私は何者か ②
「……もしかしてだけど、崖から落ちた時に記憶を失った、とか」
困惑を顔に浮かべ、一度聞いた台詞を吐くフォロ。
「そういえば、私の名前も思い出せません」
こちらは白々しく嘘を吐く。
「や、やっぱり……大変なことになっちゃったな……」
「名前」
「え?」
「あなたと私の名前を、教えてくれませんか」
知っている事を知らないように聞くという事には、どうにもむず痒い感覚がある。
悪女にでもなった気分だ。
「……僕はクリストフォロス。フォロって呼んで。君はレティツィア。姓はなくて、レティツィアって名前が全てだよ」
姓がないというのはまあ、別に私の世界でも時代によっては珍しい話ではなかったが、先程こいつはレティツィアの姓については『なかった事になった』と言っていた。こいつの場合には何かしらの事情がある。
「私とあなたは、どういう関係だったんですか?」
「レティと僕の関係は……なんて答えればいいんだろう」
フォロは言葉に迷うような素振りを見せる。
恋人か、そうでなくても友人だとか幼馴染だとか、すっと答えてくれそうなものだと思っていたが。
「ええと、多分友達っていうのが一番近いんだろうけど、あまり普通の友人関係らしくもなかったし……いや、親しくなかったなんてことはないんだ。なんなら僕が一番君と親密な人間だったと思う。ただ、そもそもの君の立場が僕らの関係を複雑にしてるんだ。お互いがどう思っているかとかとは関係なしに、君は基本的に、自発的に他人と会話することを禁止されているから。少なくとも表向きには友達でいられない」
「禁止? なぜ?」
「それは、その────君が、忌み子だから」
忌み子。
存在が不吉である子供。望まれずに生まれてきた子供。
広義には、文字通り……忌み嫌われた子供、だ。
「ある家で双子の妹として生まれてきた君の、その闇色の髪と瞳は、悪魔の子と呼ばれるのに十分な禍々しさだったんだ。僕は、その、綺麗だと思うけど」
フォロは少し頰を染めてそう言った。
乙女か。
双子、というのは昔から、祟りごとのような扱いを受けがちな存在だ。その片割れが、恐らくフォロのような髪の色をした人間が多い中、闇色……恐らくは黒髪黒目で生まれでもしたら、それはまあ悪魔の子だと誹られるようになることもあるだろう。言及されてない以上、レティツィアの姉(兄?)の髪色は一般的なものだったのだろうし。
その町、いや、集落か? とにかくフォロ達が住むところからここがどの程度離れているか知らないが、このあたりは見渡す限り未開の地さながらの大自然だ。崖の上から展望しても同様。フォロの服の細部や腰につけた木製の水筒の出来から判断しても、文明レベルはそこそこであり、髪の色の異なる双子の誕生を理屈で処理できるほどの学術的知識は存在しないのだろう。経験則から不自然でないと考えてもよさそうなものだが、双子が産まれるなんてことさえ初めての出来事であるような、非常に小規模で閉鎖的なコミュニティであってもおかしくない。
まあそのあたりは実際に赴いた時に確認すればいい。
「僕も僕で、面倒な立場にいるから……簡単には、表現できない」
「私の身の上は理解しましたが、あなた──フォロの立場とは、どのようなものなのでしょうか」
「……とりあえず村に戻ろう。もうそろそろ日が暮れるよ」
誤魔化したな。
自分のことについてはあまり語りたくないらしい。
「わかりました。ついていけばいいんですね?」
「……うん。そうしよう」
これも不都合を飲み込むかのような応答だ。
まあ忌み子と連れ立って村の外へ出ていたと知られるのが良く転ぶわけがないか。
だが、離れて村に入るように、などといった指示もない。
村の人間に対しても、レティツィアが記憶をなくしているようだということを説明するつもりだろうか。
村の外で記憶を失い呆けていたところを拾ってきた、と、そのまま伝えてもある程度筋は通るだろう。
言葉通り、フォロのあとをついて歩く。
村に近づいていることを示すように、ぽつぽつと人間の存在の痕跡が表れ始めた。切り株だとか、目視できる罠だとかだ。後者はトラバサミのような形状をしているものなどがあり、数も少なくない……というか多い。
見たまま動物を捕らえて食用にするためのものだと考えられる。視認できるとはいえ、もし踏んでしまえばただでは済まないはずだ。人間にとっても十分に危険な罠だろう。
村の人間達の間でそれを仕掛けた位置などは共有されているのかもしれないが、それを知らないうちは視界の悪い夜にここを歩くことは自殺行為になりかねない────つまり、私がこっそり夜に一人で森の中を歩くような真似をすることは厳しいだろう。数が多いのもそうだが、目視できる罠が全てでない可能性もある。
また、野生動物の捕獲用にしては……量が過剰に思える。獣のような外敵が多い、とかか?
