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愛人との対峙

「奥様!」


 慌ただしく温室の扉が開かれ、侍女長のメアリーが飛び込んできた。いつもなら決して見せない取り乱した様子に眉を寄せる。


「どうしたの? そんなに慌てて」


「申し訳ございません。ですが、フォンテーヌ家の令嬢が――」


 躊躇するメアリーの言葉を遮るように、廊下から嬌声が響いた。


「どこにいらっしゃるの? 大事な話があるのよ」


 甲高い声に続いて、カタン、カタン、とヒールの音が近づいてくる。


「止めようとしたのですが……」


「分かったわ」


 すでにアンドリューの相手についての噂は耳にしている。


 男爵家の末娘で、その美貌と奔放さで貴族社会を騒がせているリリアーヌ・フォンテーヌ。幾人もの高位貴族の愛人を渡り歩き、今はアンドリューの寵愛を受けているらしい。


 まさか乗り込んで来るとは思わなかったけれど、放置もできない。


 ゆっくりと手元の刺繍を置き、優雅に立ち上がる。


「お通しして」


「ですが」


「いいの。公爵夫人として、客人をお迎えするのは当然の務めですから」


 静かに微笑むと、扉が勝手に開く。


「ああ、お止めしたのですが」


 困り果てた様子で小さくなる侍女の隣に、深紅のドレスに身を包んだ女性が立っていた。


 年齢は確か今年二十歳になったばかりだったはずだ。


 どういうわけだか、社交界デビューをしていないらしく、私が顔を合わせるのは初めて。


 美しい金の髪は緩やかに波打ち、白い肌には官能的な艶が漂っている。上品に整えられた化粧の下から、どこか野性的な魅力が零れ出ている人だ。


「まあ、噂通りお美しい方ですこと」


 リリアーヌは部屋に入るなり、品定めするように私を上から下まで眺めた。


「でも、少し堅苦しすぎるかも?」


 彼女の言葉には、明らかな挑発が込められているものの、不思議と悪意は感じられない。


 まるで、そう言わずにはいられない、生まれ持った奔放さに従ったまでといった印象を受けた。


「ようやくお会いできましたわ、セシル夫人。私はフォンテーヌ男爵家のリリアーヌです――と名乗ると、父に叱られちゃうわね。なんせ勘当された身だから」


 リリアーヌは肩をすくめ、まるで旧知の友人のようにフランクに微笑んだ。


「メアリー、紅茶を用意して」


 非常事態を前に、動揺する心を隠し冷静に命じる。


「いいえ、結構ですわ。そんなに長居するつもりはありませんから」


「では、ご用件は?」


 こちらの問いかけに、リリアーヌは艶のある笑みを浮かべた。


「アンドリュー様のことで」


 彼女は優雅にソファに腰かけると、まるで自分の屋敷であるかのように寛いだ様子で続けた。


「私、妊娠したの。もちろん、アンドリュー様の子よ」


 まるで、勝利の宣言のような響き。


「おめでとうございます」


 条件反射的に飛び出した言葉とは裏腹に、心が凍りつく。


 ――アンドリュー様の子よ。


 その言葉が意味するところは、やはり不妊の原因が自分にあるということ。


 ぐらぐらと足元が揺れるような絶望を覚える。


「ねえ」


 こちらの気持ちなど、お構いなしといった様子でリリアーヌは身を乗り出す。


「私ね、いざこざを望んでいるわけじゃないの」


「では、何をお望みなのかしら?」


「正直、命の危険を犯してまで、子どもを生みたくない。でも、流石に堕胎も出来ない。だから産むしかないわけだけど」


 上目遣いでこちらを眺める眼差しは、どこか魔性的なものだった。


「私は誰かの妻になるつもりはないの。だから私の子を、買ってくれないかしら?」


「子を買う?」


 予想していなかった言葉に、思わず言葉を失う。


 リリアーヌは意味ありげに微笑んだ。


「あなた、子どもが欲しいのでしょう?怪しい占い師に縋るくらい追い詰められているって、アンドリュー様がこぼしていたわ 」


 あまりに不名誉な話に眉を顰めるが、心当たりがあり過ぎて否定する気も起きない。


 何よりアンドリューが、夫婦間で留めて置くべき話を目の前の女性――愛人に自分のことを漏らしていたという事実に衝撃を受けた。


 ぐるぐると世界が回る感覚がして、とっさにソファーの背を掴む。


(目の前の女性は愛人で、私は正妻よ。それなのに、アンドリュー様の子を神から与えられたのは愛人である彼女で私じゃない)


 突きつけられた現実があり得ないことすぎて、感情が置いてきぼりになる。


(一体私の何が、神様から恨みを買ったのかしら?)


