3話 「宛名の無い言葉」
燃えている。
木も家も、田畑も家畜も。京も花梨も。
なんでこんな目に遭わないといけないのだろう。
なんでこうも理不尽なのだろう。
もうこれ以上、奪わないでよ。
赤い光に照らされた夜の森は憎いくらいに明るいのに、溢れてくる涙で前が全然見えない。
勢いよく地面を蹴っていた足はやがて力をなくし、木々とそう変わらない影を落とす。
「莉子? どうしたの?」
今ここから逃げて何になるの?
先に進み続けて何が残る?
こんな世界に生きる意味なんてない。生きていたくなんかない!
失ったものは戻らない。亡くなった人は帰らない。疲れにどっと、全身を覆い尽くされた。
「……」
思っていることは何一つ言葉になんかならなくて、ただ涙に変わって流れ落ちる。拭うだけでもう、一杯いっぱいだった。
「ほんと、莉子は優しいね」
私のために立ち止まらなくていいよ。もう、見捨ててくれて構わないから。
「莉緒奈……私、もう——」
「こんな世界で。こんな状況で。たかだか二ヶ月一緒に過ごしたクラスメイトが何人死んだからって、私は涙なんか出ないよ。私は私が大事。莉子が大事」
「っ! 私は、そんな……」
そんな価値のある人間じゃない。臆病なだけで優しくなんかない。また平和に暮らせるのなら、こんな力なんていらない。
莉緒奈じゃなくて私が無能力者だったらよかったのに。俯いた視界に掌が映り込んできて、顔を上げた。
「また色々考えてる。この世界に来て思ったけど、莉子って案外弱いよね」
そう言った莉緒奈の顔は少しだけ笑っていて、私じゃなくて莉緒奈に力があればこうはならなかったんじゃないかって、本当に自分が嫌になった。莉緒奈だって、きっとそう思ってる。
「あのさ、莉子」
伸ばされたままの莉緒奈の手が、少しだけ引っ込んで、らしくなく言葉に躊躇いが見えた。
「……死んで逝ったみんなに悪いと思うなら……私のために生きてよ」
まっすぐ見つめる瞳。再び差し出された右手。手首にはめられたブレスレットが、火の灯りを反射して煌めいている。
こんな状況なのに、心が弾んだのをしっかりと感じた。
「私はこんなところで死にたくない、生きていたい! どんなに辛くても恥をかいても、絶対に生きて帰ってみせる! だから生きる意味が見出せないなら、私を守るために生きて!!」
寒くなんてなかったはずなのに、胸から手足の先まで温かい血が巡ったのがわかった。
嬉しかった。すごく。すごく。
心が暖かくなって、うるさいくらいに高鳴った胸を押さえたら、自然と涙が溢れていた。
また、泣いてしまった。
「ほら……わかったら行くよ」
溢れてくる涙を拭くので手も気持ちも一杯だった。それなのに莉緒奈は、私の手を取って強引に走り出す。
私達は夜の森を駆けた。涙で前が見えないはずなのに、世界が少しだけ綺麗に見えたんだ。
もう平気。足だって動く、進めるよ。莉緒奈と一緒なら。
——そう、思ったんだ。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「乙音! 大丈夫!?」
正午を過ぎたグラウンドの芝は、陽の光を浴びて温もりがあった。
視界に映る人影はぼんやりしていて、逆光のせいもあって顔はよく見えない。何度か目を瞬かせてようやく、視界も意識もはっきりし出したから、ゆっくり体を起こす。
「大丈夫?」
正面に回って表情を伺われる。心配そうだけど、少し安堵している子。同じクラスの声をかけてくれたあの子か。
「……」
悲しい夢を、見ていた気がする。私のじゃない悲しい記憶。なんだかとても朧気で、でも確かに覚えている。
「莉、緒……」
「りお? 誰のこと?」
「莉緒奈」
口にした途端に悪寒がして、本能的に視線が動いた。
額にナイフを突きつけられてるみたいな鋭い視線。こちらを睨み付けている莉子が、不機嫌なのはすぐに分かった。
「……サイコメトリー。あの時か」
さっきの夢がサイコメトリー?
