二話 人工島へ――
「あなたは」
「……こんな不審な者に、どことも知れぬ場所に連れて行かれるのは不満かい」
「いえ、そういうわけでは」
男は自分に背を向けたまま言う。ただ見知らぬ人物の名を知ろうと声を掛けただけなのに、冷たくあしらわれた。
どうして罪人を集めているのだろうか。それに、どうやって自分を院内から出院させたのだろうか。
謎に包まれた男の背を、今はただ必死に追いかけた。背の高い男の頭部を見上げるように。
「――エリアス。エリアス・ペルキサス」
「……?」
「私の名だ。知りたかったのだろう?」
相変わらずこちらを向く素振りを見せないもの、優しい暖かみのある声色で名乗った。冷たく接したり、ふとした拍子に優しさを見せたり。
この男という存在が理解できない。
「これで船着場へ向かう」
エリアスと名乗る男は車の助手席を開けると、自分が乗り込むのを待った。
この男は金持ちなのだろうか?
銀色に輝く高級車に堂々と腕を掛けている。正常な思考ならば見知らぬ男に車へ誘導され、警戒もなしに乗る者などいないだろう。
しかし自分にはいるべき場所など存在しないのだ。例えこれが誘拐犯だったとしても、単なる猟奇的殺人鬼だったとしても、関係ない。
「どうしたの。乗らないの?」
「……」
「無理もない。何一つとして説明をしないんだ、こんなに恐怖を煽られることはないのだろう」
「――ふふっ」
ぐるぐると思考を耽らせるうちに、乾いた笑いを男に向けた。
「……なにがおかしい?」
「いえ、何も」
「そうか。まあいい、早く乗ってよ」
こいつが自分を一思いに殺してくれるのか。どんな手段で、どんなタイミングで刃を向けるのか。
そう考えると少し楽しみだった。もちろん、そこに抵抗という手段も加えて、だ。
単に、人生で一度……たった一度だけでもいいから誰かに褒めてもらいたかったのかもしれない。
誰にも認められなかった努力を。
誰にも褒められない努力を。
もしかしたらふとしたきっかけで誰かに喜んでもらえるのではないか。
努力の末に果てた結果、この男に認めてもらえるんじゃないか。
……そんな思考こそが無意味だとわかっていても、ただ命失う瞬間に、期待を膨らませていた。
やがて車の助手席に乗り込んだ。久しぶりに見る風景は、いつの間にか知らない建物が鎮座していたり、知らない店が建っていたりと、町の発展の速さに驚かされた。
しばらくの間、ぼうっと窓を眺める。過ぎ去って行く人々に目を移しながら、短く息を吐いた。
満面の笑みを浮かべ幸せそうに、のうのうと歩を進めるカップル。
少し気怠さを残しながら、犬の散歩をしている大人。
子供の手を取りながら歩く母親。スキップを交えて、るんるんとついて行く子供。
見ているだけで鬱陶しかった。
この一瞬、一瞬に唇を噛み締めた。
……どうして、こんな感情を抱いてしまうのだろう。わかっている、これはただの嫉妬であり、単なる八つ当たりだと。
わかって、いるのに……。
自分は、なんて低俗な生き物なのだろうか。
誰にも聞かれないように、小さく「早く殺してくれ」と呟こうとした。しかしか細い声はやつの声に遮られてしまった。
「憎いのか」
「……っ!」
エリアスは自分の心を透かすかのように告げた。この男という人物が怖い。
まるで読めない。どうして……。
「無理もない。キミは誰にも手を差し伸べられることはなかった。人の幸福が憎い。
自分はこんなにも虐げられ、辛い思いをしていたのに。あの悪魔のような親のせいで、弟の綺麗な笑顔にさえ、憎いと感じた。そうだろう」
「……」
「だからこそ、買ったんだよ。キミの進化し続ける嫉妬を」
「……どういうこと、ですか」
「直に分かるさ」
嫉妬を買う。そう告げられた時、背筋がゾクッと震え上がった。
自分が俯いて口を閉じると、やつもそれ以上の干渉はしてこなかった。
気付けば手の平は冷汗でべとべとになっていた。得体の知れぬ恐怖を真横に、車は身体に心地よい揺れを与えてくる。
道路を走り抜ける車の音。それがうるさく感じるほどの無音が、目的地まで続いた。
それから人生で初めての船に乗ることになった。
とてつもなく大きい……という訳ではなく、小型船が桟橋に停泊している。
どうやらこの船はやつの所持物で、操舵室に籠ってしまった。
適当に座っていろと指示を受け、体育座りで船の隅っこに座り込む。
まだ思考が追いついていない。ますますわからなくなった。何故、やつは罪人を集めている?
今からどこに連れて行こうというのか。どこか遠くへ幽閉させ、死ぬ間際まで働かせるつもりか。
だとすれば本当に、自分の最期かもしれない。普通のことを普通にできない自分だ。
……無理矢理な労働など、褒められる努力をする前に朽ち果ててしまうことは自分がよく理解している。
頭がぐちゃぐちゃになる。また怒声を浴びる日々が続くのか。また痣ができるまで暴力を振るわれるのか。また皆して白い目で見るの……?
