【百合短編】スポーツ女子×身体の弱い女の子
あれは、中学時代のいつかの夏の朝のことだった。
日課のランニングをしていた時だから、時間としては七時前くらいだったのだろうか。
いつものように、近くの公園を走っていた時だった。公園の敷地の端っこで静謐をまとって佇む彼女を見かけたのだ。
少し離れた位置から、地面にしゃがみ込む彼女が目に入った。
ひとり両手を合わせて俯き加減に目を瞑る彼女には、どこかおぼろげな儚さと、えも言われぬ神秘さがあった。
彼女のすぐそばまで差し掛かった時、不意に彼女が首をもたげて瞳を露わにした。視線が交差して、彼女がにこりと微笑んだ。私は軽く会釈をして、そのまま彼女の前を走り過ぎていった。
たったそれだけだったのだ。たったそれだけの数秒間の出会い以降、彼女の姿を再び目にしたことは一切なかったし、ふと思い出すこともなかった。
ただそれも、今この時までは、ということになる。
「一年の宝来優良です。今日からバレー部のマネージャーをすることになりました、よろしくお願いします」
目の前でそう名乗った彼女の姿を見て、私はあの日の朝の情景を、まざまざと鮮明に、まるで昨日のことのようにはっきりと思い出していたのだった。
部活が終わり、私はいつものごとくひとり居残って自主練習をしていた。
黙々とひとりで練習を続けていると、どことない居た堪れなさがやってきた。両手でボールを持ったまま、ちらと横に視線を送った。
壁際にじっと立って私を見つめる宝来さんと目が合った。
「あの、宝来さん?」
声をかけてみると、私の居残り練習を居然と見物していた宝来さんが、目をぱちくりとさせた。体の前で淑やかに重ねた手が僅かに動いた。
宝来さんは首をすくめて、「なんですか?」と恐る恐るといった様子で訊き返した。
「そんなに見つめられてると恥ずかしいっていうか……ちょっとやりにくいかなあって」
半笑いでそう言うと、宝来さんが狼狽えて両手を顔の前で振った。
「ご、ごめんなさい、何かお手伝いできたらと思ったんですけど」
「ああ、気にしなくていいよ、私が勝手にやってるだけだから」
ボールを右手で床に叩きつけてから、バスケットゴールに向かって投げてみた。ほとんど直線的にゴールに向かったボールは、リングにぶつかって跳ね返った。バウンドを繰り返して、丁度宝来さんが立つ場所へいった。
宝来さんがあたふたとしながらも、両腕にすっぽりとボールを収めた。
ボールを抱えた宝来さんが、満面の笑みで私をまっすぐに見てきた。つま先立ちになって、はしゃいだ調子で、
「とれました!」
と声を張って報告してきた。
心底嬉しそうな笑顔をみせたかと思うとすぐに口をつぐんで、一変して恥ずかしそうに目を伏せた。
彼女のそばに歩み寄ると、上目遣いで私を見ながら、両手でボールを差し出した。それを受け取って、微笑んで「ありがとう」と述べる。
すると宝来さんは、肩にかかるくらいの長さの髪を揺らして、ふるふると首を横に振った。
宝来さんの横に立って、壁に背中を預ける。
腕に抱えていたボールを右手で真上に投げると、落下してきたボールが床を打って、人気のなくなった体育館に音が響いた。
ボールが弾みを繰り返して私たちから遠ざかっていく。二人とも追いかけようとはせず、ただそれを並んで見つめていた。
「ねえ、どうして今の時期に入部してきたの? それもマネージャーって」
何気なく、気になっていたことを訊いてみた。
今はもう六月で、入部するには少々遅い時期じゃないかと思う。かと言ってそれは全然悪いことではないのだし、他人が口をはさむようなことでないのも承知の上だ。でもなんとなく気になった、それだけだ。
すぐ隣に立つ宝来さんが身じろぎをした。
