魔塔
現代、〈地球〉。日本のとある地方都市――。
巨大なタワーが、天を衝きそびえ建っている。
それは巨大な複合商業施設の匣になる予定で建設が始まり、すっかり外見だけは出来上がったが、行政と複数企業の癒着がゴシップ雑誌にすっぱ抜かれた騒ぎで事業計画が白紙に戻り、結局一度も営業する事がなかった新築の廃墟だった。ややこしい権利問題で誰かの手に渡ることも、解体することも出来ずに、そのままの姿で放置されている。
そこには人の気配がまるでなかった。日が暮れ、夜が訪れても、まだ人通りが絶えるには早過ぎる時間帯だ。だというのに隔絶され、そのまま忘れ去られたかのような静寂が満ちている。
連日のようにマスコミを騒がせたニュースは落ち着き、もはや言の端に登ることもなくなっていた。だがその事件がすでに記憶の中にさえ、ほとんど残ってはいないという事に気づく者はほとんどいない。
指摘されれば、ああ、そんな事もあったとぼんやり思い出すことは出来るだろう。
それはまるで誰もが申し合わせたようにそのタワーから目を背けているようだった。もしくは忘却症にてもかかってしまったようである。
そしてそれこそが真実なのであった。
そこは異界化し、世界から切り取られてしまっていた。
立ち込める魔力の瘴気によって、魔境と化しているのである。
魔力? 瘴気?
ばかげた妄想の産物のようだが、もしそこに普通の生物が迷い込めば、十秒もかからず昏睡状態に陥ってしまう。それが事実であることを証明していた。
すぐ目の前にある圧倒的な脅威に対して人間の本能がする事は決まっている。
そこにあるということを、認識できなくなるのだ。
それが人間たちの忘却症の理由だった。
バベルにあった神話の塔は神の怒りに触れ、瓦解した。その時に人間たちの言葉はバラバラにされ、二度とわかり合うことも、協力する事も出来なくなってしまった。しかし、このタワーはそこにあるというだけで、すでに人の記憶に障害をもたらしている。ではそれが崩れるときには一体どれだけの災厄を振り撒くことになるのであろうか。
そしてそのように凄まじい魔塔に、もしも主がいるとすれば――
考えるだけでも恐ろしかった。
*
無人と思われたそのタワーの入り口に、目を閉じ腕を組むひとりの大柄な男が立っている。
月の明かりに照らされ、立ちはだかるようなその姿は守衛のようである。
異様な事にその体には奇妙な動力パイプが走り、至る所に機械のような装置が取り付けてあった。体は金属の光沢を放つ皮膚――装甲に覆われ、人間そのままであるその顔以外は異形の怪物。いや、そのデザインは子ども向けのアニメに登場するちゃちなサイボーグ戦士というのがもっとも正しい表現だろう。
その男が閉じていた目をカッと見開き、
「遅刻だぞっ、御船頼光!」
と叫んだ。
すると突如輝いたタワーの照明によって、なんの気配もなく正面から近づいていた青年の姿が明らかになる。
高校の学生服姿の青年。その下にはオレンジ色のパーカーを来た今どきの若者。学年章は二年を示している。顔立ちはよく整っていたが、年齢にしては少し背が低いだろうか。髪の色は明るいが、まだ黒髪の範疇である。
投光器の強い明かりに照らされたにもかかわらず、彼は少し眩しそうに目を細めただけだった。いや、唇が微かに動いた。笑ったのだろうか? それならばかなり剛胆な人物であるといえる。しかし今この場所にいて意識を失わないのだから、そもそもただの一般人である訳がなかった。
その彼に突如、二匹の獣が襲いかかる。
この瘴気の中で活動出来るそれらも、当然普通の犬ではない。目を持たず、顔が丸ごと二つに裂けるように大きな顎となった妖獣は、イギリスの伝承にあるブラックドッグの一種であった。視覚を持たず、知覚をそれに頼らないため闇の中でも、強い光の中でも動きが鈍ることはない。投光器の作るスポットライトはまさに殺戮ショーの舞台になるかと思われた。
だが妖獣たちは、何も出来ずに吹き飛ばされた。
「ふん」
