私は何者か ①
全身に激痛が走る。
不可解だ。
直近の記憶を辿れば私は首を吊った、はずだった。
にもかかわらず今こうして痛みなどという生者に特有の感覚に苦しんでいるとなると、自殺には失敗したのだろうか。
徐々に視界が鮮明になり、赤茶けた地面を明るく照らす木漏れ日が私の目にも差し込んだ。耳も徐々に聞こえるようになってきたようで、虫の声や鳥のさえずりなどがじんじんと痛む脳に沁みる。
悠々と広がる木々からしてもここは屋外であるらしい。
私が縄をくくりつけたのは天井の梁だったはずだ。御親切に私を助けようとした誰かがここへ運んだということか。
完全に余計なお世話だ。
私は他意なく死にたくて死のうとしていたのに。
まあしかし、木々の間を抜けて頬を撫でる風がそこそこに気持ちよく、私を安置する場所にここを選んだ点に関しては評価するべきかもしれない。
それなりに常識を持ち合わせている人間だったら、まず病院にでも連れて行くだろうが────そうされなかったことは私の目的を鑑みれば好都合だ。
いつまでも横たわっていても仕方がないので、激痛を堪え、無理矢理に体を起こす。
「レティっ! レティっ!! 無事だったんだね、よかった!」
男の声がする。
かなり若い────少年とでも呼ぶべき年代のそれだ。
少々興味を惹かれ、その声のする方を見やると、やはり幼げな男の子が立っていた。
少年は白っぽい金髪を靡かせている。身長は165cmくらいだろうか。長い睫毛に囲まれた水晶のような蒼い瞳に透き通った肌。パーツの一つ一つが相当に恵まれた代物であり、それが奇跡的に一人の少年の中に共存していた。
総合して、稀代の美少年と呼んでも差し支えないであろう魔性が感じられる。同性である私でさえ惹かれてしまうほどだ。
いるところにはいるものだな。
「急に飛び降りるから、本当にびっくりしたよ……。見た感じ怪我はなさそうだけど、歩ける?」
まあしかし、私には関係のないことだ。
少年から視線を切り、少年が歩いてきた方、もとい、より明るい方へと歩いていく。
おそらくこの先が森の終わりだ。
少年も飛び降りがどうとか言っていたし、近くに崖でもあるのだろう。
一度森を出て、そこに登りたい。
「待って待って、無視しないでよっ!」
後ろから走ってきた少年に肩を叩かれる。
「なんでしょうか」
咄嗟に出した自分の声に違和感を覚える。
首を吊った際に喉を痛めでもしたのだろうか。
「な、なんでしょうかって……レティ、頭打っておかしくなっちゃった? それとも、もしかして、怒ってる?」
少年の表情が困惑と焦燥に染まる。
「私はレティとやらではありませんが」
「いや、どう見てもレティだよ? 口調に違和感はあるけど」
少年の言葉によれば、私はどう見てもレティらしい。
誰だよ。
御伽噺から出てきたかのような見た目をした少年は、その硝子細工のような口を動かして言葉を続ける。
「……もしかしてだけど、崖から落ちた時に記憶を失った、とか」
「いえ、ですから────」
いや、待て。
この少年は私がレティとやらであると信じて疑っていない様子だ。
下手に否定するよりも、ここは話の流れに乗ったほうが得策かもしれない。
「────そう、なのかもしれません」
「や、やっぱり……大変なことになっちゃったな……」
少年は悲しむような表情を見せた。
レティとやらとは余程仲が良かったのだろうか。
レティの記憶、更に言うならレティと彼との思い出には、彼にとって大きな価値があったと見える。
「……先程、私が急に飛び降りたと、そう言っていましたよね?」
「うん、そうだよ。このすぐ近くにある崖から────」
「そこに、連れて行ってもらえませんか? 何か思い出せるような気がするんです」
食い気味に頼み込む。
我ながらかなり雑な言い分だが、頭から否定されることもないだろう。
「わかった。ついてきて」
話が早くて助かる。
人の手が加えられた形跡のある、階段のような坂道を歩く間、この少年と会話を交わした。
「レティ、本当に何も思い出せないの?」
「言葉を扱えている以上、全ての記憶が消し飛んだというわけではないのでしょう。今鳴いているこの鳥の呼び名も、あなたの名前も思い出せませんが」
よくもまあ、こんなそれらしい嘘がぺらぺらと出てくるものだ。
今までの人生で数え切れないほどの嘘を重ねてきただけのことはある。
「……そっか。僕はクリストフォロス。君はフォロって呼んでくれてた」
「フォロ」
「そう。そして僕にだけは、友人のように接してくれていた」
「あなたにだけは、というと、他には一人も友達がいなかったということですか?」
