私は何者か ④
食事を終えて少しして、綺麗な鈴の音がした。
その音を聞くと、なにやら話し込んでいたロディブとフォロの表情が途端に険しくなる。
「何の音ですか?」
「父上が帰ってきた音だ。想定していたよりかなり早い」
私が聞くと、苦虫を噛み潰したような顔でフォロが答える。
父上というと、領主様のお帰りか。
立ち上がり、おそらく玄関のほうへ歩いていこうとするロディブをフォロが制する。
「僕が出る」
そう言って席を立ったが、しかしフォロが辿り着くより先に広間の扉が開いた。
「迎えがない。減点だ、ロディブ」
扉を開いて出てきたのはフォロとは似ても似つかない、端的に表現すれば豚のような中年だった。
豪奢な服がはち切れんばかりに伸びているのが非常に滑稽である。
「……父上、明日まで王都に滞在する予定では?」
「そのつもりだったが、向こうでトラブルが起きてな。儂の仕事を進められなくなってしまったので一度帰ってくることにしたわけだ。……まさか、屋敷にこんなものが入り込んでいるとは思いもよらなかったが」
豚はそう言って私を睨んだ。
身長は高く、かなり体積があるので、それなりに凄みが出ている。
「父上。レティツィアは記憶を無くしています」
「……なんだと?」
「父上の言う、レティツィアに宿る不浄とやらは、記憶と一緒に消え去ったのではありませんか? 『あれは生まれながらにして不浄を知っている、人として扱ってはならない』。父上は、日頃そう仰ってましたよね。不浄というのが何なのか、僕には最後までわかりませんでしたが────しかしそれが『知る』ものであるのならば、今のレティツィアは、不浄を知らない人間であるはずです」
まるで禅問答だな。
どうやらこの豚は不浄という、フォロもよく理解していないようなものを理由としてレティツィアを排斥しようとしていたらしい。フォロとしてはそもそも本当にそんなものがあるのかと以前から疑問視していたのだろう。
「ふむ……」
断片的な情報しかないが、私としても怪しいと思っている。魔導具なんてものを見せられておいて不浄とやらの存在を全否定することもできないが、私が迫害されている理由が本当にそれだとは……少し、考えにくい。
思案するような素振りを見せた後、豚はこちらを見据えた。
「『第二の首輪』」
豚がそう言うと同時、私の首が熱を帯びた。
豚に何かをされた。何だ? これが魔術なのか?
熱が徐々に痛みとなって私を縛る。焼いた鉄の首輪を付けられている気分だ。
その熱は徐々に首の内側へと染み込んでくる。
「こっ、これ、は?」
喉が熱い。声が上手く出ない。
「嘘を交えずに答えろ。お前は本当に記憶を失っているのか?」
豚が猜疑的な目を向けて私に問う。
これはまずい、かもしれない。
恐らくだが、嘘を吐けなくなるような何かをされたのだろう。
私は別に記憶を失っているわけではない。前世というか生前というか、私が私として生きていた時の記憶はそれなりにはっきりとしている。レティツィアの記憶は確かに存在しないが、それに関しては人格ごと、大袈裟に言えば魂ごと消えてしまったような状態だ。
いや。落ち着け。問題はない。
ここでいう『お前』とはレティツィアだ。レティツィアの記憶が消えているという点に関しては、間違っていない。嘘ではない。
そこだけを伝えればとりあえずは疑われない、はずだ。
「……そ、そうです」
私は記憶を失っています、とは言わない。
私が私の精神的な部分をレティツィアとは認識していない以上、それは嘘になってしまう。レティツィアは記憶を失っています、であれば言えただろうが、違和感は拭えない。一人称をレティにしておくべきだったか?
「間違いないようだな」
豚は納得してくれたようだ。ぶくぶくと膨張した顎の肉に手を当てながら頷いている。
そして豚は光の伺えない瞳でもう一度こちらを見据えた。
「もう一つ聞く。お前は本当にレティツィアか?」
心臓が跳ねる。
馬鹿な。何故そのような疑問が出てきた?
