私は何者か ③
「はい、起動したよ。着替えだとかは、メイドが外に置いておくはずだから」
それだけ言って、フォロは浴室から離れた。
起動した、とは恐らく風呂型魔導具のことで、一度起動さえしてしまえば他人が自由に使えるのだろう。
襤褸切れを脱いで、扉を開く。湯の熱気が頬のあたりを抜けた。
フォロの家の浴室は広かった。全面石造りではあるが、天井は高く開放的で、浴槽自体の大きさも3メートル四方ほどはある。
石鹸やソープなどは置いてなさそうだったが────その代わりに、鏡があった。
鏡。私の現在の姿を確認する手段だ。
ここに来るまでも水場などはあったが、しっかりと私の姿を反射してくれるものはなかった。
この鏡は銅鏡であるようだが、しかしはっきりと私の、レティツィアの姿を映し出していた。
髪と瞳はフォロの言う通りの闇色、もとい黒。これまで見かけた人間はどいつもこいつも色素の薄い髪を伸ばしていたので、少なくともこの村においてこの色は間違いなく異端のそれなのだろう。
顔立ちは非常に整っており、フォロと比較しても遜色ない程である。大きく、しかし物憂げな眼と、小振りだが筋の通った鼻が印象的だ。歯もいっそ気持ち悪いほどに白く綺麗に並んでいる。
肌も白く、まるで透き通っているようだが、下腹部と首のあたりに謎の模様が確認できる。首にはチョーカーのように引かれた三本の横線。これもフォロや執事など他の住人には確認できなかったものなので、民族特有のペインティングやタトゥーなどではなく、恐らくは私のみに焼き付けられた烙印だとか、そういう類のものなのだろう。この世界には魔術なんてものがあるそうなので、私を拘束するような魔術的意味が込められているのかもしれない。
腹の模様の方についてはよくわからないが、同様に魔術的な、子を産めない呪いでもかけられたのだろうか。中々禍々しいデザインの刻印だ。……淫紋なんて言葉が一瞬脳裏を過ったが、すぐに振り払う。
レティツィアの手足はすらりと細く長く、私の物差しで測れば非常にスタイルがいい部類だ。身長は……比較するものがないのでいまいちわからないが、170cmだとか、そのくらいに見える。
筋肉はあまり付いていないが、病的に痩せ細っているなどということもない。それなりに肉は付いており、むしろ健康的にさえ感じられる。酷い扱いを受けているような雰囲気だったが、食事はしっかりと摂らせてもらえているらしい。
胸はそれなりに大きく、また、体毛はほとんど確認できない。手入れは楽そうではあるが、まあ元々する気もない。容姿を利用する上でプラスになりそうな部分ではあるが、そもそもここが『女性の体毛は濃ければ濃いほど良い』といったような価値基準のある世界である可能性さえあり、そうなればこれはデメリットだ。
総評。私の感覚からして、レティツィアはかなりの美人だ。
いや、美人と表現するには若すぎるような気もする。妙齢と言うべき外見である。
それと、忌み子でありながらまだ生かされているという点、下腹部の刻印及びこの首輪のような模様などを考え併せると、非常に気持ちの悪い仮説が立つ────が、本当にあまり考えたくないので、この件に関しては先送りにすることにする。
保留だ。
改めて浴室を観察する。私の身長より数十センチほど高い場所に蛇口のようなものがあり、どうやらそれをシャワー代わりにできるようだった。蛇口の真下には所謂魔法陣のように見える紋章が淡い赤色に光っていたので、試しにそこに立ってみると、やはり蛇口から湯が流れ出した。頭からそれを受け、そのまま指で髪を梳く。
湯からはハーブのような匂いがした。不純物の紛れていない普通のお湯というわけでもないらしい。ある程度体を清潔に保つ効果でも持っていたりするのだろうか。
汚れを洗い流すように肌を擦る。女性らしく皮下脂肪が多いのか、柔らかい感触が手に返ってくる。高所から落下していたはずであるにもかかわらず擦り傷などはないらしく、どこかに痛みを感じるようなこともなかった。