莉子に言われるまで自分でもわかっていなかった。私にも、異能があったんだ。
「次勝手に覗いたら、容赦しないから」
振り返って校舎まで歩き始めた莉子だったけれど、三歩ほど歩いたところで急に足が止まった。背中を向けたまま、「でも」ってらしくない可愛い声。
「さっきは助かったわ。ありがとう」
言い返す言葉が浮かばなかった。助けられたのは私の方だ。
火の玉がぶつかる直前、私は莉子に腕を引っ張られてそのまま後ろに倒れ込んだ。火の玉は莉子が、昨日見たのと同じ空間の歪みみたいな能力で相殺してくれた。お陰で怪我の一つもない。
倒れ込んだ時だって柔らかい何かがクッションになってくれたから痛くもなかった。きっとそれも莉子の能力なんだと思う。
心にほわっと、暖かさを感じた。
「私も、ありがと」
少し声が小さかったかもしれない。遠ざかって行く莉子からなんの反応もなかった。
莉子なら「別に」とか「ええ」とか言いながら、手を振って答えてくれそうなのに。なんて、出会って一週間もないのに思うのは、ちょっと変かな。
お昼休みが終わったら改めてちゃんと、お礼を言いたいな。
今はなんだか、体が重い。授業で魔力をたくさん使ったし、サイコメトリーとかさっきの火の玉のこととかで、今すぐには起き上がれそうになかった。むしろ力が抜けて、仰向けに寝転がる。
「お、乙音、大丈夫? 早く保健室行こ」
「ちょっと休む」
今言わなくても隣の席だから簡単に言える。なんて思って、目の前に広がる透き通った空に見惚れた私は、何もわかっていなかったんだ。
同じくらい青くて綺麗な、あの人の事を。
お昼休みが終わって、中庭から教室に戻ってきた。晴れていたから今日もお昼は中庭で食べた。
早速莉子に声をかけようと思ったんだけど、お昼休みが終わっても、莉子は教室に帰ってこなかった。結局放課後になっても莉子は現れず、この日はグラウンドで見た背中が最後だった。
早退、なんだって。
クラスのみんなの話では、莉子が早退するのは珍しくないみたい。理由は知らないけど、次の日には何事もなかったかのように来るから、サボりなんじゃないかって言われていた。
仕方ないから、言えなかった「ありがとう」を明日忘れずに言えるよう、制服の内ポケットに仕舞っておいた。
私と莉子を襲った火の玉については、誰が行使した魔法なのかわからなかった。お昼を一緒に食べた子の話だと、あれは莉子を狙ったものなんじゃないかって。
グラウンドには人が沢山いたはずなのに、誰も術者を見ていなかった。あんな大きな魔法なのに。きっと、ものすごく上手に魔法を使える人の仕業だったんだろうなって、思うことにしてその日は帰路に着いた。
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「考え事なら、入浴しながらの方が捗るわよ」
学校に通うようになって一週間とちょっとが過ぎていた。かれこれもう、3日は前から悩んでいた。
悩んでいることを悟られないようにしていたわけではないけど、悟られるような何かをしたわけでもなかった。だから、急に淳子がアドバイスをくれて驚いたのと同時に、もしかしたらずっと気を遣わせていたのかもしれないって申し訳なくなった。
だからってわけじゃないけど、アドバイスを素直に受け入れて、今夜は長風呂をすることにした。
洗面器の前で服も下着も脱いで、なんとなく畳んでから洗濯機に入れる。浴室に入る前に鏡が目に入って、少し伸びてきている前髪が気になったけど、そのままにしてお風呂場へ。前に淳子が入ったから湯煙が残っていて、お風呂場が少しだけ温かい。
考え事とお湯が冷めないうちに、ぱっと髪と身体を洗ってお湯に浸かることにした。
肩まで浸かると、暖かさで自然と力が抜けた。重たかった気持ちが暖まって軽くなった気さえする。
考え事っていうのは、莉子のこと。ここ最近はずっと、莉子のことを考えている。
体育で私とペアになったあの日から、莉子は学校に来ていない。もう少し正確にいうと、私を守ってくれた授業を最後に早退してから。
