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知らない香り

 最初に気付いたのは、香りだった。


 アンドリューの上着に染み付いた、見知らぬ香水の痕跡。それは男性を誘惑するような甘い香りで、私が好むものではなかった。


 もちろん、アンドリューが好んでつけるはずもないし、屋敷の誰かから香ったこともない。


 それに加えて、彼の行動にも不審な点があった。


 議会のための打ち合わせだの、領民との代表会議に出席するからと、もっともらしい理由をつけては外出して、帰宅時間が遅くなることが最近増えた。


「愛人ね」


 とうとうこの時が来てしまったのだと、その事実を静かに噛み締める。




 *




「お帰りなさいませ」


 いつもと変わらぬ声で出迎える。


「ただいま」


 アンドリューも、いつもと変わらぬ優しさで微笑む。


 私に向けられた笑顔に偽りはなさそうだ。


 だからこそ、より一層胸が締め付けられた。


「遅くなってしまって、すまない」


「いいえ」


 さり気なく差し出された上着を受け取る。


 今日もまた、私の知らない怪しい香りを持ち帰った。


「付き合いも大事ですもの」


 妻として期待される一番の責務――子を成せない自分には夫を責める資格がない。


 何より私は彼を愛している。だから、愛人の存在には気づかないフリをする。


 問い詰めたら最後、彼の隣に存在できる幸せを壊してしまうから。


 繋がりを断たれるのが怖くて、「愛人」なんて言葉は口にできないし、したくない。


 部屋の明かりが揺らめく。仄かな光が私たちの影を壁に映し出す。


 秘密を抱えた私たちを映し、ゆらゆら揺れる影は、どこか歪んで見えた。


「寝室の壁紙を、張り替えたいと思うんです」


 唐突に飛び出す言葉。


「壁紙を?」


「ええ、少し色褪せてきましたから」


 実際には、壁紙は完璧な状態を保っていた。それでも続ける。


「私たちの結婚式の時から変わっていませんもの。それにモーブ色にすると、男性はそういう気分になりやすいと占いの先生がおっしゃっていたの」


 はにかんだ笑みと共に告げると、アンドリューの表情が微かに歪む。


 他の女を抱いた罪悪感。もしくは、未だ子どもを授かることを諦めず、占いに頼る私への嫌悪感。


 どちらの気持ちから来るものなのかは、わからない。


「そう、だね」


 アンドリューは取り繕うように微笑み、私に向き直る。


「君が望むなら、張り替えよう。でも、僕はモーブ色にしなくても、いつでも君をこの腕に抱きとめておきたいんだけどな」


 甘い言葉と共に、彼は肩を抱き寄せた。


 距離が近づき、静かに目を閉じる。


 唇が自然と触れ合う。


 柔らかな感触は心地良く、少し冷たい。


 何より、同じ事を他の女性にしていると想像すると、心が嫌な方に震えた。


「愛してる」


 唇が離れて、囁かれる言葉。


 わざとらしく紡がれる愛の言葉は切なくて、哀しい色を帯びて私に伝わる。


「僕はどんな君も、愛してるよ」


 他の女の香りがする胸に抱き込まれ、吐き気がした。


「私もあなたを愛してます」


 彼の胸板に頬をつけて本心を口にしたのに、悲しくなった。


 私は今どんな顔をしているのだろう。


 ちゃんと笑えているのだろうか。


 彼の目に、私はどう映っているのだろう。


 そんなことばかりが気になって仕方がない。


 部屋の明かりが揺らめき、私たちの影が重なる。




 *




 侯爵家の娘として丁寧に、大事に育てられた私は、他の貴族女性がそうであるように、アンドリュー以外の男性を知らないし、知りたいと思ったことはない。


 朝起きた時、世界で一番愛する夫が隣にいる。それだけで、これ以上望むものなんてないくらい私は幸せだ。


「ん、シシー」


 アンドリューが目を覚まして私にキスをしてくれる。アンドリューのキスはいつもとても優しい。啄ばむような優しいキスで終わる日もあれば、彼の情熱のままに激しいキスで終わる日もある。


 今日は後者のようで、目を開けた私を見下ろしていたアンドリューは微笑んでゆっくりと目を細めた。


「おはよう」


 その笑顔にキュンとする。幸せで胸がいっぱいになって、思わず彼の首に抱き着くと、私の背中にもアンドリューの手が回った。


「今日はお仕事は?」


「君とこうしてまったりしたいから、休みにしようかな」


「ふふ、叶ったら素敵な一日になりそうだけど、私の旦那様は人気者だから無理ね」


「君だけに人気者であればいいんだけどな」


「まぁ、お上手」


「本気だよ」


 アンドリューが私の額にキスをする。そして、私の背中に回していた手をそっと動かした。その手がどこに向かおうとしているかなんてすぐに分かる。彼の予定を狂わせてはいけないと、慌てて彼の胸を押す。けれど、彼は悪戯っぽく笑うだけ。


「まだ朝よ?」


「うん、でもシシーに触れたい気分なんだ」


「もう……仕方ない人ね」


 呆れた顔を返しながら、内心私も彼に触れたいのだから同罪だ。


 もちろん、子どもの問題もある。けれど、好きな人に触れたい気持ちだってある。


 アンドリューの隣で朝を迎える権利は妻である私のもの。


 彼が心からの愛を分け与えてくれるのは、妻である私だけ。


「シシー」


 熱のこもった声に、身体が熱くなる。


「愛してるよ」


 ベッドに縫い付けて、私を求めるアンドリューを受け入れる。彼の愛を一身に受けながら、私の頭の片隅に張り付く、愛人という恐ろしい文字。


 他の女を抱いた体で、私を抱きしめるなんて、とても不誠実だし、意味がわからない。


 でも、アンドリューが分け与えてくれる愛を拒むことなんて、できない。


 だから愛人に触れた手で、私をなぞることを許す。


 許すから「せめて」と、願う。


 何人たりとも、私から彼を奪わないでと。

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