このお前というのは、明らかにレティツィアを指して言っているものではない。記憶喪失の人間を前にして、お前は本当にお前かなど、普通は聞かない。この『お前』という言葉は明らかに私を見据えている。
まともなコンテクストでそんな問いが出てくることはあり得ない。
ましてやこの豚は以前からレティツィアを知っているはずだ。この肉体は紛れもなくレティツィアのものであり、それを見て別人かもしれないだなんて、普通そんなことを考えるわけがない!
私がレティツィアがではないなど、そんな荒唐無稽な考え────私がレティツィアではないと知っていなければ出てくるはずがないのだ。
いや。落ち着け。可能性はある。レティツィアに内在する私に気付いていなくてもそんなことを聞いてくる可能性。
ここは魔法みたいなものまで存在するファンタジーまみれの世界だ。もし私のこれが初めてではなかったらどうだ?
誰かの体に別の魂が入るという、前例があったとしたら。
そうであるなら、こんな問いが出てきてもおかしくはない。そういえば以前こんな話を聞いたことがあるなあ、試しに質問してみるか、と。
この豚は曲がりなりにも領主である。見識が広いのも当然だ。
いや、理屈はそれでいいとして、問題なのはそこではない。
私がその質問に嘘を吐かずに答えられないという部分だ。
お前は本当にレティツィアか?
その問いの答えは簡単で、『私はレティツィアではない』。
しかしそんな脳味噌が完全に腐ったような答えを口にすることは出来ない。全てが破綻してしまう。最悪私が不浄とやらそのものだとみなされて、フォロからも見放され、今この場で殺されたっておかしくない。レティツィアの体を穢すなだとか、そんな理不尽なことまで言われてしまいそうだ。
かと言って、はい、私はレティツィアですとも答えられない。この首の、恐らくは先ほど確認した首輪のようなタトゥーが発しているであろう熱に意味がないとは思えない。もし私が命令を破って嘘を吐いたら、そのまま首が焼き切れる可能性がある。
「どうした? 答えられないのか?」
豚の催促に思考が妨げられる。
落ち着け。考えろ。
何か抜け道があるはずだ。
嘘を吐かずに納得させる方法。
信じられない量の汗が背中を伝っている。
フォロも不安げにこちらを見ていた。私が解決しなければならない。
豚が再び口を開こうとする。
「答えられないのなら────」
「私のこの体はっ、紛れもなくレティツィアのものです」
結論を焦った。
できればこの答えは使いたくなかった。これはかなりのギャンブルだ。
もしこの豚が体に別人の魂が入るような事態の前例を知っていた場合、『体は』などと強調することはかえってその疑いを強める結果に繋がる。嘘を吐かないためではあったが、これではなんの意味もない。
感じる不安を表情には出さないようにしながら、豚の反応を待つ。
「では、その魂────人格は誰のものだ?」
「……私のもの、です」
「その『私』とは?」
詰み、か。
どんなに考えたところで、この問いを誤魔化せるような答えは浮かんでこない。
いや、誤魔化すだけならまだ可能だ。もう一度『私だ』と言えばいい。しかしもしそれをしたら豚の中で別人の魂が入っているという疑念は確信に変わるだろう。
しかし、全ての終わりではない。
やり直し、だ。
私には時間遡行がある。
同じ時間を過ごす精神的苦痛を考えるとリセットには抵抗があったのだが、こうなってしまったのであれば仕方がない。知識は消えないのだから、今回思考に充てた時間で別の思考をすればいい。この問答にどう答えるのか、とか。
まあ折角だ、嘘を吐いたらどうなるのか、試してから死ぬとしよう。試したことによって死ぬ、という結果になるかもしれないが。
「その私とは、レティツィアに他なりません」
少しの間がある。
何も起きない。
喉はまだ熱いが、最初と変わらずだ。焼き切れるような痛みもなく、何か変化が起きるような様子もない。
「……ふむ。どうやら本当に記憶を失ってこうなっているらしい。あるいは理解していないのか」
豚にも嘘がばれていない様子だ。
どういうことだ?
私の一人相撲だったのか?
全ての思考は無駄、徒労だったと?
「知らないだろうから説明しておいてやる。お前のその首の刻印────<奴隷三令の首輪>と言うのだが、その第二の首輪は常に発動する他の刻印と異なり起動時にのみ絶対命令を下すことのできるものであり、つまりこの状況だと……もし嘘を吐いていれば、命令違反で首が焼きちぎれていた。嘘を吐かなければならないような事情を抱えていなくてよかったな」
ふん、と豚鼻を鳴らす豚。
豚の言葉からしても、やはり嘘を吐いたら死ぬ、という状況にあったらしい。
どういうことだ。何が起きた?