あの日、私達に飛んできた火の玉なんて、莉子からすればよくあることなんだと思う。だからあの日、莉子が学校から帰りたくなったのは、どちらかと言うとその後のことだと思う。
詰まるところ、それはきっと、私が勝手に莉子の記憶を覗いたこと。
覗こうって思ってたわけじゃないけど、普通は嫌だ。
莉子の記憶には、悲しさや辛さ、怒りの感情がとても色濃く残ってた。きっとあれは、莉子が別の世界にいた頃のもの。思い出したくない、嫌な記憶。
それを勝手に見ちゃったから、多分それで莉子は傷ついた。だから学校にも——
誰かが莉子を忌み嫌うとか、あれは誰の仕業だったとかよりも前に、本当に莉子を傷つけていたのは、私だけだった。のかもしれない。
「莉子……」
気分と一緒に体も沈む。肩までだったお湯が今は口元まで浸かっている。
ぽつん、と一滴。締め切ったはずの蛇口から水滴が滴って、床が鳴った。温かいお湯に浸っても体や心が癒されるだけで、根本的な解決はしてくれないみたいだ。
私は莉子に「ごめんね」も「ありがとう」も伝えないといけない。関わるなって言われてるけど、それでもやっぱり、このまま莉子と会えないのなんて嫌だ。「ごめんね」も「ありがとう」も、ちゃんと届けたい。
こうしていてもずっと変わらない。なら変える何かをしないといけない。
そうは言っても、まずはどうやって莉子に会うかなんだけど。
「乙音ー、長風呂もいいけど、のぼせる前に上がりなさいよー」
洗面所の灯りが灯って、曇りガラスのドアの向こうに淳子の影が浮かんだ。
そう言えば、淳子は私の学校の事務処理もしてるらしいから、莉子の家とか知ってたり、調べられるかもしれない。
「うん」
電気が消えたら急に、体が暑いくらい温まっていることに気がついたから、のぼせる前に上がることにした。
体と心が温まれば考えも軽くなるみたいで、自分でも浅はかだと自覚してはいるけれど、考え込むよりも先に、体は動いていた。
「淳子」
淳子の部屋の入り口は落ち着いた黒い色の木で塞がれている。指の甲で三回ノックして呼びかけると、ちょっとだけ待たされてからドアが開いた。
「どうかしたの?」
出てきた淳子はお風呂を済ませたから、ゆったりとした寝巻きを着ていた。それでもまだ何か仕事をしているみたいで、部屋の明かりとは別にデスクライトも灯っているのが見える。
「あー、日記ね」
私が淳子の部屋を覗いている間に、淳子は私が胸元に抱えたノートに気がついたみたい。
「入っていーい?」
「別にいいわよ」
ドアを大きく開いてくれたから、ほんの少しだけ気を張って中に入る。
「お邪魔します」
淳子は私が座る用に椅子を持って来てくれて、自分は部屋の奥に構えたデスクに軽く体重を預ける。
「日記、もらっていいかしら?」
淳子の家に住むことになってから、淳子の提案で交換日記をすることにしている。淳子が忙しくて話せなかったり、私があんまり喋らなかったりするから、日記を使って互いの近況を報告したり話題にしたりするの。今日は私の当番だったから、話を聞くついでに持ち込んだ。
「うん」
ノートを淳子に渡してから、用意された背もたれの無い丸イスに腰を下ろす。淳子は早速ノートを開いて読み始めたから、少しの間黙って淳子を待つことにした。
デスクの隣の壁は一面が本棚で、もう他の本が入る余地もないくらいびっしりと本や雑誌、DVDが並んでいる。この丸イスは物を置いたり本をその場で読んだり、上段の本を取ったりするのに使っているのかな。
淳子の後ろの窓には、綺麗な黄色の月が浮かんでいる。今日は少しだけ曇っているけれど、その方がより淳子を引き立たせていて、片腕を組みながら視線をノートに落とす姿が、一枚の写真のように綺麗。なんて思った。
やがて読み終わると片手で優しくノートを閉じ、こちらに視線を向けた。
「さてと。学校で話せる子ができて、毎日それなりに楽しんでいるみたいね、ほっとしたわ。久しぶりにちょっと話たいけど、その前に本題を済ませちゃいましょうか」
