は軽めの朝食を、お願いできるかしら」


 自分の声が、どこか他人のもののように聞こえた。


 身支度を整える間も、頭の中は昨日までの朝の温もりでいっぱいだった。


 彼の腕の中で目覚める幸せ。


 その記憶が、ひとりぼっちの現実をより一層残酷に感じさせる。


 フリルが派手すぎず、可愛らしくも女性らしい桃色のドレスに着替えた。


 鏡に映る自分は、完璧な公爵夫人のまま。


 髪も、化粧も、装いも。でも、リリアーヌと同じ青い瞳は、どこか虚ろな目をしている。


「アンドリュー様」


 その名を呟いた瞬間、喉が詰まった。


 昨日まで、この名を口にするたびに感じていた幸せは、もう二度と戻らないのだろうか。


 窓の外では、庭のカスミソウが朝露に濡れて輝いていた。その美しさが、今の私には残酷なまでの皮肉に思えてしまう。


 結婚して五年。


 初めて一人で迎えた朝は、こんなにも冷たく、そして寂しいものだったことを知った。




 *




 自らの命を絶とうとする瞬間は、本人の意思とは関係なく不意に訪れるものらしい。


 リリアーヌが屋敷を訪れた翌日、一人で迎えた朝。


 惨めで、寂しくて、悲しくて、それでもきちんと朝食は取った。


 少し一人になりたくて、誰にも告げず屋敷の敷地内を散策することにした。


 リリアーヌのお腹の子どものことを考えながら林に入り、なだらかな斜面を下り、草深い一画に出た。


 目の前に広がるのは、慣れ親しんだ小さな湖だ。


 透明な水面には空の青さと、ぽっかり浮かぶ白い雲が映り込んでいる。


『子どもの頃から数えきれないくらい泳いだんだ。夏になると、僕も弟のミシェルもここを溜まり場としてよく遊んだんだよ』


 アンドリューの言葉を思い出しながら、吸い寄せられるように湖面に向かう。


 ぎこちない感じで、初めて彼と口づけを交わしたのも、この場所だった。


『君と、たくさんの子どもと。この湖で遊べる日が待ち遠しい』


 アンドリューは、屈託のない笑顔で語っていた。


「ごめんなさい」


 私には、その夢は叶えてあげられそうもない。


「リリアーヌが彼の妻になったら叶うのに」


 呟きは、とても素敵な案に思えた。


「つまり、私は邪魔者なのね」


 正解を示すように、天から湖面に光が差しこむ。


 湖面に映る太陽が、まるで誘うように揺らめいていた。


(湖に沈んだら、全てから解放される)


 そのことに気付いた途端、不思議と心が落ち着いた。


 思うがまま飲み込まれてしまえば、愛する人に望むものを与えられない運命も、愛人に夫の子が授かったことも考えなくて済む。友人とのお茶会で気を使うことも、使わせることもない。


 何より愛する夫に、子を成せない私は誰にも相応しくない。


 穏やかな風でさざめく湖面に飲み込まれたら、ふわふわと浮かぶ白い雲にのって、天国まで行けるような気がした。


 アンドリューに会えなくなるのは辛いけれど、数十年ほど待てばきっとまた、あっちの世界で彼に会えるはずだ。


「会えなかったら、私と彼は元々結ばれる運命ではなかったということだもの。諦めるしかないわ」


 ゆっくりと水辺に足を運ぶ。


 足首を撫でる水が冷たくて気持ちいい。


 ドレスの長い裾を濡らしながら、一歩、また一歩と湖に歩み入った。


 おいでと、誰かに誘われている気がして、暗くなった部分をめがけてゆっくり進む。


 底なしの闇が、優しく包み込んでいく。


「これで、すべて――」


 水面が胸元まで達する。ドレスが重く、足が徐々に沈んでいく。不思議と恐怖はなかった。ただ、心地よい虚無感だけが私を包む。


「――ん」


 頭まで水に浸かり、息苦しさを感じて本能的に手足をばたつかせる。


 沈泥が舞い上がり、まるでスノードームの中に閉じ込められたみたいだと思った。

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