 浮かぶ疑問に答える者はいない。


 ただ、気まずい静寂が広がるだけだ。


「流石に未婚で子を成すことがあり得ないってことは、あなたにもわかるでしょ?もちろん愛人に子が出来たなんて、アンドリュー様の名誉だって傷つくわ。だからこの子が生まれるまで私を匿って欲しいの。それで、無事出産できたら、あなたの子として育ててくれて構わないわ」


 彼女の声は命に関するやりとりとは思えない軽やかなものだった。


「私の子として?」


「あなたは私と同じ髪の毛に、目の色だわ。だから上手くいけば世間にバレないし、何よりあなたは子どもが欲しいんでしょ?」


 リリアーヌがまだ膨らみのないお腹を撫でる。


(ほんとうに、そこにはアンドリュー様の子がいるの?)


 動揺する心を押し隠しながら、静かに口を開く。


「主人には、お知らせしたのですか?」


「いいえ」


 リリアーヌは間髪入れずに首を振った。


「この件に関して、アンドリュー様は私と同罪だわ。だから、唯一の被害者である奥様に真っ先に伝えなきゃと思ったの。結局のところ、子どもを育てるのは妻であるあなただし」


 残酷すぎる言葉をあっけらかんと口にする彼女に、傷つく暇もない。


「それとも、他に何か問題でもあるの?」


 彼女は小首を傾げると、じっとこちらの目を見つめた。


 まるで青空を写し取ったかのような澄んだ眼差しに、悪意は感じられない。


 そのせいか、つい本音を漏らしてしまう。


「いいえ、主人さえ許せば、何も問題はないわ」


 そう、問題はない。


 ただ自分が惨めで、覚悟が持てないだけ。


 この先、その子を見るたび、彼の不貞行為を思い知らされるだろう。育児で思い通りにいかない時、「私の子ではないから」と言い訳をしそうな自分を不安に思うだけだ。


(でも、私が子を成せないことは確定したも同然だわ)


 だとすると、彼女の提案を飲み込むべきなのかも知れない。


 あり得ない提案であるはずなのに、心が揺らぐ。


「私は、彼を支えるだけですから」


 明言を避けつつ、きっぱり告げる。すると、リリアーヌは意外そうに眉をあげた。


「ふーん、そんな感じなのね」


 つまらなそうに呟く。


「てっきり、愛人を前に取り乱すかと思ったのに」


 今度は明らかに悪意ある、棘がある言葉だ。


(でもこっちの方がやりやすいわ)


 人から羨まれ、嫉妬される人生を歩んできた私にとって、敵意をかわすことの方がずっと容易いものだ。


「ご心配なく。私は主人を愛しておりますし、どんな時もそのお心を支えようと、覚悟しておりますので」


 笑顔で告げるとリリアーヌは納得したように頷く。


「なるほど。あなたって本当によく躾けられた妻ってわけね」


「ありがとうございます」


「でも、私も譲れないの。だって妊娠しちゃったんだもの。この子には、素晴らしい親が必要でしょう?」


 同意を求める彼女に静かに微笑みかけた。


「そうですね。それに、いまさらですけれど。そもそも子を産み育てたいのなら、正式な夫人となってからの方が良いかと思いますわ」


 リリアーヌはケタケタと笑い出す。


「確かに。それはそう。でも悪評高い私を妻にと願う人なんていない。だからこうして頼みにきてるのよ。まぁいいわ」


 満足そうに微笑むと、立ち上がる。


「ご決断、お待ちしています。できれば、早めにね」


 リリアーヌは深紅のドレスをひるがえし、踵を返す。


 そのまま部屋を出ようとする彼女を、侍女長のメアリーが慌てて引き留める。


「お待ちください。お一人で帰らせるわけには参りません!」


 リリアーヌは軽く首を振っただけで足を止めようとはしなかった。


「まるで檻に入れられるのを拒む、蝶のような人ね」


 世間体も、立場も、そういったものには一切の関心を示さない。ただ、目の前の愛を、命を、欲しいままに謳歌しようとする、そんな天性の奔放さを彼女から感じた。


 それは、慎み深く生きるよう心がけてきた私には、決して理解できない生き方だった。

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