それを眺めていた大柄な男は鼻を鳴らす。何が起きたか理解したのであろう。いや、はなからこんな不意打ちに効果があるとは考えていなかったのだ。
青年に蹴りを入れられたブラックドッグはそのまま彼の横を通り過ぎ、後ろの壁に激突して、あっさりただの染みに変えられてしまった。
その青年――御船頼光が向き直り、男に視線を向けた。
「大森先生、またあなたか。……いつもそうやって朝の校門に立っていたよね」
*
御船頼光が小さく溜め息をつくと、大森と呼ばれたサイボーグは組んでいた腕を外して腰に手を当てた。
「フン! 頼光、貴様はいつも遅刻ギリギリに滑り込む常習犯だった。いや、それでもあの頃はまだ登校していただけマシだったのかな?」
「う……」
痛いところを突かれて、思わず返答に窮してしまったような頼光だったが、彼がしばらくして口を開けたのは別の事を聞くためだった。
「――っていうか、何で先生は生きてるんだっけ?」
生徒である頼光と生活指導でもある教師の大森は、これまでにも幾度も戦いを繰り広げた関係だった。
そして前回の戦いではより大きな力を求めた大森が魔獣と一体化しようとして、逆に体をのっとられて死んだはずだ。生首だけの姿になって谷底に転落して行く姿を頼光は目撃している。
その疑問に、大森は大声で笑った。
「おい、何を言っているんだ。あの時は殺される前に、自ら首を切り離して逃げただけだぞ!」
「むしろ先生が何を言ってるんだ!? いくら何でも人間離れし過ぎだろ……」
「それでも貴様ほどではないわ! だが今回ばかりはいつものようにはいかんと思え。いかに貴様が〈勇者〉でも――いや、〈勇者〉だからこそ、この俺には勝てん。なぜなら――」
大森は言葉を続けている。だが――
〈勇者〉?
彼は確かにそう言ったが、現代の日本にそんなものがいるとでもいうのだろうか?
その答えは肯である。
世界には〈魔王〉が存在し、それを倒すことができるのは〈勇者〉だけ。そんな馬鹿げた現実がここにある。
そして――御船頼光こそが、この〈地球〉の〈勇者〉だ。
さて、そうなると一つの疑問が生まれる。この大森という男が頼光が倒すべき〈魔王〉なのか?
答えは否。
「おい、聞いているのか頼光!」
「あ、ごめん。何、先生?」
二人の会話する姿はどこにでもいる教師と生徒のそれのようだった。
だが普通と違うのは、頼光は〈勇者〉であり、教師でもある大森が〈魔王〉の手下という事だ。
場所は〈魔王〉が占拠したタワーの前。あたりには瘴気が立ち込め、まともな生き物は意識も保てぬような現世魔界とでもいうべき状態。
――アイツ、本当に意地悪だよな。
そこで頼光はそんな事を考えていたので、大森の話を聞き逃したのであった。そのアイツとは、もちろん〈魔王〉のことである。
それは、世界を滅ぼす者。
そして〈勇者〉とは唯一それに対抗しうる者。
心ここにあらずの状態の頼光に、大森は何かを滔々と語っていた。それは彼が前回の戦いからいかに苦労して今に至ったか、という経緯のようだったが、別にちゃんと聞いたところでいいことはなさそうなので、適当に相槌を打って聞き流している。話が長いのは教師の本能みたいなものだろう。
「……と言う訳で、俺はこの史上最鋼のサイボーグボディを手に入れたのだ! 魔界博士によって造られたこの体は、生身の頭部以外すべてが貴様の〈勇者〉の力を跳ね返す究極マテリアル製だ! 驚くがいい、畏れるがいい! このサイバー大森が今日こそ貴様に引導を渡してくれようっ」
大森――いや、サイバー大森が豪快に地面を蹴った。先程の妖獣など比ではない恐るべき加速だった。踵の後ろやふくらはぎからバーニアの火が燃えているのも分かる。それに対して頼光は、驚くことも畏れることもしなかった。
「てい!」
「がはっ」
そして一瞬後、サイバー大森はさっき妖獣がぶつかったのと同じ壁にめり込んでいた。
「ば、馬鹿な、なぜ…?」
「〈勇者〉の技を跳ね返す究極マテリアル製ボディ。だったら生身の部分を蹴るしかないかな?」
要するに顔面だった。