「入院してたの、中学の三年の終わりごろから、ついこの間まで。高等部になったら何かしようって思ってたんだけど、そのせいで少し遅くなっちゃった」
宝来さんが私を見上げて、気丈に微笑んだ。その微笑みは、やはりいつか見たあの時の微笑を私に思い出させた。
「そう……それでバレー部のマネージャーなんだ」
不意に、宝来さんが小走りで私のそばを離れた。私が投げたまま放置していた、床に転がったボールへと真っ直ぐに走っていく。宝来さんの走るリズムに合わせて、髪の毛先がどこか楽しそうに踊っている。
間もなくボールにたどり着くと、腰をかがめて両手でそれを拾い上げた。
宝来さんはくるりと軽やかに身を翻して、私に向き合った。
「私、あんまり運動しちゃいけないの」
そう言う宝来さんの表情は、不思議なくらいに明るかった。
「生まれた時から心臓が悪くてね。入院もその手術とリハビリのためだったんだ」
宝来さんがまた小走りをして、ボールと一緒に私の元に駆け戻ってきた。
「でもほら、走れるよ。すごいでしょ」
にこりと嬉しそうに笑う宝来さんにつられて、無意識に頬が緩むのが自分で分かった。
「昔から運動は制限されててね、皆が楽しそうに走り回って遊んでたり、元気にスポーツしてたりするのを見るたびに、羨ましいなあ、私も混ざりたいなあって思ってたの。だから、せめてそんな人たちを近くで応援したりお手伝いしたりして、少しでも力になれたらいいなって」
宝来さんが、はい、と言ってボールを差し出してきた。だけど私は、それを受け取るのを躊躇った。私の反応に、宝来さんが首をかしげておずおずと腕を引いた。
どうしてかなんて明確な理由はなくて、ただ、胸の奥に転がったもやっとした感情の塊が、宝来さんの持つボールに手を伸ばすことを拒絶させたのだ。
それが何故なのかということを、私がそれ以上深く考える必要はないように感じた。
「宝来さん、軽い運動はできるの?」
「うん、ほんとに少しだけど」
「じゃあキャッチボールしよ!」
そう言い置いて、今度は私の方が走って宝来さんから十メートル程の距離をとった。
両手を上に伸ばして、宝来さんに向かって大きく振る。「おーい」と声をかけると、宝来さんはパッと笑顔になって両手に持ったボールを頭上に掲げた。
そして、やる気に満ち満ちた声音で、「えいっ」と両手を振り下ろした。
何度か弾みを繰り返して、ボールは無事に私の手元までやってきた。
そうしてしばらくキャッチボールをしてから、私と宝来さんは壁際で肩を寄せ合って床に座った。
「しんどくない?」
顔を横に向けて訊くと、呼吸に合わせて肩を上下に動かす宝来さんが首を横に振って、ゆっくりと目線を私に向けた。頬を伝った一粒の汗が、電気の光を受けてキラリと輝いて落ちた。
お互いを近距離で見つめ合って、私たちは自然と笑い合っていた。
ふと時計を見遣ると、いつの間にか七時を越していた。
「もう七時過ぎてるね、そろそろ片付けて帰らなきゃ怒られちゃう」
すると、宝来さんがハッとして急に立ち上がった。
「お片付け! しよう」
床に座る私を見下ろして、宝来さんが両手を差し向けてきた。少し躊躇しながらも、私はその小さな手のひらに右手を乗っけた。宝来さんが手を強く握って、目をぎゅっと瞑る。腕が引っ張られる感覚はあるが、体はちっとも動きそうにない。
「外間さん、抵抗しないで……!」
宝来さんが私を必死に引っ張りながら、そんな訴えをかけてきた。私はただ座っているだけで、抵抗しようなんて微塵も思っていないけども。
力を振り絞って私を引き起こそうとする宝来さんの頑張りを見ていると、ついつい悪戯心が芽生えた。
