タコヤキ
* * *
親方譲りの赤茶がすすけた屋台に、雨がぽつぽつと垂れた。五月雨というか、霧の都ロンドンというか、そんな感じの雨だった。まあ、今は七月で、ここは埼玉の「ゴリラ公園」なのだけど。こんな天気では客なんて来る訳もなく、俺のタコヤキ職人としての見せ場なんてある訳がない。
さて、ここ「ゴリラ公園」はなかなかに広く犬の散歩に訪れる人も多い。緑の自然や黄緑の草むらや茶色のグラウンドと一体になれる公園だ。ただ、広さに比して、ブランコや滑り台といった遊具が足りないだけ。とも言う。
何故「ゴリラ」かと言うと、公園の正面口の背の高い時計の柱に、テカテカ光る巨大なゴリラが、ぶら下がっているから。それだけで地元の人にはそう呼ばれている。正式の名称はあるにはあるけど、粟野町緑ガ丘第二運動公園、だったかな、第三だったかな、とみんなうろ覚えだから「ゴリラ公園」なのだ。
しかし、本当に客が来ない。
この雨は六月頃からだっただろうか。辺りを灰色混じりの白い雲が覆い、いっそのことパッと降れば良いものの、ジトジトと汗のように少しずつ雨を垂れ流していた。野球少年もサッカー少年も、この雨で訪れることはない。散歩をする人も右手に犬のリード、もう片手に黒い傘をさして歩いている。これでは、タコヤキを食べる手が空かない。ガキどもはきっと家でスプラトゥーンをやってるんだろう。その父親もスプラトゥーンでもやってるんだろう。その母親もスプラ。はは、ゲーム天国ニッポン、バンザイ……
仕事帰りのヤスさんが来た。相変わらずスーツがピンと張っている。影が濃くなっている。俺は台の隅っこにある置時計に目をやる。ああ、そうか、もう六時か。
「タコヤキ一つ。もちろん焼きたてを、いっちょね」
このアメリカンステーキみたいな分厚い雲のせいで、夕焼けは見えない。夏の夕焼けってとても綺麗なのに。薄雲だったら、一面に赤紫に染まってグラデーションのように柔らかい桃になって、それはそれで素敵なのに。この雲達は無表情だ。
「今日は珍しく部下がいい仕事をしてね」
この仕事のいいところは季節や時間を感じられるところだ。日溜まりでの春風の心地よさ、風と共に夏草の匂い、秋の凛とした
「って聞いてる?」
ヤスさんが唇を尖らせる。
「あっ…… ごめん、すいません」
この天候のせいか、今の俺は気が抜けちまっている。炭酸の抜けたコーラのような甘さ。もう腐っちまってるのかもしれない。手は惰性でタコヤキを焼いている。でも、こんなものを商品、いや俺は作品だと思っている、としてOKを出すなんて職人としての意地が許せない。
「ちょっと調子が出なくて。作り直すよ。もうちょい待ってくれる?」
ヤスさんは、怪訝そうな顔をくしゃっとさせて
「ああ。だってさ、日本で一番のタコヤキを食べに来たんだぜ。最高のを作ってくれなくちゃ」
「おう」
鉄板に集中しよう。普通のタコヤキ屋は、三ヶ月かけてコツをつかむ。あとはロボットのようにそれを繰り返すだけ。だけど、俺は違う。一人前ごとに、いや一個ごとに、指先から頭の先まで全開にして、焼きの状態を確認し、反省し、上達しようとする。そうしてキャリアが十年と、あと一年、計十一年を研磨してきた。並みの職人など相手にもならない。もう実現できないけど、親方とだって今なら対等に勝負できると我ながら思う。スナップに合わせて玉が跳ねた。
それに俺には信念がある。タコヤキは焼きたてに限る。作り置きなんかしない。プラスチックの箱に入れるなんて、持ち帰りもさせない。その代わりお客さんの口元に入る時に最高においしい状態をキープする。冷えて粉臭いわけでもなく、かといって火傷するほど熱くもなく、程よいコンフォートフード。そんなものを目指している。ころころと転がすと、キツネ色にタコヤキが焼き上がった。
「いやー、相変わらずの職人技だねー。普通なら飽きちゃうところだけど、もしかしてまた、腕、あげた?」
ヤスさんは、一年半くらい前からの常連だ。週に二、三度やって来てくれている。今もふぅふぅと冷ましながら、屋台の食べ物としては贅沢な程ゆっくりとそれを口に運び、満足げに首を上げ下げしている。
「それじゃ」
ヤスさんは傘を片手にゆらゆらと、去っていった。
この屋台は、俺の店は他のとは違う。よくあるハンバーガーショップ、あれはダメだ。肉は外国のクズ肉を無理やり固めたもの。パンは遺伝子組み換えの虫さえ食わない小麦粉。
子供にハッピーセット。ただ、てめーの化学調味料だらけの味に、幼い内から中毒させようとしてるだけだろう?
