第一話 4:黒い森の住民たち
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なんとか一時間足らずで巣を見つけられたのは運が良かったというべきか、単に場所が近かっただけか。
いずれにせよ【中層】と呼ばれるほど高く登った先の、太い枝葉からロバート某の血肉の匂いが濃く漂ってきていた。
熱源観測魔法【捜母】で視れば、周囲より高体温の猿の群れがすっかり冷え切った死体を囲んでじっとこちらを伺っている様子がわかる。
俺が猿に気づいていることを、猿もまた気づいているのだ。せっかくの食餌を置いて逃げ出すのは惜しいが、だからといって迎撃する様子は死体に群がっている連中からは伺えない。
巣の周り以外にも猿の気配はあちこちから感じる。一体何十匹いるのか、向こうが犠牲を惜しまず俺を返り討ちにすることを選んだ場合まず勝てるわけがないのでそんな気にならないよう願うばかりである。
俺はあくまで【回収屋】であり、迷宮内の魔物とは獲物の奪い合いであってもドンパチを起こす気はない。
だから、あらかじめこういう事態を想定して背嚢の中に用意していた円筒を手に持ち、紙で覆われた先端を破った。
円筒の先端には紐が付いており、内部に潜り込んでいる。俺はその紐の一点に熱量を一瞬で急激に上昇させる魔法を起動させた。
元々紐は発火点が低い繊維素材で出来ているため、高熱魔法で容易に発火した。火は瞬く間に円筒内部に潜り込むと、凄まじい量と勢いの煙を噴き出し始める。
嗅覚の強い魔物を追い払うための発煙筒だ。吠人がいる場所に放り込むと殺意を向けられる代物だが、つまりはそれほどまでに敬遠したい代物だという証拠である。
――キーーッ! イーーッ!
煙が俺自身の目をも燻すので目を閉じた。周囲からは煙と火を嫌がって威嚇の声を上げながら、俺から距離を取る猿の鳴き声が響き渡る。
俺は左手でもう一本の魔獣撃退用の発煙筒を取り出し、そちらも着火させる。目を閉じていても熱源観測魔法で猿が群れる巣の場所はわかるので、そこに向かって右手の発煙筒を放り投げてやる。
猿たちは獲物を放り出して一目散に逃げ出した。
俺はすぐさま気流操作魔法を発動し、巣の場所まで跳び移った。左手の発煙筒を枝の上に置き、そのかわり銃把杖を抜いて気流魔法の精密常時起動を行う。
目を開くと、気流操作の魔法によって煙が俺の周囲を避け、辺り一体にのみ煙をばら撒いて猿どもを追い払い続けている状況が確認できた。
「よし、じゃあさっさと仕事を済ませてしまいま――うおっ!」
煙を突っ切ってきた大振りの枝が俺の足元に叩きつけられた。何事かと枝が飛んできた方向を熱源魔法で観測すると、猿どもが木の枝を折っては俺に向かって投げつけ始めている。
それも周囲を見渡せばあちこちで同じことを数十匹の猿がやり始めた。
煙のおかげか狙いがいい加減なのが幸いだが、これでは発煙筒や周囲に散らばっているであろう装備品が足場にしている枝から落ちるのも時間の問題である。
手荒な真似は魔力量の問題からもしたくなかったが、こうなっては仕方あるまい。
「あっち行きやがれ!」
悪態と共に俺は両手で銃把杖を抜き、気流操作の魔法を中断して一つの魔法式の起動に専念する。
狙うは同一点。まずは左の杖で猿どもが乗っている枝の一点を、最大出力で低温化させる。何匹かの猿が足元の凍結に気づいたようだが、既に遅い。右の杖で最大最速出力の極高温化魔法を同一点にぶつける。
ぼぉんっ!
