魔導学院と殺人鬼 ①
その男は人目を引いた。
長身から靡く流麗な白髪、それが霞んでしまう程の美貌に加え、細身だが豪奢な白い鎧、そして地位を示す装飾剣と武勇を示す無骨な大剣が彼を飾っていた。
側を通るだけで乙女が顔を赤らめるほどの容貌。
高潔を体現し、神聖を纏う男。
聖騎士団第二位という地位にあるはずのその男は、なぜか俗な汚さに塗れた下層の酒場の前で頭を抱え、しかめ面を作っていた。
「……彼女の脳が節制という概念を認識することは永久になさそうですね……」
どうやら酒場の外まではっきりと聞こえる、騒ぐ女の声が彼の悩みの種であるらしかった。
普通このような場所に若い女はいないはずだが、今日に限っては確実にその存在が認められた。……まだ日も高いというのに。
はあ、と大きくため息を吐き、ルフェルは酒場の扉を押し倒すように強引に蹴り開けた。
先ほどまでそこに立っていたはずの戸は床と融合していた。現代芸術の様相だ。
そしてそれに伴い爆発音に近い轟音が発生したため、酒場中の視線がルフェルの方へ一斉に向く事となった。
その視線の主たちの中で一際目立つ、明らかにこの場に似つかわしくない楚々とした令嬢のような女に視線をやる。
そう……その女はこの場に居ることすら違和感を覚えるような貞淑な美しさを持っているはずだった────スカートを履きながらもテーブルに片足を乗せ、ジョッキを掲げて何事か叫んでさえいなければ。
「うわっ、ルフェルさん!? 何故こんな場所に……ていうか扉、ぶっ壊れちゃってますけど!」
ルフェルはその女の元へと歩きながら諌めるような口調で舌を回し始めた。
「弁償します。気が立っていたもので……それで、気持ちよく酔っ払っているところ恐縮なのですが────」
「そう! そうなんです!」
唐突に女がルフェルの方に駆け寄り、耳元で言葉を遮るように大声で喋り出した。
ルフェルはそれによって耳鳴りに苛まれた。ますます表情が歪んでいく。
「酔っ払えるようになったんですよお、私! 今までいくら飲んでも酔えなかったのに! 以前少しだけ良い気分になってはいましたが、あれはお酒が特別だったようで、その後何も飲んでも酔えませんでした。でも急に! 人並みに酔えるようになったんですっ! なんでだろ……いや、酔えなくてもお酒は美味しかったのでまあいいんですけど、それだとやっぱり寂しいじゃないですか。だから普通にお酒を口にして酔いの感覚が来た時は本当に嬉しくって! 今まで気持ちよく、深く酔った経験なんて本当にただの一度もなかったから、いやもうあれは嬉しいというより感動してましたね! 涙さえ出ていました! ああ、今私、酔っ払っているんだ……感涙。全世界が酔っ払った私に涙しました。こんな、こんな気持ちのいいことがこの世に存在したなんてっ! そりゃ禁酒法なんてあったら危険な自家製酒が流行っちゃうのも頷けますよ、まあそれに関しては簡単に作れるからって側面もあったんでしょうけどやはりお酒自体の魅力ありきで────」
「うるせええええええぞっ!!」
怒号。
普段温厚なルフェルであったが、こちらの都合も無視し耳元で大音量のトークを続ける女に対してとうとう感情が爆発したらしい。
あるいはここまでしなければ通じないと考えたか。
その効果は的面で、さしもの女も驚きからか押し黙っていた。
酒場全体に響き渡る叫びを披露したルフェルは少しの間肩で息をすると、普段通りの落ち着いた表情に戻り、対話を開始した。
「はぁ……はぁ…………失敬。取り乱しました。レティツィアさん、貴女にいくつか伺わなければいけないことがあります」
「は、はい」
「まず、その格好についてですが……肌も顔も隠すように言ったはずですが」
「いやぁ、それはもうバレちゃったし、いいかなぁ〜と」
ははは、と誤魔化すような笑いと共にレティツィアは釈明する。
「良くないです。断じて良くない。あなたを知っている人の目にしか映らないわけではないんですよ。あなた、下層の酒場に入り浸っているようですが、ここ一週間で何回襲われたかわかりますか?」
「えぇー、多分、十回くらい……でも全部返り討ちにしてますよ。ロジィさんたちもいますし」
「ロジィ……」
ルフェルはレティツィアと同じテーブルを囲う者たちを一瞥した。
魔術師然とした少年、曲刀を持ったチンピラ、よくわからない黒装束の男。
真っ先に名の出たロジィというのは腕っ節の一番マシそうなチンピラのことだろうとあたりをつける。ルフェルの呟いた名前に一番顕著な反応を示していた。
「あなたがロジィですね」
「う、うっす」
ロジィも普段は強気に出る方だが、扉をぶち破って入ってくるや否や怒号を上げた──にも拘らず温厚そうな面の聖騎士様と、そして喋り上戸とでも言うべき異様な状態の女に気圧され、辛うじて肯定の意を示す返事をすることしかできなかった。
場にははっきりと異常な空気が漂っていた。
「……まあ、貴女自身も多少は強くなったようですし、下層で適当に襲いかかってくるような暴漢程度では実際相手にならないでしょう。それでも余計な騒ぎに繋がるので控えてはいただきたいところです。色々な問題が重なって今はもの凄く忙しいんです。あなたの管理も一応私が担当していることになっているので……本当に、余計な騒ぎを、起こさないでいただきたいっ!」