スマイル無料。あんな機械じみたスマイルなんて誰も喜ばないよ。
ああ、愚痴になってしまった。いけないな。止めよう。俺の悪い癖だ。
* * *
今日は早めに仕事から帰った。六畳半の安アパート。洗面所とトイレの一角が付いてるだけマシ。着いてすぐに、明日の天気予報をハシゴする。一週間前から見続けているのだ。ずっと晴れとのことだったけど、その天気予報というのが当てにならない。「晴天の日が続き猛暑になるでしょう、脱水症には気をつけて!」などと報じていたのに、じとじととした湿気った日が続いていた。
だけど、明日は正真正銘100%晴れらしい。どこのニュース番組でも、イヤホン越しにカラッカラの晴れになると伝えている。隣との壁が板切れのような薄っぺらいものじゃなければ、嬉しさの余り雄たけびをあげていただろう。
晴れてもらわなくちゃ困る。明日はゴリラ公園で祭りなんだ。祭り、心が踊る。その元は、花火よりも屋台の群れ。花より団子。値段を釣り上げても、何十日分の売り上げが数時間で見込める。これは俺が普段この公園で商売している故の特権なのだが、屋台を出す場所が良い。入口から三件目を毎年確保できている。今年も大丈夫だ。
だが雨が降れば、全ては台無しになる。少しの雨なら花火も人間も耐えられるが、本降りになれば悲惨なことになる。俺は五日も前から久しぶりにテルテル坊主なんて作っていた。ティシュを丸めて輪ゴムで結んでニコニコ顔を書いただけのものだったが、それに向かって頼むから晴れてくれ、と願う。俺たちにとっては久し振りの稼ぎ時なんだ、ひとあし遅いボーナスなんだ。晴れてくれ。晴れてくれ。晴れろ。晴れろ!
* * *
「でさー」
「うんうん」
「いいね、それ」
溢れかえりそうな人の群れ。景色まで続く屋台の列。ガリガリと氷が削られている。笛の音が高らかに飛び、太鼓が重低音で響く。それらも些細なものと思えるくらいの
ドォォォーン
という花火の音。光の線が円を描いたと思ったら、流線となり、パッパッパっと小さな、でも綺麗な光の花を咲かす。スターマインというやつだ。赤だったり橙だったり、青だったり、緑だったり。そんなのが一杯の星空と三日月を完全に背景にしてしまう程、くっきりと浮かび上がる。余韻のような光の跡が、やけに胸に残る。春の桜を、時間も美しさも、何十倍にも圧縮したのが夏の花火なんだと思った。夜空の花。喉が渇く。花見酒が飲みたい。
快晴だ。雲一つない。
地の底から熱が、屋台の裸電球から熱が、空の花火から熱が、伝わってくるような。そんな暑い夜となった。灼熱の夜となった。あつあつの焼きたてのタコヤキなど食べる気も失せるくらいの熱だ。俺は何もできない自分に呆れながら、空を見つめている。
売れないのは、不景気のせいだからじゃない、少子化のせいだからじゃない。そんなのは俺の隣のカキゴオリ屋を見れば、一目瞭然だ。恐ろしく客の回転が速いカキゴオリ屋には、それでも十を超える行列が絶えず続いている。氷塊を纏めて買ってきて、粉砕機にいれ、スイッチを押すだけ。そしてシロップをかけるだけ、とも言いたいが、シロップはセルフサービスになっている。イチゴ、レモン、メロン、ブルーハワイ。それぞれが台の上に乗っかっていて、お客が好きなものを好きなだけかける。中には二つの味を混ぜたり、全種類をかけにかけて、氷のシロップ漬けにまでしてしまうガキもいた。そんな自由な空気が好評の要因なのかもしれないが、なんてことはない。要は種類をオーダーされ、覚え、応える手間を省いただけだ。それにあれらのシロップ。ドギツイ着色料を付け、甘味料とフレーバーを配合しているだけのシロップ。果汁0%だ、ハワイ0%だ。ああ、それにしても何でブルーハワイっていうんだろう。とにかくこれらは幾らぶっかけても、原価など十円以内に収まる。俺のタコヤキソースには、もっと手間と拘りが、賭けられているのに。広島で配合されたソースに、信州産の唐辛子、塩は太和屋オリジナル、高級鰹節に、自家製マヨネーズ。でも、だれも口にしようとしない。大玉花火が上がった。オレンジに瞬いたかと思うと、柳のように暖かな帯が、さっと垂れていく。ああ、花火、綺麗だなあ。花火、綺麗