私も宝来さんの手を握り返して、軽く力を入れて引っ張り返してみた。
途端に宝来さんの体が前のめりになった。危うく私に倒れ掛かってくるところだったが、空いた左手で腕を支えると、宝来さんはかろうじて踏みとどまった。
「わあ、外間さんって強いんだね」
大げさに驚嘆して、宝来さんがそう言った。私が強いのか、宝来さんが弱いのか……。
床から腰をあげて、自分の力で立ち上がる。私の顔を見上げる小柄な宝来さんが、目を細めて優しく微笑んだ。
「さっ、片づけて帰ろ」
掴んでいた私の手を放して、宝来さんが背中を向けた。
私は思わず、「あの、宝来さん」と、彼女の小さな背中に声をかけていた。宝来さんが私を振り返って首をかしげる。
「これから、よろしくね」
言うことなんて何も用意していなくて、咄嗟に出てきたのはそんな言葉だった。
「うん、こちらこそ」
「何か分からないこととかあったら何でも聞いてね、何か困ったことがあったら私を頼っていいからね、あと絶対無理はしないでね、私も負担がかからないように気にしておくから」
私が立て続けに言うと、宝来さんが口を手で覆ってクスクスと笑い声を漏らした。
なんだか申し訳ない気分になって、それを誤魔化すように頭を掻いた。宝来さんが後ろ手を組んで、後ろ向きに数歩下がった。口角を持ち上げて、悪戯っぽい幼い少女のような笑顔をこぼした。
「ありがとう。外間さんって優しいんだね」
その笑顔に、一瞬、自分の心がどこか知らない遠くの場所に旅立ってしまったような、そんな変な感情を覚えた。
努めて平静になって、私は宝来さんに笑顔を返した。
宝来さんがぴょんと跳ねて私に背中を向けた。子どものようにスキップをして、その楽し気なリズムに合わせて、宝来さんの髪も踊っていた
*****
「宝来さん、湿布ってまだあったかな」
部活終わり。壁際に立ち何やら真剣な顔をして忙しそうにペンを走らせていた宝来さんに、ゆっくりと近づきながら尋ねた。
瞬間、宝来さんがペンを取り落とした。床に落下したペンが、乾いた音を出して転がった。宝来さんは床に転がるペンを放置して、私に心配そうな目を向けてきた。
「どうしたの? 怪我したの? 大丈夫?」
あわあわとして過剰に不安がる宝来さんに対して、私は呑気にあははと笑った。
「ちょっとふくらはぎが張ってるだけだよ」
宝来さんが胸に手を当てて、ホッと安堵の表情を浮かべた。
「よかった、今用意するから待っててね」
しゃがんで、足元に置かれた箱を探る。すぐにそこから取り出した湿布を持って、首を捻って私を見上げた。
「貼ってあげるね。立ったままの方が貼りやすいかな?」
頷いて、「うん、お願い」と言うと、宝来さんはしゃがんだ状態で足を動かして私の後ろに移動した。その歩行の動きがなんだかぬいぐるみのロボットのおもちゃみたいで、可笑しくて可愛くて、私はふふっと息をつくように笑っていた。
「何笑ってるのー?」
宝来さんがニコニコしながら、私の膝裏を指先でなぞった。突然のくすぐったさに、意識するよりも先に私の右脚がびくりと震えた。
「わ、くすぐったかったのかな」
独り言のように呟いて、宝来さんが私の膝裏をじっと凝視する。そして彼女の指先が、膝裏からふくらはぎの下の方まで、からかうように撫で回してきた。
私は思わず、ヒッと笑いの混じった甲高い声を漏らした。素早く前にジャンプして宝来さんの指から逃れる。
反転して宝来さんを見下ろすと、口の端を緩めて、面白そうに私を見返してきた。
「ちょっとやめてよ、ちゃんと湿布貼って」
笑いながら言うと、宝来さんは依然として口の端を緩めたまま、ゆったりとした動きで首を横に振った。
「なんでよ」
「なんか、悪魔の囁きがね……誘惑に逆らえなくて、どうしようもないの」