「本題?」
淳子も何か話があるような言い方に聞こえて、まずは聞き返す。
「何か話があるんでしょ? ちょっとは気分が晴れたように見えるけど」
淳子は本当によく私のことを気にかけてくれている。やっぱり、最初から私が悩んでいたことも気がついていたのかな。
「淳子」
「なにかしら?」
「莉子に関わるな」って言われたのはつい数日前のこと。それなのにもうこんな話をしようとしてる。淳子はどう、思うのかな。
「……莉子について知りたい」
覚悟は決めていたけれど、それでもちょっと怖かった。
淳子は、私の言葉を聞いてから持っていたノートを机に置いた。机に寄りかかっていた腰が浮いて、姿勢と表情に真剣味が帯びる。
「どうして?」
「莉子に伝えないといけないことがあるの」
「それはそこまでして伝えないといけないの?」
「うん」
何も言わない淳子は、少し躊躇ってるみたいだった。
「ねぇ、淳子」
「なに?」
「私、サイコメトリー使えた」
「あらそう」
淡白な相槌だけど、驚いているのと喜んでいるのがわかる声音だった。
「貴方に異能があるとしても、性格からして、誰かを傷つけるものじゃないとは思ってたわ。よく似合ってるわね」
淳子にそう言ってもらえるのは素直に嬉しい。
「……莉子の記憶、勝手に覗いちゃった」
「つまり、それを謝りたい。ってことでいいのかしら?」
「うん。でも、莉子学校に来なくなっちゃったから」
それもきっと私のせい。だから、ちゃんと謝りたい。
淳子はやっぱり何か知ってるみたいで、私の知らないところを心配しながら、それでも最後は納得したようだった。
「わかったわ。川上莉子について、私が知っていることを教えてあげる。ただし、一つだけ約束してちょうだい」
机からふわっと浮かせた腰を、少しだけ屈め、ぴんと立った人差し指を私の顔まで持ってきた。私は縦に、一回だけ首を振って了承する。
「貴方に異能があることも魔法が使えるようになってきてるのもわかっているわ。けど莉子も、莉子を取り巻く環境も、今の貴方が持ってる力では何一つ変えられない。私の話を聞いて、貴方が莉子にどんな感情を抱こうが構わないけれど、危ない真似だけはしないで」
指の代わりに今度は顔を近づけて、「わかった?」って付け足した。
「わかった」
淳子の目が少しも逸れなかったから、私もしっかり目を見て頷いた。
「約束、お願いだからちゃんと守ってね」
「うん」
改めて頷いたら、淳子の表情がふわっと緩んだ。ありったけの優しさを惜しみなく詰めたみたいな、淳子の笑顔。私は淳子の中でも、その笑顔の時が一番好き。
「じゃあ、まずは何が知りたいのかしら?」
机に再度寄り掛かった淳子は、さっきまでと比べて力がだいぶ抜けたように見える。
聞きたいこと、いくつか思い浮かんでいた。口ぶりから、きっと莉子の過去についても知っていて聴いたら話してくれるんだと思う。けれど、それよりも先に別のことが口を衝いた。
「どうしたらまた莉子に会える?」
「……そうね、待つしかない。って言うだけで済んだら楽なんだけれど、どうかしら?」
正直に言ってよくわからない。できればもう、待ちたくはなかった。
「会いに行けない?」
「やっぱりそうなるわよね……」
少し困った様子の淳子だったけれど、思っていたよりも早く、意を決した。
「これからする話、本当は言っちゃ駄目なんだけど、誰にも言わないわよね?」
「うん」
「信じるわよ?」
ちょっとだけ意外に思った。淳子は普段からピシッとしたスーツを着て気迫を纏っているから、規則とかルールを破ったりしないのだと思っていた。
残念だとか思ったりはしなかった。ただ心なしか、いけない話をしようとしているのに、淳子はどこか楽しそう。
「川上莉子の能力については知っているのかしら?」
「ううん」
強いってことだけは聞いていたし見たこともあるんだけど、見ただけじゃ全然わからななったから、首を横に振った。
「ならまずはそこからね」
髪をかきあげて耳にかける淳子は、やっぱり楽しそうに見えた。