「ねぇ! ねぇ、おじさん」
思いがけない言葉に視線を前に戻す。誰も見えない。もう少し下へと。背の低い女の子が笑っている。
「おじさんのタコヤキって、おいしい?」
「おう、メチャクチャ旨いぞ。焼きたては、外がこんがり、中がふんわり、タコがコリコリで、堪らないぞ」
「じゃあ、一つちょうだい!」
「おう、任せとけ」
鉄板にハケで、油を多めに塗る。そうすると、皮がパリパリに揚がり、中身はしっとりとレアっぽく仕上がる。
タコヤキの生地を流す。
その中に、あげ玉、ネギ、タコをたっぷり入れる。あふれるくらいがちょうどいい。目を休めると、女の子が背伸びして心配そうな顔で覗いている。
ここからが腕の見せ場だ。
高速で玉を一個一個に分かち、続けざまにひっくり返す。傍目には上手に見えない位に、上手なのが一番いい。昔、親方に習ったコツだ。これを初心者が見ると、余りのあっけなさに自分でも出来そうだと錯覚する。中級者は手際の良さに「プロだな」と呟く。上級者はその域に感嘆する。俺はそういう腕を仕込まれている。誰にも負けるもんか。
「わあ」
と女の子からテレビアニメを観ているかのような、楽しそうな声が響いた。
タコヤキを縦に置く。半面だけが鉄板に焼かれ、半面がそこからハミ出す。三、四分、こうすると蒸れて、生地がしっくりと来る。
「ミカ! こんな所にいたのか!」
のっぽな痩せた男が立っていた。黒いティシャツに硬そうなジーンズを履いている。髪は整えられている。
「パパ!」
「ダメだぞ、ミカ! 今年は買うのは千円までと決めてたじゃないか! それに綿菓子を買ったばかりだろ。迷子にもなったりして」
「えー、だっておいしそうなんだもん。少しくらい、いいじゃない」
甘え上手というか、純粋というか、とても本能をくすぐる声で懇願する。これだから女は! とも少し思う。しかし父親は
「ダメだ! 我慢を覚えろ」
女の子は、今にもぐずりそうになる。
「泣くな! あのな、これから先、もっと耐えなきゃならないことが、辛いことがドンドン出てくる。もう子供じゃいられない年なんだ。同級生のサキコちゃんを見ろ!」
親父さんよ、そりゃ間違ってるよ。泣きたい時に泣くってのは、子供の特権だろ。笑いたい時に笑うのも。なぁ、俺はもう泣けなくなっちゃったよ。本当に悔しいのに。
だからさ、ガキは泣くべきなんだよ。分かち合うことが出来ない赤の他人だけど、それでもさ、美味しいタコヤキが食べれないって、そりゃ本当に悲しむべきことなんだよ。ましてや、それが日本一のタコヤキだったら、さ。
「すいません、すいません、ああ、私の躾が行き届かないせいで」
父親の、娘と俺との間での声色や態度の変え方が、尚更むなしく聞こえた。
二人はタコヤキを手にせず、離れていく。パァンと赤い花火がルビーのように燃えた。二人はゆっくりと遠ざかっていく。やがて人ごみに溶け見えなくなったが、最後に女の子がこちらを振り向いた、気がした。
午後十時。花火は終わり、祝祭も終わった。大部分の屋台は、既に片付け作業に入っている。隣のカキゴオリ屋なんて、もうすっかり跡形もない。
たんまり儲けやがって。
俺は祭りの後のハイエナを狙って、タコヤキを売り続ける。材料が余って余って性がない。しばらくは三食タコヤキとお好み焼きの毎日だな。それでもポツポツと売れた。
長袖をひっかけた男がやって来た。おや、とよく見ると、さっきの女の子の父親だった。
「すいません、ほんとね、ウチの娘のわがままで。妻がいなくなって以来、どうも、男手一つで育ててきたんですが、どうも、うまく行かなくて」