この場でめちゃくちゃやっておいて何を言っているんだ、と言外に含んだ視線がルフェルに刺さるが、当人が気にする様子はない。
ロジィに至っては同情さえしているようであった。
「まあ、そうだよね。顔を隠して済むなら僕もそれがベターだと思うよ。ディオンに返り討ちに遭った人たちも、今日も身体の痛みに苛まれずに平穏に暮らせていたかもしれないし────」
「そいつらは潜在的に犯罪者だったわけなのでどうでもいいのですが」
きっぱりと強い思想を感じさせる言葉を放ってのけるルフェルに、口を挟んだ魔術師然とした格好の男────イステの顔は僅かに引き攣った。
「ディオン……登録名ですね。まあ素顔を晒している以上私が偽名で呼ぶ意味も薄いのでレティツィアで通させてもらいますよ。小言はこのくらいにして本題に入ります。……レティツィア、あなたには魔導学院に向かってもらいます」
魔導学院。
レティツィアが記憶する限りでは、魔神討伐に必要な力を付けるためにフォロが通っている場所であった。
それにアルミナ──銀の髪に金の瞳を持つ麗しきメイド令嬢──も同行し、今二人で修行中、といった状況であったはずだ。
「何故私が?」
「まず、フォロ君が会いたがっているというのが一つ大事な部分です。彼も結構ストレスを溜め込んでいるようなので、まあ、適当にガス抜きさせてあげてください。あとはまあ、あなたが雑用として適格であること。ある程度潔白で、容貌と声音から他人の言葉を引き出しやすく、最低限の戦闘能力を持ち、底抜けの馬鹿でもない。というわけで、捜査に協力してもらいますよ」
「捜査?」
フォロがレティツィアを溺愛している以上前半部分に違和感はないが、捜査というのが何を指すのかレティツィアには見当がついていなかった。
「ええ。今魔導学院で起きている……学院生連殺人事件の捜査です」
そこまで聞いてから一拍置いて、今度はレティツィアが頭を抱えた。
ルフェルの手伝いが嫌というよりは、そもそも魔導学院に行く時間を取ること自体を嫌っているようだった。
「私は強くならなければなりません。最早一刻の猶予もない。私はここで冒険者稼業を続けさせていただきます」
パーティから回復魔法士が抜けて以降のレティツィアは新しいパーティへの斡旋さえ保留し酒盛りをするばかりで、冒険者らしい活動などただの一つも行っていなかったはずだが、しかしその声音は真剣そのものだった。
返す刀でルフェルも口を開く。
「決行までには未だかなりの時間があります。焦ることはありません。このプロジェクトの核であるフォロ君のケアを最優先に動くべきです。捜査協力はついでで構いません。それに、元々力をつけるために冒険者になることを勧めたわけですが、先ほども言った通り最低限の強さは身についているように見えますよ」
事実だった。
レティツィアは一度死線を潜り、その加護と精神が共に一回り成長していた。
魔神討伐には程遠くとも、以前ほど極端な足手まといにもならない。
「そして何より……誰が王都での生活費を工面したんでしたっけ? 従ってもらいますよ」
「ぐぐ……しかし……」
レティツィアはどうあってもルフェルの手伝いをしたくないらしかった。
その心情を示すためか、野良犬のように唸り、歯を鳴らしている。子供のようにも見える駄々だった。
「あのー」
声を上げたのはイステだった。
「それ、僕達も同行していいですか? 魔導学院には以前から興味があったんですよね。魔術は使えませんが……」
「……ふむ……」
それを聞いたルフェルは値踏みするように、レティツィアと同じテーブルに座っていた三人を見た。
「まあいいでしょう。旅費は各自で持ってもらいますが、許可はこちらで取り付けます。いざとなれば三人とも私一人で制圧できそうですし、雑用が増えるのは歓迎しましょう」
「ありがとうございます!」
ルフェルの舐め切った発言にも拘らず、イステは満面の笑みで礼を言った。ともすれば少女と間違えられそうな可愛らしさがある。
「え、拙者たちも行くんでござるか?」
珍妙な口調で問いかけたのは黒装束の男、トムだ。
「別について来なくても構いませんよ。そもそもレティツィアが居ればいいんです」
「いやいやいや、そう言ってくださんな、俺達も同行しますよ。なぁトム? ……おい、行く気ねえのかお前? 気にならねえのか? ディオンの冒険者以外の顔とか、こいつと、あとフォロとかいう奴との関係とかよお……」
食ってかかるロジィの発言のうち後半部分は、ルフェルに聞こえないようトムに耳打ちされていた。
「そう言われると気になるでござる……わかったでござ、拙者もついていくでござる。というかよくよく考えたら普通にディオン殿と旅行に行けるラッキーイベントでござる」
「旅行ではないんですけどね。……ああ、あと向こうでレティツィアに積極的に絡むような真似もやめて下さいね。フォロ君はあれでも思春期の子供なので、余計なストレスをかけないでください」
「自信ないでござる」
「こいつは口だけふてぶてしいですけど、手が触れただけで顔を赤らめるくらいには初心なので気にしなくていいですよ」
「何でバレてるでござ!?」
反応からして事実であるらしい。
遊んでいそうでないにしろ童貞とも見えない風体なのでルフェルにとって少々意外ではあった。
自己を厳しく律しているのだろうか。……なら酒など飲むか?