半笑いで冗談ぽく言う宝来さん。なにを言っているんだこの子は。誘惑ってなんだ誘惑って。
「じゃあ自分で貼るから、それ頂戴」
宝来さんの方へ一歩近づいて手を伸ばす。私が向けた手のひらに、宝来さんが軽く握った拳を乗せてきた。
私の手のひらにちょこんと乗せられた小さな手に目を落としてから、宝来さんの顔に視線を戻す。すると、とぼけるように小首をかしげた。
その無垢な可愛さに一瞬ひるみかけたが、私はかろうじて自らを保った。
「お手じゃありません」
右手で宝来さんの手を包み込んで握り、空いたもう片方の手を宝来さんの持つ湿布に伸ばす。
すると、宝来さんは体を捻って私から湿布を遠ざけた。そして、
「ヤダ、私が貼るの」
と駄々をこねるような声色をして言った。その態度に、私はまたうろたえた。
「もう、次くすぐったら絶対自分でやるからね」
仕方なく手を離すと、宝来さんは真面目な表情で力強く頷いた。
「うん、頑張って誘惑に打ち勝つよ!」
宝来さんのやる気を見届けてから、私はまた体の向きを変えてふくらはぎを彼女の眼前に晒した。
と、その時、部員の一人が私に向かって片手をあげて、名前を呼んできた。
「おーい外間、今日も居残り? ネット片づけていいの?」
「ああごめんごめん、ネットは片づけていいよ。ボールは二、三個ッひぁっ」
予期せずふくらはぎに冷たい何かが這う感触が走って、私は悲鳴とともに我を忘れてバタバタと慌てふためいた。
一呼吸おいてようやく、ふくらはぎに触れていたのが湿布だったのだと理解した。
「お前らイチャイチャしてんじゃねえぞ。それじゃモップがけはよろしく」
ニヤニヤしながら後ろ向きに手を振って歩いて離れていく彼女を、私は呆然として見送った。
膝に両手をついて後ろに顔を向ける。いつの間にか、宝来さんは床にお尻をつけて女の子座りをしていた。
口に両手を当てて、「イチャイチャだって」と何故か嬉しそうに笑った。
「もう、急に貼らないでよ、びっくりしたじゃん」
私は、「まったく……」と小声を垂れながら、宝来さんの横に腰を下ろした。
「どう、部活には慣れた?」
「うん、もうすっかり。みんな優しくしてくれるし。それに、はじめちゃんがいるからすごく楽しいよ」
宝来さんは、斜めに私を見上げて気恥ずかしそうに微笑んだ。
彼女はたまに、私に対してこういう態度をとる。胸の奥に隠した何かを分かって欲しそうに、私を上目遣いにシンとして静かな瞳を向けてくる。
私はため息をついて、前を向いた。右肘で宝来さんの腕を小突く。負けじと、宝来さんがコツンと肩をぶつけてきた。そのまま、宝来さんの体が私に寄りかかってくる。
体重をかけられても、宝来さんはすごく軽くて、まるで一片の花びらのようだと思った。
そう思うと、すごく儚げで……私はあの日の朝に見た、宝来さんの姿を思い起こしていた。
「ねえ宝来さん、私たち中学生の時に一度会ってると思うんだけど、覚えてる?」
何気なく質問してみた。すると、宝来さんは私から体を離して、目を丸くして唾を飲み込んだ。体ごと私に向き合って、真っ直ぐに見つめてくるその瞳は、ひと時の感情に濡れて柔らかな光を帯びていた。
「覚えてるよ。はじめちゃんも覚えててくれたんだね」
宝来さんが身じろぎをして、恥ずかしそうに目を伏せた。右手の指先で口元を隠して、髪を揺らして首をもたげた。照れを誤魔化すかのようにぱちぱちと何度も瞬きをする。
宝来さんが下から覗き込むように、首をかしげて私を見つめる。
そしてまた、いつものように、果てしなく明るくて、それでいてどこか儚げで、私の心の奥底を懐かしさを携えて弄ぶように突っついてくるような、そんな笑顔を向けてくるのだった。