「まあいい……記憶を失ったというのなら、確かにもう不浄を知らないのだろう。ここで生きるにあたって伝えるべきことがいくつかあるから、後で……いや、二時間後に儂の部屋に来い。一人でな」
「父上、それは僕が」
「世の中にはお前が知らないことも多いんだ、フォロ。大人しく儂に任せておけ」
まあ確かに、例えば生理の知識だとかはフォロにはないだろうな。……豚にもあるかどうか疑わしいが。
「……わかりました」
少々、フォロの中に独占欲のようなものを感じないでもないやり取りだ。
……儂の部屋に、一人で、か。
この気持ち悪い予測通りの結果にならないことを祈るのみだ。
この後、一先ずはフォロの部屋で過ごすことになった。
フォロは私を自分の部屋に泊める気であったらしい。エロガキ……というわけでもないか。選択肢はそう多くなかったはずだ。
「それで、フォロ、私のこの首の模様は何なんですか?」
「……<奴隷三令の首輪>。本来はその名前の通り、奴隷に対して用いる魔術なんだけど……まあ、レティに対しても使われている。被術者本人の同意がないと魔術行使、つまり印を刻む事自体の難易度が跳ね上がる性質があるんだけど、普通は拒否できないような状況で行使されるからあんまり関係ないね。銃口を突きつけながら、とか」
「銃があるんですか?」
「うん、あるよ?」
当然、という風に返される。
まあ銃と言ってもこれもまた魔術をどうこうするものなのかもしれない。この屋敷や村を見て予測される技術レベルではまともな銃器の作成は難しそうに思える。あって精々ハンドキャノンか火縄のようなものくらいではないだろうか。
いや、まあ、そのあたりにだけ特化している可能性もあるか。現物を見ないとなんとも言えないな。
「それで、首輪の話だけど。上から順に役割が違って、確かそれぞれ『他人へ危害を加えることの禁止』、『命令の遵守』、そして『可能な限りの自己防衛』」
まるでロボット三原則だ。
まあ上下二つは普通の人間が普通に過ごす上でそこまで障害になりそうにはないが、間の首輪には少々不穏な感じがある。
奴隷用たる所以だろうか。
「命令の遵守……」
「うん。誰からの命令にも背けない、というわけではないけど、首輪を付けた張本人……術者が魔力を流して下した命令に逆らうことはできない」
つまり、服を脱げと言われたらその場で裸にならなければならない、というわけだ。人権も何もあったものではない。
だが、しかし。私は現に命令を無視した。
何故そんなことが起きたのか。可能性は、およそ二つ。
一つは。
「優先順位……って、どうなっているんですか?」
「首輪の中での、ってこと?」
「はい。例えば、『目の前の男を殴れ』と命令された場合、これは第一の首輪の『他人に危害を加えない』という制約に反します。この場合、どちらが優先されるんでしょうか?」
優先順位と解釈による不具合、だ。
ロボット三原則同様、この首輪の制約もあらゆる状況ですべてに同時に従えるわけではなく、片方を守るために片方を破らなければならない、という状況は必ず発生しうる。
先程の場合、私は”嘘を吐かなければ死んでしまう”という状況にあった。『可能な限りの自己防衛』が命令遵守よりも優先されるなら、そのために嘘が吐けたということだ。
「ちょっと、わからないな……僕の知らないことだ。父上なら、知ってるかもしれないけど」
答えは出ないらしい。
私としてはもう一つの可能性が真実であったほうがかなり都合がいいのだが、まあ知らないのならば仕方がないか。
それとなく豚に聞けるといいが。
少しフォロと談笑した後、私はロディブに案内されて豚の部屋へと向かった。
すぐにロディブが去り、少しして扉が開かれると、下卑た笑みを浮かべた薄着の豚の姿が目に入る。
その下半身に至っては薄着というか、そもそも服を着ていなかった。汚いな。
「やあ、待っていたぞ、儂の奴隷よ」
何が起きるか、おおよそ予想はできる。
────本当に、本当に、心の底から、目の前の醜い男が……気持ち悪い。