だとするならレティは相当人間性に欠陥を抱えているのだろう……もっとも、私も他人の事を言えるような人間ではない。
「うん。レティは村ではちょっと特殊な立場なんだ。だから、みんなの前では僕に対しても話しかけないようにね。……レティが理不尽に怒られてるところ、見たくないから」
いまいち話が見えてこないが、どうやらレティという人間にもかなり苦労があるらしい。それはきっと、崖から飛び降りるに足る苦痛だったのだろう。
「ああ、そうそう、僕はレティって呼んでるけど、みんなからはレティツィアって呼ばれると思う。姓まで含めるともっとずっと長かったらしいんだけど、今はなかったことになってるから、気にしなくていいね」
なかった事に、か。
しかし、レティツィアというと女性の名だったような気がする。尚更不可解だ。
私は見る者の目玉が腐敗してでもいない限り女性とは捉えられないような容姿をしていたはずだが。
まあ今はどうでもいい。
「ついたよ。ここが君が飛び降りた場所。僕らの秘密の場所」
フォロに連れられて辿り着いたのは、この世のものとは思えないほど美しい景色を一望できる高台だった。
右手にはアクアマリンを敷き詰めたかのように煌めく海が、左手には太陽の光に照らされてエメラルドのように輝く大森林が広がっている。
その中程にある岩山もまた簡単には表現することの叶わない不思議な色に染まっていた。
まさしく絶景だと言えるだろう。
「どう、何か思い出せた?」
……まあ、景色が綺麗だなんて情報、私からすればこの上なくどうでもいいのだが。
重要なのは、下の地面までの間に────飛び降りた人間が死ぬのに十分な高さがあること。
「綺麗……」
景色に見入っているように装い、一歩一歩、ゆっくりと崖際へと近づいていく。
フォロに止めに入るような様子はない。意図するところに気付かれないまま、私は崖の淵に立つことが出来た。
思い通りに事が進んだことに口角を上げる。
「────さようなら」
振り向いてそう呟き、地面を蹴って背中から飛び降りた。
フォロが何かを叫んだようだったが、風を切る音に遮られてその内容はわからない。
落ちる間に視界に入る、上下が逆さまになった風景は尚のこと幻想的に見えた。
この綺麗な景色を見ながら死ねるのだから、今この瞬間に限っては、私は間違いなく幸せな人間だろう。
すぐに、視界が闇に染まった。
全身に激痛が走る。
「…………?」
不可解だ。
私はもう一度、死んだはずだ。
遠くから、人の声のようなものが聞こえる。
「レティっ! レティっ!! 無事だったんだね、よかった!」
聞き覚えがある。
一字一句聞き覚えのあるセリフだ。
その抑揚さえ私が先ほど聞いたものと完全に一致しているように感じる。
先程の事もあって痛みにも少し慣れたのでさっさと起き上がる。どういうことなのかわからないが、寝ている場合ではない。
こちらが起き上がったのを確認したフォロがホッとしたような顔をする。
「急に飛び降りるから、本当にびっくりしたよ……。見た感じ怪我はなさそうだけど、歩ける?」
この言葉も、だ。
「……フォロ。確認しますが、私は何回崖から飛び降りましたか?」
「? 僕が知る限りではさっきのが初めてだけど。っていうか、喋り方、どうしたの?」
「…………」
絶句する。
私が先程崖から飛び降りた事実はなかったことになり、直前の現実がもう一度繰り返されている。
冷や汗を無視し、顎に手を当てて思考する。
何が起こったのか。
既視感、などというレベルの話ではない。私はつい先程、確かにこの世界を経験した。
「……レティ?」
一。私の死をきっかけに、あるいは私が死んでしばらくたった後、時間が巻き戻され、そして私の記憶のみが保持されている。
あり得ない。普通に考えてあり得ないが、そもそも普通に考えてあり得ない現象が私の身に起きているわけで、その理屈をあり得ないなどと言って頭から否定するのはナンセンスだ。
二。先程の経験は未来予知である。
正夢、とでも言い換えようか。これから起こることを私の脳が正確にシミュレートした、という仮説。
どちらも非常に非現実的だが、後者の方が比較的妥当に思える。例えるなら、雨に濡れた洗濯物を過去に戻って取り込む事と、天気予報を見てあらかじめ室内で干す事にするのでは、どちらのほうが現実的か、とか、そういう話だ。……いや、これは違うか。
まあとにかく、タイムリープよりは予知のほうがまだ現実的なのだ。
それに、打開まで考えるのなら後者であった方がかなり都合がいい。
よって、さしあたってはそう考えて動くことにする。