全身を一通り洗い終えたところで二歩後ろに歩くと蛇口からの湯は止まった。
そのまま足先から浴槽に入る。
一般的な風呂と比較すると少々熱いが、私はこのくらいの水温が好みだ。もしかすると入浴者の好みによって温度が変化するのだろうか。
浴槽に座り込み、思考を巡らせ始める。
考えるべきことは多いが、しかしさしあたって出来ることはそこまで多くない。方針を立てるにしてもこの世界の知識が不足しすぎているためだ。
目下の問題は、いかにしてその知識を手に入れるかというところにある。
図書館などに行ければそれだけでかなり進捗するだろうが、こんな村にそんなものがあるはずもないだろうし、そもそも本が一冊あるかどうかも怪しい────
「レティ、大丈夫?」
浴室の外からフォロの声が聞こえてきた。
私はどうやら気付かないうちに眠ってしまっていたようだった。肉体の疲労か、精神の磨耗か。
少なくとも私の精神部分には、一度死んでレティツィアとなったことによって、どこか前の環境から解放された安心のようなものがあった。
それでも先程までレティツィアとして気を張っていたのだが、風呂という閉鎖空間に入ったことによってそれからも解放されて完全に気が抜けてしまったのだろうか。
この状況においては、油断した、と言うべきか。
「ごめん、寝ちゃってた」
「そっか、溺れてなくて良かったよ。時々そういう事故もあるみたいだからね。もう夕飯の支度が出来たみたいだから、そろそろ出てきてね」
「そうする」
水音を立てて浴槽から出ると、すぐにそのまま浴室の扉を開き────浅慮だったと後悔した。
「うあっ、れ、レティ!? 」
まだフォロが脱衣所にあたる部屋から出て行く前だった。
健全で純朴な少年の前に女性の裸体を晒す結果となってしまう。
フォロの容姿と地位からすると既にそういう経験があってもおかしくはないのではないかと考えたが、この少年は私の、もといレティツィアの裸に茹で蛸のように赤面していた。
咄嗟に手で顔を覆い隠しており、その隙間から私の体を覗こうとも考えていないらしい……つまり純粋に女性の裸を見たらダメだと思っているらしく、その様はなかなかどうして可愛らしい。
こんな辺境の村でよくそこまでのモラルが育つものだ。いや、だからこそ、か?
まあとりあえず謝っておくか。
「えっと、ごめん」
「ご、ごめんっていうか、こっちがごめんっていうか、す、すぐに出て行くから!」
バタバタとコミカルな音を立ててフォロは走り去って行った。
置いてあるタオルと着替えに目をやる。
タオルは現代のものほどふかふかとはいかないが、しかし驚くくらいに水を吸ってくれた。ドライヤーが必要ないと思えるほどだ。この世界に特有の素材でも使っているのだろうか。
着替えの方は黒を基調としてごてごてとした装飾がついたエスニックな衣装を用意されていた。チャイナドレスをロリータっぽくしたような、見ているとなんとなく胸焼けする感覚のある服だ。
……どう着れば良いのだろうか。
下着は用意されていないようだ。襤褸切れを着ていた先程までであればまあ下着を身につけていなくても仕方ないだろうという感じはあったが、これも下着を着けずに着てしまうべきものなのだろうか。
ぎこちなく袖を通す。構造が見た目より単純だったのが幸いして、どうしても着られないというようなことにはならなかった。
脱衣所から出てすぐのところにはフォロが居た。ブーツも用意されていたのでそれを履き、フォロに声をかける。
「待っててくれたの?」
「この家のことわからないでしょ? 広間まで案内しなきゃと思ってさ。服のサイズとかは大丈夫?」
「うん、問題ないよ」
多少困ってはいたが──ちょっと胸のあたりがきつくて、などとは口が裂けても言う気になれなかった。
私はまだ自分を捨てきれていないらしい。
フォロの後をついて歩くと、すぐに広間に出た。意識していなかったが、屋敷の構造は少しずつ覚えておくべきだろうか。
用意された食事の香ばしい匂いが抜ける。