「そのフォロくんってのはどういう人間なんだ? 話聞いててもいまいちピンとこねえが……一応俺らも知っておくべきだろ?」
ロジィが空のジョッキを揺らしながら尋ねる。
「まあ、色々話せない事情もあるのですが……神童とでも思っておいてください。それで事足ります」
「神童ねぇ……」
「会えばわかりますよ」
そう答えたルフェルはトムのジョッキを奪うと、残っていた酒を飲み干し、どん、とテーブルに叩きつけた。
トムは今何故自分の酒が奪われなければならなかったのか全く理解できないといった顔でジョッキとルフェルを交互に見ている。
「お酒、強くなったんですか? 前は一口で倒れてたのに」
ルフェルの眉がぴくりと動いた。
「後で調査したところあれは強力な睡眠薬……所謂レイプドラッグ入りの代物でした。酒がどうとか関係ないです」
弁明に力が入っている。酒に弱いと思われるのは心外であったらしい。
「あー、それでほんの少し酩酊感があったんですかねー」
「あまり性質の研究された代物でもないので体質的に偶々効かなかったのかもしれませんが……あなたの身体も今後調査が必要かも知れません」
ルフェルとしては半分冗談のつもりで言い放ったのだろうが、レティツィアは勘弁してくれよ、という思いでそれを空笑いで聞き流していた。
「さて、それでは魔導学院に向かいます。レティツィアは私が魔導馬車で送迎しますが、冒険者の皆様方におかれましては適当な手段で現地まで移動して下さい。行きますよ」
「え、今日なんですか? お酒も抜けてませんし準備もしてないですけど」
「宿を経由しますので荷物全て持って引き払ってきてください。王都内とはいえ魔導馬車を走らせても数時間はかかるので酔いは道中で覚ましてください。その他必要なものがあれば私に申し出てください。他に何か質問は?」
「……ありません」
ルフェルの有無を言わさぬ口調に押し切られていた。
その言葉を確認したルフェルは店主に修復費用を色をつけて渡すと、何とも言い難い表情のレティツィアの手を引いて酒場を後にした。
店内は少しの間嵐の後のように静かだったが、徐々に賑やかさを取り戻していった。
「あの二人……恋人なんでござるかねえ」
「どう見てもそうは思えなかったが……まあ絶対違うとも言い切れんな。複雑な事情があるのは間違いないだろう。聖騎士団第二位様と男装して冒険者やってた謎の女。で、そいつらが気にかけるフォロとかいう神童。興味深い。あまり詳しく話したくもなさそうだったしな。誰が誰とどういう関係なんだか……」
「え、あの人、聖騎士団なんでござるか? しかも二位?」
「あのなりでルフェルっつったらどう考えてもそいつしかいないだろ……気付かずに話してたのか」
「いや、僕も知らなかった。偉い人なんだろうなとは思っていたけど。ロジィに変な知識があるだけだと思うよ」
「頼りねぇ……まあいい、俺達も急ぐぞ。経費節約のため走って追いつくことにする」
「えー、僕それ多分ついていけないよ」
「トムにおぶってもらえ」
「ほんとに言ってるでござるか?」
ロジィは行動が早かった。
酒代を払うと数秒後には走り出していて、そうなればトムにも反論するなり考えるなりといったことはできず、見失わないうちに言葉通りイステを背負って走り出すより他になかった。
先程まで騒いでいた連中は揃って消え失せたが、滅茶苦茶になった酒場の入り口が確かに先程までの出来事が実際に起きたものだと証明していた。
最後に頭を抱えたのは店主だった。