「レティってば!」
「……ああ、すみません、どうしても……あなたの名前だけしか思い出せなくて」
先程と近い展開になるように嘘を並べる。
「もしかして、記憶が……? 大変なことになっちゃったなあ……」
「私が飛び降りたという場所まで連れて行ってもらえませんか? そこへ行けば、何かを思い出せるような気がするんです」
「わかった。ついてきて」
これも先程聞いた言葉だ。過程は多少異なっていたが、収束したとでも言うべきだろうか。
フォロの後を追い、適当な会話を交わす。
何事もなくもう一度崖の上に辿り着き、見覚えのある絶景を目にし、そしてそのまま飛び降りた。
先程のものが予知夢で、ここが現実であるのなら、私がすべきことは非常に単純だ────もう一度死んでしまえばいい。
今度こそ、死を迎えられるはずだ。
私の感覚の上では都合三度目の自殺となる。
落ちていく際の光景でさえ先程のそれと全く違わなかった。
すぐに視界が闇に染まる。
全身に激痛が走る。
三度目になるこの痛みにも慣れたものだ。他の諸々を確認するまでもなく、どうやらまたしても世界が巻き戻っているらしい。
元々あまり期待はしていなかったのだが、やはり私の考えは間違っていたようだ。
「レティっ! レティっ!! 無事だったんだね、よかった!」
となると、考えられる状況としては、仮説その一の時間遡行か、あるいは今回も前回も前々回も、その全てが予知夢の中であるかというところか。
どちらにせよ、この問題は私が延々自殺を続けても一向に解決に近づかない類のものである可能性が非常に高い。
時間が巻き戻っているにせよ、夢を見ているにせよ……その原因を潰す必要があるだろう。打開の可能性がゼロではなくとも、無闇に死にきれない投身自殺を続けたくはない。身を打つ苦痛は間違いなく私を苛んでいる。
そのためには、まず……目を背けていたこの世界の現実に改めて向き合わなければならない。
立ち上がり、樹木に背中を預けて息を吐く。
この樹木も私が今までの人生の中で一度も見たことのない種類のものだが、そんな些細なことはどうでもいい。
もっと重要なこと。
声に違和感を覚えた時に喉を撫でたのだが────そこにあるはずの喉仏が綺麗さっぱり無くなっていたのだ。ここから推測される現在の私の状況。
別に気付かなかったわけではない。全くそう思わなかったわけでもない。
死んでしまえば関係のないことだし、それ以外の事で私の脳は処理落ち寸前であったので、考えないようにしていたのだ。フォロに何を言われようとも。
恐る恐る、自分の胸を見下ろすと────そこには存在しないはずの膨らみがあった。
まるで女性のように。
眩暈がする。
試しに手を当ててみると、それは柔らかく、そして同時に『触れられた』という感覚もあった。
服の下に仕込んだ詰め物などではなく、間違いなく自前のものであるらしい。
更に、下腹部のあたりにも手を伸ばす。
恐ろしいことに、そこに存在していたはずのものが消えていた。大切な何かだ。
これについてもあまり深く検証したくはない。
結論────私は女になっている。
更に言うなら、恐らくレティツィアという女になっているのだろう。フォロが勘違いをしていたわけではなく……この肉体は紛れもなくレティツィアのものであるということだ。
時間が巻き戻る度に走る激痛も、レティツィアが投身自殺を図った際に肉体が負ったダメージであるのだろう。
自殺は成功し、レティツィアは一度死んだ。そしてそこに入れ替わるようにして別の場所で死んだ私の魂が入った。と、無理やりにでも納得しようとすればそういう話になるだろうか。
あまりにも荒唐無稽だ。そこを深く考えるのはやめよう。
「……レティ? どうしたの? やっぱり身体が痛む? あんなところから落ちたんだもんね」
この言語にしても不思議なもので、私の耳に届くものは日本語ではないにも拘らず、まるで母国語を扱うかのように違和感なく会話することができている。
そんなことに考えの及ばなかった目覚めてすぐの時間など、これが異国の言語であることに気付かなかったほどだ。
このレティツィアの肉体に染み付いた言葉であるからだろうか。
さて。このループの原因がどこにあるのかという事については現段階ではとても見当がつかないが、方針は決めなければならない。
レティツィアに多少なり好意を抱いていると思しきこのフォロという少年に対してどのように接するべきか。
全てを話し、レティツィアの肉体を人質に取るような態度で接するか。あるいは。
「……あなたは、誰ですか?」
『記憶を失ったレティツィア』を演じるか、だ。