と派手な音と共に枝が爆発を起こした。猿どもが足場にできるほど巨大な枝は猿ごと木片となって吹き飛ぶ。
水は凝固点を越えるまで冷やすと凍結し、沸点を越えるまで暖めると水蒸気になる。この性質の変化によって千倍を優に越える体積差が生まれる。
一瞬で氷が水蒸気へと相転移を起こすと、急激に膨れ上がった水蒸気は周囲の物体や気体もろとも音速を越える速度で広がり、破壊力となり、つまりは水蒸気爆発を起こす。
熱量操作魔法の中で、俺が使える数少ない攻撃用魔法【気爆】だ。
爆発の威力と音で猿どもが居竦まる。その隙に、もう一つ二つ猿の集団が足場にしている枝を爆破して叩き落としてやると、猿どもは名残惜しげな威嚇の鳴き声と共に、俺の周囲から去って行った。
ここまで大仰で乱暴なやり方は本意ではないのだが、攻撃されたのなら反撃するしかない。なまじ相手が猿なだけに、投擲という遠隔攻撃手段があったのがお互いにとって不幸だった。
だが、背中からうなじにかけて、平衡感覚を一瞬失わせるほどの疲労感が駆け抜けた。霊脈に宿っている魔力を無理に消耗してしまった時に起きる感覚だ。
樹木は水分を含んでいる点では【気爆】起動に都合の良い媒介なのだが、あらゆる生物は大なり小なり魔力を保有しており他者からの魔法抗体として機能する。よって、植物である木に【気爆】を連続起動するのは俺の保有魔力量ではかなりキツい。
ともあれ早く仕事を済ませてしまわないとまたも猿が何か厄介なものを投げつけて来るかもしれない。オオミミザルの知性はどれほどのものかまだ研究段階であり、冒険者の遺失品の使い方を学んでいる説もあるくらいなのだ。事が起きてから対処するのは望ましくない。
俺は背嚢から、死体を回収するために用意していた襤褸布を取り出して枝の上に広げた。喰われかけの死体を襤褸布の上に置き、枝の上に散乱した肉片や装備品をまとめてかき集め、これもまた布の上に置いていく。
黙々と作業を進めたいところだったのだが、上半身を食うのに邪魔で剥ぎ取られていたらしい防具を拾ったところで、思わず感嘆の声が出た。
「ほう! すげぇな。白大蛇の胸甲!」
ツェズリの大迷宮の深層でも、滅多にお目にかからない魔物である白大蛇の骨と鱗を使って作られた逸品だ。あのあたりにもなると法式に干渉して魔法を無効化する肌で覆われた魔物が闊歩しているらしいが、白大蛇はその中でも美しさと実用性が高いレベルで両立された、貴族必涎の素材である。
遠目に見たことはあれど、実際に手に取るのは初めてだ。こんな高価な品を持っていたとは……ネコババしたい所だが、二つの理由で辞めた。
一つは、モノがあまりに希少品なので売りに出せば、俺が回収対象に手を出したとあっという間にバレて事務所の信用が落ちてしまうこと。
二つめは、これはもう美品でないことだ。胸甲のはずなのに、胸の部分に大きな穴が空いており用途を果たさない。
それにしても不可解な穴だ。物理的にも魔法的にも堅牢な白大蛇の鱗をこうもやすやすと貫通し、拳が通りそうなほどの大穴を空けるとは、並大抵の技術でやれることではない。それに、破れてめくれ上がった鱗の装甲は胸甲内部に陥没しているのではなく、外周へと開いているのだ。
つまりこれは内部から――とまで考えて、考えるのは後でもできると思考を切り替えた。とにかく今はここから脱出するのが先決だ。
胸甲を含めて布に諸々をまとめると、ベルトでぐるぐる巻きにしてさらにその上に麻袋を被せ、これもまたベルトでがっちり固定する。
そのベルトの金具に不燃性の紐を結びつけ、これまた不燃性の高い火蜥蜴の革で覆った布の四隅に紐を結わえる。
不燃性の布内側の空気を魔法で暖めると布は風船のように立ち昇り、死体の入った麻袋を浮き上がらせた。熱気球の原理でモノを浮き上がらせる魔法【通張】である。
浮いた麻袋のベルトの固定金具と背嚢の金具を合わせ、俺はその背嚢を背負う。
これである程度の重さを魔法に肩替わりさせ、背嚢を背負う感覚でモノを運搬することが可能になる。浮遊魔法の出力をトチったり急な風が吹くと俺の身体が気球に流されるが、そもそも気流全般を操るのが俺の機動力の根幹なのでそのようなミスはしない。
「さて降りるか」
そう呟いた俺は発煙筒が振り撒く煙を突っ切り、大樹の枝から飛び降りた。