異世界
やっと異世界に来ました!
……タイトル間違えていたので訂正。
転移時の胃が持ち上がるような感覚には、出来の悪いエレベーターを思い出させるところがある。ふわり、と居心地が悪い。
ホワイトアウトしていた視界に、古いブラウン管のテレビのようにじわりと景色が映り始め、耳からは目覚まし時計みたいに遠慮なく音が飛び込んできた。舌は空気の味を感じ、肌は乱れた風を感じる。入り混じる匂い――。
この転移直後の一斉に情報が入ってくる感覚は、好きになれそうにない。
まるで情報の海で溺れている気分だ。それが異世界〈イル・スー〉へやって来た頼光の最初の感覚だった。
見上げる空は薄曇り。おそらく時刻は夕刻前ぐらいだろうか。
その気の滅入る陰鬱な雰囲気のどこにも、〈勇者〉の登場を歓迎するような空気はない。
いや、むしろ勝手にやれ、とでも突き放されているような?
――そう、選ばれし〈勇者〉なんて言ってもこんなものだ。
その事は逆に頼光の心を軽くするので、ちょっとした笑みが口の端に上がった。
そして彼は改めて辺りを見渡すと、その森の光景に強い衝撃を受け、思わず「おー」という感嘆の声を漏らさせずにはいられなかった。
そこにあった自然は、それほど圧倒的だったのである。
もちろん〈地球〉にだって雄大さを誇る自然はあったが、どんな原始の森だって、こんなに強い生命力に満ちあふれていなかった。呼吸をするだけでも、むせかえりそうになるほど濃厚な草いきれは、酔っぱらいそうになるほどだ。
〈地球〉の植物はただ生きていくだけでも必死。
それなのにこちら〈イル・スー〉では、そんな心配とは無縁の繁栄を築いている。しかもそれでは満足せずに、さらなる欲望と飽くことない向上心が感じられた。それは発展途上国の人が持つ勢いに似ていた。動物であれ、植物であれ、そうした命が持つエネルギーには本来違いなどないのかも知れない。この世界で森は自然破壊や環境汚染に苦しめられる弱い存在ではなく、そこに住む動物や外から来る人間たちから己が害されることなど想像も出来ない強者なのだろう。
「凄いな、これは」
頼光はかつて〈地球〉で戦った侵略植物の事を思い出してしまった。それは凄まじい勢いで生い茂り、既存の植物を駆逐するような勢いを持つものであった。『ヴォイニッチ手稿』によってその存在がほのめかされていた頂点の植物は、生態系そのものを変えてしまうほどのパワーを備えていた。それは巨大な食虫花のようであり、己を傷つける鳥や虫や人間たちを喰らい、そして別の植物たちを排除するように環境を変化させた。その植物は周りの生き物によって自らが生かされている共生関係にあることを知らなかった。
そして侵略植物は自滅した。人間が工業化が引き起こす環境破壊で苦しんだように、皮肉なことに自然界の一部である植物が自然のバランスを崩したのだ。
たまたまその場所が閉鎖空間であったため、外に影響がなかったのが幸いである。
あれが外にまで溢れ出ていれば、植物による二度目の虐殺となっていたかも知れない。一度目は光合成によって大気に猛毒の酸素をばらまき、嫌気呼吸の生命を皆殺しにした原生代の出来事である。本当のところ植物は弱くもないし、やられっぱなしでもいない。
「怖いぐらいだな」
「そうですね」
そんな頼光の感想に妹の静璃が同意しながら、近くの植物の葉を触っていた。そこから何かの虫が飛んでいった。
今の彼女は頼光に合わせ、マントの下に制服を着ている。足元は歩きやすいショートブーツで、そこからすらりと伸びる脚は黒いストッキングに包まれていた。そして飛んでいく虫に視線を送る顔には、〈四天王〉ミスキャストのマスク。
「……何かデザインが違うような気がするんだが」
「これはプライベートマスクです」
と覆面レスラーみたいな事を答えられる。
「防塵防毒の効果もあります」
聞いてもいないことを話しながら、彼女は美容院に行ったことをすぐに気付いてもらえてみたいに喜んでいるのだった。
「いっぱい持っているのか?」
「TPOに合わせてマスクを着替えるのは当然です」
「……そうなのか?」
「ええ、兄さまと戦ったときは、ヘルメットがなければ即死でした」
「いや、そんな事はないが」
仮面を外すと彼女の端正な顔が現れた。