私の目的は死ではあるが、現段階で死亡してしまえばまたリセットされて最初からだろう。さすがにそんな状況での死は御免被りたい。
それ以前にトラバサミに拘束されて失血死あるいは餓死なんて経験は絶対にしたくない。
森を抜けると、少し遠くに家屋がいくつか目視出来た。
思ったよりもしっかりとした石造りの家だ。最悪藁葺きや布で建てられていると思っていたのだが、それらよりは少し安心感がある。まあ石造りの家というのは確か古代エジプトには既に存在していたわけで、それを以って思ったより進んだ文明があるなどとは口が裂けても言えないが、ぱっと見では近代の西洋っぽい感じさえある。
フォロに続き、堀にかかった橋を越える。
「村に入るための橋はこれひとつだけ。底が見えないくらい堀が深かったでしょ? わざわざ先代領主が魔導師を王都から呼んで掘らせたんだ。かなりお金はかかったらしいけど、橋がない場所から村に入ることはほとんど不可能になって、お陰でそれ以降賊や獣による大きな被害が出たことはないらしいよ」
「なるほど……」
板でもかけて橋にしてしまえば簡単に侵入できそうだとも思ったが、納得したように頷いておく。
さすがにそれを考慮しないはずもない。その程度なら対処も可能なのだろう。
それはそれとして、フォロの話に出てきた単語。
魔導師に、王都。
王都とやらとの繋がりは、ここが未開の地に存在する少数部族の閉鎖的集落などではないことを示し、魔導師などという私の聞き慣れない単語と併せて────ここが地球上のどこかではない、という可能性をより色濃いものにしていた。
確定、と言ってしまってもいいだろう。
大都市と繋がりがある、ということは、文明レベルにおいてこの集落が大きな遅れを取っていない、ということと近しい。完全に同程度とは言えないだろうが、フォロの言い方からしてもここは秘境などではなく、精々が田舎町、といったレベルの場所なのだろう。
アフリカにさえインターネットが普及しつつあるこのご時世に、ここまで後進的な白人の村が存在するなどということは……あり得ない。
ここは私のいた世界ではない。
「……魔導師とはなんですか?」
「魔導師っていうのは、そのまま魔導具を扱える人たちのことだよ」
そこで説明を切られても困る。
「魔導具というのは」
「ああ、魔導具っていうのは、魔力を通す事で特別な効果を発揮する道具のこと。この堀を作る時には地面を水でも掬うように抉れる巨大なスコップを使ったらしいね」
「……魔力、というのは」
「えーっと、ちょっと説明が難しいなあ……特別な力、かな」
何の説明にもなっていない。
「どう特別なんでしょうか」
「それを扱えるって人がほとんどいないから特別。みんな少しは持っている力みたいなんだけど、強力な魔導具を動かせるレベルで扱える人は千人に一人くらいだったかな。魔術を使える人間となると更に少なくなる」
「…………魔術とは」
「うーん……そろそろ人目がある場所に出るから、また今度ね。あんまりみんなの前で仲良く話してるわけにもいかないから」
気になるところで話を切られてしまった。しかしまあ、私がこういった知識まで忘れてしまっている、ということ自体を怪しまれるような様子はなかったのは僥倖か。
記憶喪失に陥ったとしても知識のような記憶は本来失われにくく、エピソードのようなものだけが抜け落ちる場合がほとんどなのだが、記憶喪失という概念は認識していてもそのあたりまでは知らないようだった。
まあ仮に知っていたとして、その違和感から別人の魂が入っているなどという真実に辿り着くことは有り得ないだろうし、そもそもエピソード記憶云々など、どこまで向こうの世界での知識が通用するのかという話でもある。今のところは同様に思えるが、脳の構造からして大きく異なる可能性さえある。
「……わかりました」
フォロ以外の人間との接触には気を付けなければならない。確か、自分から話しかけてはならない、だったな。
フォロの言う通り、ぽつぽつと人影が現れ始めた。
その中の一人、初老の男性がこちらに向かってくる。
「……クリストフォロス様。何故『それ』と歩いておられるのですか?」
様付けか。フォロはやはり結構な立場にあるらしい。
そして『それ』、とは……まあレティツィアのことだろうな。
随分良い扱いを受けているものだ。
「東の森の中で記憶を失い彷徨っていたところを保護してきた。崖から落ちてしまったらしい」
「……なるほど。他の者にも伝えておきます。まあ、それの記憶が無くなったところでなんら支障はないでしょうが」
「頼んだぞ」
フォロがそう言うと、初老の男は私達から離れていった。
フォロが再び歩き始めたのでそれについて歩く。
すれ違う人々は皆こちらに視線を送ってくる。
好奇、奇異、忌避、嫌悪、困惑、そういった、大抵負の感情に分類されるであろう要素を含んだ視線。
クリストフォロス様が忌み子と歩く姿は余程珍しいものらしい。
レティツィアが忌み子であるという事実、そしてフォロの言っていたレティツィアとフォロとの関係の面倒臭さというものが身に染みる。
「帰ったぞ!」
他の家と比べるとかなり大きく豪奢な家の前に着くと、フォロが大きな声でそう言った。
この豪邸がフォロの家であるらしい。
このまま私まで入ってしまっていいのだろうか?