父親は頭をポリポリとかく。こちらこそ、とは俺は言えない。
「これ、無駄になった、たこ焼き代です。お釣りは、少ないですが、迷惑料ってことで、お願いします」
と千円札が差し出された。
「お客さん、うちもプロです。お金はタコヤキを買っていただいてから、貰うのが筋ってもんです。お客さんのやろうとしていることは、プロとしてのわたしの仕事を侮辱してるようなものです」
「じゃあ、一つ、たこ焼き、お願いします。娘の為にも」
「それもですね、ウチは焼きたてしか食べさせないんですよ。あんなに楽しみにして頂いた娘さんに冷めたタコヤキを食べさせるなんて、わたしのプライドが許しません」
「そんなに焼きたてが美味しいんですか?」
「ええ。普段公園でやってるので、食べに来てみてください。焼きたて、美味しいんですよ」
親父さんは、ちょっとまぶしそうな顔をして、ゆっくりと背中を遠ざけていった。
ああ、俺もまだまだガキだな。変なのに、無駄なのに、こだわってる。
いや、大人になっちまったのかな。大人ってエライって子供の時に思ってたけど、すごく不器用なだけなんだ。エライってのは偉く見せようと、必死に取り繕ってるから、そう見えるだけなんだ。
* * *
レモンのように真っ黄色な屋台で、俺はタコヤキを焼いていた。鉄板をじいっと見つめていた。鼻歌が聞こえる。慎重に且つ手早く手先を動かすと、タコヤキがどんどん玉となっていく。少し蒸らし、冷めさせ、ベストの頃合を見計らい、置いていく。鼻歌が聞こえる。その声は懐かしく、陽気なテノール。親方だ。
「どうです? 親方」
俺は首を上げタコヤキを差し出そうとする。
ぞっとした。
それには目も口も耳も髪もない。鼻もない。なのに鼻歌を発している。親方は、のっぺらぼうだった。皮膚だけの顔が歪み
「これは、ダメだ。ダメなたこ焼きだ」
手際が悪かったのだと思った。そこで鉄板に全神経を集中させ、明日にも筋肉痛になるほどのスピードでタコヤキを作りあげた。
「どうです? 親方」
親方は、のっぺらぼうだった。皮膚だけの顔が歪み
「これは、ダメだ。ダメなたこ焼きだ」
では、味が原因だと思った。一度に焼く数を半人前の四個にし、その分、一つ一つに倍の注意を傾け、タコヤキを焼いた。
「どうです? 親方」
親方は、のっぺらぼうだった。皮膚だけの顔が歪み
「これは、ダメだ。ダメなたこ焼きだ」
三度も似たような、でも結末は全く同じ夢を繰り返すと、俺は眠るのが怖くなった。いや、タコヤキを焼くことすら怖いものとなっていた。それから俺のタコヤキへの接し方が変わってしまったのだった。
* * *
蝉の声はピークを終えようとしていた。俺はタコヤキそのものに集中できなくなり、鉄板よりもお客の顔色を伺おうと、前を向きながら手を動かすことが多くなった。幸い、屋台での調理道具の位置、手順は長年の習慣からか肉体が覚えてくれていた。
でも、時間を気にして慌てている顔、胃も心も眠たそうな顔、ジョギング後の小腹が空いたような顔、そのような沢山の顔を見ることが多くなった。それには目も口も鼻も付いているのだけど、とにかく気になって仕方なかった。自然、絶対の自信があった俺の味、俺だけの味、もお客さんに引きずられ始めていた。それは今まで確かだったものが揺らぎ、足元ごと落ちていく感覚だった。
お盆明けに見たヤスさんは髭面だった。無精髭とメジャーリーガーの髭の中間。何というか中途半端な髭面だった。汗がダラダラ滲んでいる。ちょっと疲れを感じさせる表情だった。でも、嫌味ではなく、それを楽しんでいるようなヒョウキンな顔だった。もたれたらと少しソースは減らした。俺はそんな常連さんに甘え、問いを吐き出す。
「どうです? 最近、俺の味、変わったかな?」
「うん、変わった」
「そうですか……」