痣だらけになって、痛みに足を引き摺りながら進む自分を見て……。
『あの子、どうしたのかしら。見窄らしい恰好ね』
『近寄っちゃだめ。不幸に取り憑かれちゃうわ』
『この根暗。気持悪い、近寄るなよ』
『みんな、根暗が登校してきたよ! やだ、そんなボロボロの、痛々しい恰好で近寄らないでよ!』
『……先生な』
……。
『お前の味方にはなれない。なんだぁ、服もこんなに破けて、まるで外に出るような恰好じゃない。
まずは服に気を遣うとか、その暗い性格を直して、友達に明るく話を掛けてみるとか。
どうやって危険な遊びをすれば、こうまで青痣ができる? 先生には理解できない』
違うんです。これは……。
『言い訳はやめなさい』
いい、わけ……?
『先生は忙しいんだ』
……誰も信じてくれない。
『あまりしつこいと、先生、怒るぞ』
「ひぅっ!」
「どうした、顔色悪いぞ」
頭を抱え身を震わせる自分に、やつの声が突如として悪夢を切り裂いた。
ふっと顔を覗き込むように現れたエリアスを前に、咄嗟に首を振る。
そうだ、今は考えないようにしよう。やつに従うことで幸せになれるなら、自分は。
怖くない、怖くない、もう二度と会わない、会うことはない。
学校のやつとも、近所のやつとも、あの大嫌いな親とも。
もう、二度と……。
自らに言い聞かせた。暗示をかけた。そうでもしないと、今に気が狂ってしまいそうだったから。
「乗り物、乗るのは初めてか?」
また。子供を諭すような言葉で惑わしてくる。何も言わないうちに、同じように体育座りで隣に腰を降ろす。
こいつは……悪いやつ、じゃないのか。
少なくとも今の段階では、そう思う。
「って、さっき車に乗ったか。すまない、質問を間違えたな。船は、初めてか?」
気さくな声色で、笑い声を交えながら喋っている。やつの言動に呆気に取られ、なんの反応も示すことができなかった。
しかしやつは苦い顔で返す自分の頭を、突然と撫でた。無視をしているのに……変なやつ。
「あぁ、無理に答えろという訳じゃない。こんな不審者に掛ける言葉はないと言うならば、それでいい。
身を護る術は必要だからな」
やつは自らのことを不審者と呼ぶ。不審者が自身のことを不審者だと語る訳がない。
……やっぱりこいつは、いいやつ、なのか?
もはや自分では判断がつかない。だから今はしおらしく答えた。
「――初めて」
「そっか」
やつも嬉しげに告げた。
自分が笑うとやつも笑う。冷たい態度を取るとやつも冷める。
まるで自分の感情にリンクしているようだ。
「そういえば、キミの名前はまだ聞いていなかったね」
「……」
「嫌じゃなければ教えてほしい」
肩に手を回し馴れ馴れしく接するやつの体温に、身を竦めた。
今まで感じたことのないタッチに声を籠らせる。
「ごめん、ベタベタしすぎかな」
回していた手を慌ててどけた。けれど、やつの顔は妙に嬉しそうだった。
嫌そうな表情だと受け取ったにかかわらず、にたにたしている。よくわからないやつだな。
なんで、なにが、そんなに嬉しいのだろうか。
とりあえずやつの言葉になにか反応を示さなければ。言葉に表すことなく静かに首を横に振った。
「嫌なら別にいい。私も軽いやつは苦手だ」
その言葉を最後に、しばらく沈黙が続いた。船のエンジン音と波のさざめきのみが流れる空間。
やつは疲れていたのか、船体に身体を預けて腕を組んで目をつむっていた。
自分が見つめても、動く気配がない。
ふとさっきの言葉を思い出す。ここまで良くしてくれたのだ、起きない今なら言ってもいい。
寝ているエリアスを横に、勇気を振り絞って告げた。
「――緋夕、旭氷」
やつは寝息を立てていた。恐らく、今の言葉など夢の中に届いただけで実際には聞こえもしないのだろう。
でも、これでいい。
「……そっか」
――ありがと。
起きているのか、いないのか。やつはそれだけを告げて以降、何も言わなくなった。
礼を返された瞬間、羞恥に身体が熱くなる。思わず下を向いたまま口を堅く結んだ。
大したことはしていないのに、どうして礼なんか。今の自分には到底、理解できるはずもないのだろう。
自分はポケットに潜ませておいた手紙を状況把握のためにもう一度、黙読した。
『当選、おめでとうございます』
罪人を収集する謎の人物。理由はどうであれ、エリアスの発言と照らし合わせるに自分は、この手紙主に必要とされているようだ。
やつは言った。自分の嫉妬を買った、と。
罪人を利用し、暗殺組織でも立てるつもりか。それとも、罪人という非人道的な存在に、薬物実験でも行うつもりなのか。
少ない脳みそで手紙について考えていると、いつの間にか船は孤島の桟橋に辿り着いていた。