人目がある以上迂闊に尋ねてしまうのはやめておいたほうがいいはずだ。フォロが何も言わない以上そうであると思うしかないだろう。
扉が内側から開き、中から執事風の男性が出てくる。
「お帰りなさいませ。……フォロ様、そちらは」
「保護した。記憶がないらしい。後でギルネーからも通達があるはずだ」
ギルネー、とは先程の初老の男のことだろうか。丁度この執事も同じくらいの年齢だな。
しかし、レティツィアの記憶の消失というのはわざわざ通達されるような大事なのだろうか?
「左様ですか……しかし、それをこの屋敷に上げるなど……」
「問題があるか?」
「当然です。許したとなれば、私達も何を言われるか」
「父上に何か言われたら、僕に脅されたとでも返しておけ」
「……何か、考えがあるのですね」
「ああ。しばらくはここに住ませるから、食事も一人分多く用意するように。部屋は来客用のものを使わせる」
「畏まりました」
会話の後、恭しく礼をすると、執事は屋敷の奥へ歩いて行った。
執事の言葉と態度からはフォロの能力への信頼が窺える。可愛い顔をしてなかなかデキる男であったらしい。
「一度僕の部屋に行く。ついて来い」
屋敷の内装は比較的近代的なものだった。ヨーロッパを思わせる装飾が多い……もっとも、よく見れば私の記憶にあるいかなるデザインとも結び付かないようなものばかりであるのだが。
フォロに続いて部屋に入る。
私が入ったことを確認すると、フォロはもう一度扉の方へと歩き、鍵を閉めた。
「────はあっ、緊張したっ!」
「……普段からああいう感じで振舞っているというわけではなかったんですか?」
「ああ、いや、僕の態度は普段通りなんだけど、君を後ろに連れて村の中を歩いたことなんてなかったからさ……ああ、二人きりの時は、もっとフランクに話してくれると嬉しいなあ」
「わかりました……わかった。えっと、私を家に入れたのはどうして? 私の家は?」
普通の女の子はどう話すのだろうかなどと考えながら、探り探り口調を整えていく。
「レティの家はないんだ。君の両親はこの村に家を持っているけど、その家を追放されているから、君がそこに入ることはできないと思う。普段は教会で生活しているんだけど、まあそこの人間からもかなり酷い扱いを受けているみたいだし、記憶をなくしたとなればかなり不都合があるだろうから、僕の家に住んでもらうことにした。……本当は、もっと早いうちにこうしておきたかったんだ。レティはずっと苦しんでいたのに、僕は何も出来なかった。今回の件は、僕にとって転機だった」
なるほど。
記憶を失くした人間への対処というより……これを機にしてレティツィア周辺の環境を改善しようとしている、という話か。
「迷惑じゃないの……?」
「迷惑なわけないよ。僕がやりたくてやっているんだ」
「……ありがとう……」
あまり感謝もしていないが、表面上はそういうふうに繕っておく。
フォロは笑顔を返してきた。
フォロとしては、迷惑どころか大歓迎であるはずだ。関係性が複雑であれ、やはりフォロにはレティツィアへの少なからぬ好意がある。見て取れる。
その好意は────可能な限り、利用するべきだ。
少しの静寂の後、フォロが口を開く。
「夕食まではまだ時間があるし、お風呂にでも入ってきたらどう?」
「え、お風呂があるの?」
体は拭いて済ませる程度しかできないだろうし、あっても精々シャワーだけだろうなどと勝手に考えていたのだが、入れるのならそれは嬉しい。
風呂というのは基本的に外界から隔絶された空間であり、気を散らされるような電子機器も普通持ち込めないので、以前は思考の場として重宝していた。考えることが多い現状でこれほどありがたい知らせもない。
大衆浴場を指して言っているなどということもないだろう。レティツィアがそんな場所に入れないであろうことをフォロは重々承知しているはずだ。
「一応ね。王都では型落ちの安物みたいな扱いらしいけど、風呂に必要な機能は十分備わっているはずだよ」
「型落ち?」
「うん。魔導具だからね、新しくより有用なものが開発されれば古いものの価値は落ちるんだ」
なるほどな。
魔法の力を以ってすれば、水道がなかろうがガスが通ってなかろうが、簡単に個人の家に手間のかからない風呂を設置できる、というわけだ。
しかし、わからない点が一つ。
「誰がその魔導具を動かせるの?」
先程のフォロの話によれば、魔導具を動かせるのは一握りの特別な人間だけであったはずだ。
わざわざ王都から呼ばなければならない程度には希少なその魔導師が雇われこの家に滞在しているとでも言うのだろうか。
「あ、言ってなかったね。僕、かなり強い魔力を持ってるから、魔導具を動かすくらいなら簡単にできるんだ。って言っても要求魔力はモノによってバラバラだから、もしかしたら動かせないものもあるかもしれないけど」
なるほど。
どうやらこの少年は、一握りの特別な人間であったらしい。