その声には、なるほど、と溜息が混じった。ヤスさんは慌てて
「いや、いやいや、よくなったんだよ。前よりずっと美味しくなった。日本一のタコヤキだと思ってたけど、今じゃ世界一も狙えるんじゃないかってくらい旨いよ」
「おべっかは、止めてください!」
思わず声が大きくなった。
「えと、なんというか、そんなん使うと思ってる? 何時だって素直に思ったことを言ってきたと、我ながら思ってたんだけど……」
「すっ、すいません」
「何か、味に悩みでもあるの?」
「俺、タコヤキに拘れなくなって。お客の顔色ばっか伺っちまうようになって。自分でも上手く言えないけど、全国チェーンのハンバーガー以下のものしか作れなくなった気がして」
「へぇ」
愚痴になってしまった。取り繕おうと思ったが、正直な気持ちは隠すことができない。ヤスさんがゆっくり
「そういう時はね。そのマックに行けばいいんだよ。特に嫌ってそうな、でっかい店をね。頭ん中でグダグダ何度も仮定するよりは、一の実践ってやつ」
「はぁ」
「まっ、人事部の係長の経験則ってやつかな?」
「ヤスさん、人事部だったんですか?」
「そっ、話してなかった? 大変なんだよ、こっちも」
離れゆくヤスさんの背中は、何処か頼もしかった。
* * *
宮尾市は埼玉とは思えないほどの都会だ。駅前に伊勢丹もロフトもソフマップもユニクロもある。中々に高いビルが並列していて、早い足取りで通行人が通りすぎる。ダサイタマの意地を感じる。そんなビルの一つにマクドナルドビルがある。全四階の小さなデパートみたいな設計だ。それでも昼時になると、お客をどんどんと吸い込む。俺は久しぶりにそのお客の一人となった。事務的な「いらっしゃいませ」を受けて、「チーズバーガーセット」と返す。「お持ち帰りになりますか?」冗談だろ!
清潔感あふれる階段を上り、清潔感ある席に着く。ライトが白いテーブルに反射している。
俺はハンバーガーを見つめる。トコロテンみたいに、個性のない何処にでもあるチーズバーガーだ。口にしてみると妙にパサパサしているが、味は平均を超えて、安心感をもたらすものだった。癖のあるチーズを使っているはずなのに、それは標準化されたマクドナルドのチーズだった。
不味いという訳ではなく、かと言って格別に美味しいとは言い切れない。そんな味だった。
拍子抜けし、何だか安堵した耳は、周りのお客の声を捉える。
「でさー、田中ってやつがまた」
「あー、あいつ? でも、根はいいやつなんだぜ」
「本当かよ?」
「おう、ホント、ホント。一緒にメシ食って、それから酒でも交わしゃ、打ち解けれるって。俺らの時もそうだったろ?」
「海行こうよ、海!」
「いまさらー?」
「それで、ボートに乗るの! 大きなボート! 沖のブイまで行っちゃって」
「えー?」
「男ひっかけに行くより、ずっと面白いよ!」
「わたしは、そっちの作戦会議したい……」
みんな、楽しそうだった。
* * *
屋台の色がブルーハワイのように、真っ青だった。俺は親方を見つめている。のっぺらぼうの顔が習字の紙みたいにくしゃくしゃとなった。時々、その一部が何故か笑い顔になる。目が離せない。
手元でタコヤキを転がそうとする。けれど、上手く回らず、タコヤキは潰れ、タコの足がはみ出した。それを手元で確認しながら、でも顔は親方から離せない。そっと静かに、のっぺらぼうに浮かんだ顔は、予感に反して随分と若いものだった。その時、俺はこの夢は今までの作り物とは違って、ずっと昔の修行を再現したものだと知った。過去と鬼ごっこをしているような夢。
何度も何度も転がそうとし、失敗し、ぼろぼろのタコヤキが出来た。
堪らず捨てようとすると、親方が手でその一個を摘んで、口にした。何時の間にかあの時の親方だった。髪も目も鼻も口もある。
「いいぞ、これ」