久しぶりにまじまじと眺める義妹は血のつながり的には従妹であり、どことなくだが頼光と似ている。
それなのにこの際だつ美しさは何だろう。腰の辺りまで長く伸ばした黒髪は艶やかで、キラキラと輝いているようだ。
静璃はマスクを札に戻すとインベントリにしまって、次は自分の衣服に保護の魔術をかけ始めた。予め強化はしていたので、現地の魔力の質や流れなどを確認した後の最終調整に入ったのだろう。
静璃は頼光よりこうした術の行使に長けている。そういえば頼光のブレザーも彼女が術をかけてくれていた。
「兄さま」
「ん」
一応は敵であるはずなのに、静璃はそれが当然というように兄の服に魔術を施してその調整に入った。頼光の方も妹には何の警戒もしないでそれを受け入れてしまっている。
何だかんだで自分は妹には甘いと分かっている頼光である。
「――?」
「どうかされましたか、兄さま?」
「気配がする。戦闘か」
「……あちらですね」
静璃が簡易な術で正確な方向を探った。
*
「よし」
それ以上の確認は必要なかった。
頼光と静璃はそちらに向けて走り始めた。
森というのはまともに平らな場所がほとんど無く、木々に阻まれて進行方向を真っ直ぐに取ることも出来ない。だから直線距離では近くても、実際に側に寄るのは時間がかかる。
だが、二人が走るとまるで背景が後ろに飛ぶように流れて、あっという間に目的の場所が近付いてきた。
人間の足は森の中ではトップスピードが出せない筈である。足下は下生えや落ちた枝葉で覆い隠され、見えないところに絡みつくように根がうねり、どこに天然の落とし穴がぱっくりと口を開いているかも分からない。あまりにも危険だからだ。
そうした植物のトラップは、動物の弱肉強食にも影響している。地形に翻弄され、狩りという生存競争の餌食になった獣の屍はバクテリアに分解され、やがて大地の重要な栄養に変わるのだろう。
だがそれは野生の動物たちの中には、森をうまく利用出来る者が存在するという事である。捕食者たちにとって森は有利であり、逃げる弱者にとっては罠が張り巡らされた危険な場所。まるで強者に加担しているようだ。
では、強者と弱者。その差はどこにあるのか。
例えば、何か方法のようなものが存在するのであろうか?
そして頼光たち兄妹がそれを理解しているとすれば、二人は人間でありながら捕食者でもあるという事になる?
頼光にその秘密を尋ねれば、こつがあると答えるはずだ。かつてそれを聞いた者がいるのだから。そしてさらにねだれば、少し勿体ぶった後により困惑する返答をする。
――ちゃんと……よく気を付けるんだ!
これがまともなアドバイスである筈がない。
出来ないから聞いているのに、やれば出来ると言われる。
武道や野外での活動を行う者が聞けば驚嘆するだろう。歩く、走るなどという動作の完成度は、それだけで強さを保証している。動かずに戦えるか、と考えればその意味が分かるはずだ。それをもはや当たり前すぎて、かみ砕いて説明する事もできない領域に踏み入っていると示している。何という男であろうか! ただ単に頼光が教え下手である可能性もあるが、そこに考えの及ぶ者は、素人にしかいないだろう。それを真に受けた自称一番弟子は感極まったのだった。
真偽はさておき、森を獣の速さで走れるだけの知覚力と判断力まで備えている御船流、恐るべき流派である事に変わりはない。
「あれか」
頼光は呟いた。その目に大きな怪物とその取り巻きの小さな怪物、獲物にされつつある人間たちの姿が映っていた。
――こちらが風下。
向こうから風に乗って流れてくるニオイを感じながら、頼光は考える。ハンドサインで静璃に音を出さないように伝えた。速度は全く落とさない。隠行の技の一つを発動させている。
まだあちらにはこちらの気配は察知されていない。間に合うだろうか?
怪物の前の少年が、大きな声を上げ剣を振り上げながら飛び出すのが見えた。女たちを庇おうとしたのだ。どうやら一人は彼の妹であるらしい。怪物は自らを傷つけた少年に怒りの腕を振り下ろす。このままではあの少年は命を失う事になる。
「兄さま」
「ああ」
だが、妹にもすでに分かっているだろう。
〈勇者〉が目の前でそんなことを許すはずがない。
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