~ いま あした ~
朝倉義景殿の動きが思いの外鈍いことにイラついた義昭殿は細川藤孝殿、信長殿の正室帰蝶殿の親類筋の明智十兵衛光秀殿を各地の有力大名へ派遣していた。
義昭殿は上洛して三好・松永党が擁立した現将軍から将軍職を奪取する野望を持っていた。
京からやや距離の離れている武田、北条、毛利は返事は良いがなかなか具体的な動きには結びつかない。
かといって朝倉と境を接した上杉は有力だがいままでかくまってくれた朝倉と対抗している関係上言い出せず、本願寺も将軍家とは暗黙の敵対をしているので弱みはみせられず…と八方ふさがりの状況だった。
六角佐々木も今は力は衰え三好・松永党に敵し得ないのは明白だし、なにより三好党に近いだけにこれを今の義昭が寝返らせるだけの材料もない。
消去法で最終的に残ったのは朝倉と近い近江浅井氏と同盟関係を結んでいる信長殿に白羽の矢がたったという具合だった。
「輝信、どう思う?」
「唯一、信長殿しか頼る先がなくなった…そんなところでしょうね」
「ふざけている」
「世間知らず…ということです」
「名前と過去の栄光しか知らぬということか?」
「そういうことです。ですから藤孝殿が最初から信長殿を推していたにもかかわらず、義昭殿は武田、毛利あたりを当てにしていた」
「明智十兵衛光秀はどう思う?」
信長殿は義昭殿の使者としてやってきた明智殿を待たせている部屋の方へ視線を動かした。
「道三殿討ち死にのときに美濃を脱出して諸国を巡り歩いた苦労人…のわりには頭はやや古いようですね」
「使えるか?」
「知識はあります。実行力は…慎重に、考えてから動き出すお方のようですから…」
「ふむ」
「ともあれ信長殿のお考えの通り、義昭殿をとりあえずかついで上洛することが先決かと思います」
信長殿の花押は世に知られた
天下布武
義昭殿をかつぎ浅井殿と協力して六角佐々木氏を電光石火で倒した信長殿。
一気に三好・松永党も京から追い落としてしまった。
この辺の戦の才能は信長殿は卓越している。
そして京の町では兵士の乱暴、略奪行為を禁じて治安の維持を徹底した。
これまで源九郎義経様以外京の町を支配したどの軍勢にもなかったことだった。
主上、公卿にも当面の金銭を与える一方、将軍御所を再建し義昭殿と幕府廷臣を迎え入れ、御所の修築にも着手した。
信長殿の凄いところはこの機に京都商人だけではなく、これまで自治を続けてどの大名ににも負けなかった堺衆を屈服だせたことだ。
将軍入洛、堺支配に続いて近隣の諸大名を将軍の名で京へ呼び寄せ、応じない者は将軍家に反抗するものとして逆賊の大義名分をたてて攻撃した。
ある朝、信長殿に挨拶に行くと彼は珍しく難しい顔をして書院に座り込んでいた。
「どうしましたか?」
「愚問」
「朝倉ですか…」
「うむ」
朝倉義景が上洛の命に従わない。あからさまに反抗の手紙を信長殿へ送ってよこした。
「ご自分がしきれなかったことを、信長殿に先を越されて悔しいのでしょうね」
「子供か?」
「往々にしてある嫉妬…と言う奴ですね」
「ふん。さっさと上洛してしまえばよかったものを、な」
「自信がなかったのでしょうね」
「小心者が…先祖の名前にあぐらをかいた井の中の蛙よ」
「その通り、ですが、まだまだそういうお人が多いのも事実です」
「将軍、公卿がその最たる者だな」
「とはいえ…どうするおつもりですか?」
「攻める」
「それは…」
「浅井か?いくら隠居が吠えたとて長政が寝返ることはなかろう?」
わたしは目を閉じて、かつてお市殿の輿入れの時に会った長政殿とその父である隠居の久政殿を思い出していた。
「信長殿」
「なんだ?」
「危険ですね」
「どういうことだ?」
「浅井と朝倉の縁は信長殿のお考えではたいしたことのないことですが、浅井にとってはかなり重いものと思います」
「であるか」
「確かに久政殿、長政殿の実力で近江で独立したとはいえ、やはり朝倉の後ろ盾は六角、京極の両家の他、近江の地侍や土豪衆には影響力があります」
「……」
「同盟の約定にも朝倉と事を構えることはしてくれるなと釘をさしてもいます」
「だが…」
「仮にいつものように一気に攻め込めば、朝倉を一乗谷まで追いつめることはそう難しくはないとも思います」
「うむ」
「ですが浅井が裏切ればどうなります?」
「む」
「退路を断たれ、挟撃に会って苦戦もしくは敗走、討ち死にも考えられます」
「寝返るか?」
「五分五分」
「そこまでか?」
「はい」
「ではどうする?」
「まずは長政殿とじっくりと談合されるのが良いと思います」
「ふむ、そうしよう」
わたしはそこでもうひとつ提案した。
「そろそろ義昭殿に一度お灸をすえるときかと…」
「藤孝を呼んである」
さすがにそこは信長殿も手回しがいい。
「私が長政殿のもとへ使者に立ちます」
「行ってくれるか」
「もちろんです。ここへご到着までにご意志を固めていただけるよう努力します」
「頼む」
「それと」
「まだあるか?」
と聞いたとたん信長殿はにやりと笑う。
「石山の坊主どもだな?」
「はい。それと上杉殿」
「こっちが挟撃するか?」
「それが上策と思います」
「謙信殿は乗ってくれると思うか?」
「信玄殿との戦はいま小康状態です。能登、加賀に本願寺勢を押し込めて越中から越前の国境への進軍までならできると思います」
「ちと時間がかかるな」
「ここは慎重に、後に悔いを残さぬように進めましょう」
「うむ」
浅井を敵にしてはいけない。
それはわたしと信長殿の共通の思いだった。
そして私たちは古き良きもの守るものと、徹底的に戦うものを明らかにしていた。
信長殿が思い描く天下像をできるだけ早く実現させるために…
その第一歩は将軍家という形だけの権威をなしくずしにすること。
畿内の古い権威に守られただけで人々から搾取する者をねじ伏せること。
そのために、どうしても信長殿には盟約者として三河の徳川家康殿と近江の浅井長政殿、そして北国を制する上杉謙信殿を援護することが必要だった。
【続】