修行中の俺は舞い上がって、その続きを聞き逃していた。何か大切だったはずなのに、記憶の底に沈み、ヘドロまみれに埋もれてしまった。今度こそ忘れないように
「美味しかった、ですか?」
「いんや、不味い」
親方はそれでも穏やかな細い目のまま
「でも、いいぞ、これ。いいか? ここからが肝心なんだが
ゆるりと日が差している。夢から覚めると、無性に喉が乾いた。洗面所に行くと、充血していて、目が赤くなっている。思いっきり顔を洗い、水をコップに並々と注いで、一気に口に流し込む。
ここからが肝心なんだが、嬉しいんだよ。可愛い愛弟子が、必死になって俺のために作り上げたタコヤキって。
いいか! 美味しいか不味いかって言うのは、大した問題じゃない。大切なのは嬉しいかどうかってことだ。味は舌先と脳ミソの先っちょで決まっちまう。でもな、嬉しいってのは、もうちょっと奥の、胃袋の底のそのまた奥から生まれるものなんだ。
夏休みの最後の宿題。自由研究が終わったかのような、清々しい気持ちだった。俺は、今の俺を、受け入れた。自然なものとして。俺は、変わった、のだろうか?
* * *
それでも季節は巡っていく。秋、になった。今年は早めに残暑を超え、嘘みたいにすっかり涼しくなった。穏やかな、いわし雲が浮かんでいる。ゴリラも気持ちよさそうだ。
子供たちもその母親も公園に戻り、ウチのタコヤキ屋も大繁盛とまでは言えないけど、そこそこ儲かるようになった。
そんな中、忘れようとしても忘れられないお客が来た。あの時の祭りの女の子だ。
「おじさん、タコヤキちょうだい!」
それから屋台をまじまじと見つめ
「300円? 安くなってる。祭りの時だけ、400円だったでしょ? ずるいな」
「あれはな、おいちゃん、他の店に合わせてやったんだよ。おいちゃんのところだけ安かったりすると、他のタコヤキ屋からクレームが殺到するだろ?」
「ふうん」
話を交わしながら神経を指先に集める。
「ほら、焼きたて美味しいぞ、食べてみな、きっとあったかくなれるから」
女の子は首を傾け、すまなそうに
「ごめんなさい。おうちに帰ってパパと食べるんだ、半分こにして」
「そっか、ごめんなウチは」
「あのね、パパがタコヤキ代くれたの、夏休みの宿題、さぼらずに頑張ったからって」
「そっか」
「焼きたて、きっと美味しいから食べてこいって…… でもね。わたしわかってるんだ。パパもタコヤキ食べたいって。だってパパ、薬局に行くときにオコヅカイあげるから「キレジ」のクスリ買ってきなさいって言ったんだよ」
脈絡のなさも手伝って、堪らず笑った。
「切れ痔か。恥ずかしがり屋なんだなあ」
「こっちはなんにも知らないと思ってんだから……」
ククッと笑う。俺も何だか愉快な気持ちになった。それを壊したくなかった。こんな時、俺の中のプライドはちっぽけなものなんだと、俄かに思えた。
「ああ、ごめんな、おいちゃん、ちょっと失敗しちまった。作り直すからもうちょっと待っててな」
油を少なめにする。油は焼きたての時はパリパリ感を演出するが、時間を置くとグシュッとなり周りをベタつかせてしまう。具となるあげ玉も、冷めると香りがしつこくなる。だから控えめに。代わりにネギを多めに入れた。
ソースとマヨネーズと青のりとカツオブシをかける。
「出来た」
仕入れの時に余った、大きめのビニール袋に入れる。
「それとな、こいつもお父さんに持ち帰りな! タダだぞ、スマイルだ」
唇を曲げると、妙に不格好な顔になった。鏡を見るまでもない。顔面の筋肉がそう言っている。
「くくっ、おじちゃん、おっかしい!」
もっと笑顔をつくろうと思った。だけど、ありがたいことに、自然と口の端は持ち上がり、目は細くなった。
不器用な笑顔がひとつ、つられてもう一つ笑顔、それを受け取って俺の顔はもっと深く。
てやんでい! そうして俺は今日も生きていく。そう決めたんだ。