皿の数がかなり多かった。使用人達も一緒に食事を摂るのだろうか。既に席に着いているメイドなどもおり、特にそういうのが失礼になるなどということもなさそうだった。
先程も見た執事風の初老の男がこちらへ歩いてきて、恭しく礼をした。
「言われた通り、フォロ様と同じ食事を用意させました。今後もそのようにさせます」
「ああ、よく応じてくれた」
「……領主様がこれを知ったときには、私達の首が、文字通り飛んでしまってもおかしくありません。我々がいなくなれば屋敷は回らなくなるでしょうが、しかしそんな事も厭わないと思えるほどに領主様はこの忌み子を嫌悪しておられました……信じておりますぞ、フォロ様」
領主様というと、フォロは領主の息子だったわけだ。
この村ではおそらく父に次ぐ最高権力者だろう。村人から仰々しく接されるのも当然か。
「任せろ」
「どうするつもりなの?」
私がフォロにそう問うと、途端に執事が鬼の様な形相で私を睨んだ。
「……娘、貴様、フォロ様に向かって……」
「待て、僕がそういう風に話せと言ったんだ」
そういえば二人きりの時はフランクに、とかいう条件付きだったのを今思い出した。
そういうことを考えるのは昔から苦手だ。
「すみません、気をつけます」
「ロディブ、あまり噛み付くな。レティツィアの事は客だと思って接しろ」
この執事風の男の名はロディブというらしい。
「客であっても、フォロ様にあのように話しかけたのであれば──」
「わかったわかった、僕が悪かった。すまないが、レティツィア、僕に対して使う言葉は選んでくれ」
「わかりました」
言葉遣いの問題というのは私の前世以上に面倒らしい。
胃が痛くなってきた。
「食事にしよう。冷めてしまっては勿体ない」
食事自体はかなり美味しかった。どう見ても百足の素揚げにしか見えない主菜をはじめとしてわけのわからない見た目をしたものが多かったが、味や食感、香りは上々で、本日初の食事であることも手伝ってどんどん箸が進んだ……いや、箸ではなく、フォークとナイフとスプーンが混ざったような奇妙な食器を使わされていたのだが。
食事中ずっとこの不可解な食器で口の中を切らないか不安だった。何がどうなってこんなものが普及してしまったのか、理解に苦しむ。
マナーに関してはかなり不安だったが、使用人達の食べ方を真似てどうにかした。裏で陰口でも叩かれていないことを祈るのみだ。
そういえば、使用人にはやたらと美女が多かった。村を歩いた感じではこの世界の誰も彼もが美形だというわけでもなさそうなので、そういう人間を選んで雇用しているのだろう。
なんなら能力やコネクションなどより優先されているのではないかと疑ってしまうほどだ。
まあしかし、その分かなり居心地は良く、目に幸せだ。
不意に、長い銀色の髪をした大人しそうなメイドと目が合ってしまった。前髪が綺麗に切り揃えられているのが特徴的だ。
村人達が私に向けるような、嫌悪感の顕れのような表情を彼女にまで作られたくはなかったので、すぐに目を逸らそうとした。しかしそのメイドはあまりにも美しく、私好みの姿をしていて、その透き通った蜂蜜のような金色の瞳から私は目が離せなくなってしまった。
しかしメイドは表情を作らない。仮面のような無表情のまま、私を見据えている。
「あの」
少しの静寂の後、メイドが私に話しかけた。
「は、はいっ」
予想外の出来事に動転してしまう。まさかメイドのほうから私に話しかけてこようとは、考えもしなかった。
「何か……お困りですか?」
無表情から一転、慈しみの漏れ出した笑顔でメイドは私にそう言った。
「い、いえ、特には」
「そうですか」
もう一度笑顔を作ると、また作り物のような完璧な無表情に戻り、私から視線を切った。
たったこれだけのことだったが、私は確かにこのメイドに救われた気がした。私の精神を縛り上げる緊張や不安といった類の縄が少しだけ緩まった気分だった。
後でナンパを……いや、無理か。無理だな。無理だ。
私は今女だからな。
……いや、そういう問題でもないか。