「き、貴様、都合の良いところだけ聞いていやがったのか……!」
サイバー大森はぐぬぬと唸り、しかしすでにダメージで立ち上がれなくなっていた。ガクッと膝から崩れる。
「ふ……この機転、さすがは〈勇者〉といったところだな!?」
「〈勇者〉? 違うよ、先生。俺は――ただの学生さ」
にっこり笑う。
だが大森は冷淡だった。
「その決めゼリフ本当に気に入っているようだが、いい加減耳聞き飽きてるからな」
「……」
「大体、教師に向かってそんなエラそうなことを言う前に、ちゃんと学校に来なさい。不登校はよくないぞ」
「今さらそんなまっとうな説教を……。でも待ってくれ! 俺が登校するヒマもないのは、〈魔王〉とか、その手下の人たちのせいだ。忙しすぎるんだよ!」
「うるさい! 俺たちとは関係ない事件まで勝手に関わって行くからだろうが! そもそも今日だってなんでこんなに遅くなったんだ? もっと早く来いと言っておいたよな?」
「それはちょっと野暮用が――」
「野暮用? 海外から米軍基地に戦闘機で戻って来ただろ? どんな野暮用だ!?」
「いや、まぁ……。でもホントに今日のはそんなに大した事じゃないんだ。ミスっても人類滅亡くらいだっただろうし……」
「何だって?」
大森は引き攣った顔をした。
「あ、でも」
「む?」
「北極付近の小島で白熊と暮らしてる老人がいたんだ。驚いた。それがまさかあのユピテルだったなんて」
「おい。ユピテルってのは、ギリシャ神話のゼウスの事か?」
「そうそう。ちょうど拾ったままどうしようかと思ってた『神の雷』を返すチャンスだと思ったんだけど――」
「…………」
「そこに現れたブロブが大暴れ。そういや、あれって米軍が北極に投棄していたんだね。まぁ普通は凍らせるぐらいしか手の打ちようないし。そうそう、実は作戦に紛れ込んでいたのが――」
「ちょっと待て!」
大森はストップをかけて、しばらく考え込んだ。
「……よし、やはり貴様が何を言ってるかサッパリ分からん!」
「ん? 最初から説明しようか?
今日は開き掛けてしまった『シャンバラ・ゲート』を閉じに、朝から北極まで行ってきたんだ。あれだね、地球の裏側の世界へ通じてるとか言う、かつて『ハイジャンプ作戦』で合衆国のリチャード・イヴリン・バード海軍少将が未知との遭遇をした――」
「ええい、やめろ! もういい! これ以上聞いていると頭がおかしくなりそうだ!」
大森は、はぁと盛大な溜め息を吐いて、
「……そうだったな頼光。貴様はたった一人の迷子を家に送り届けるだけでも、そのついでに世界を破滅から救わなければ気が済まない、そんな奴だった」
「いや、それは――」
「そうだろう? ちょっとした文化祭の演し物をやるだけで、古代文明の秘密を暴いて数万年越しの陰謀を食い止めたり、さらに失われた〈妖精郷〉に行ったりするんだもんな」
「…………」
「だって俺との決闘だってどうなった? 伝説の魔獣と神獣が月面大決戦……どう考えてもおかしいだろ、んん?」
「魔獣の件は大森先生が原因――」
「神獣までは知らんわ! 何だったんだ、あれは!」
「俺もあれはびっくりしたよ。まさかスフィンクスがなー」
頼光は懐かしそうに遠い目をする。やがて彼はそれらの思い出と決別するように首を振った。
「……ま、今日は、そんなこんなも全部終わらせに来たんだ。先生はもう退場。そのまま大人しくそこで寝てて」
「ふん、バカめ。この大森を倒したくらいで先に進めると思うのは大間違いだ。所詮は魔王軍でイチバンの小物なのだからな……見よ!」
見ればタワーの周りから数多くのモンスター軍団がやって来るのが分かった。
「ははは、これで終わりだ、〈勇者〉頼光! この数が相手では、貴様といえどもあのお方のもとにたどり着く事は出来まい。……さあ、やってしまえ、お前たち!」
敵が雲霞のごとく押し寄せてきた。だがその一部が破壊衝動に任せて大森にも襲いかかっている。
「ぐわ、何をする!? やめろ! やめてくれぇ…。〈魔王〉サマばんざーい…! ぎゃああああっ」
ドーンと巻き起こる爆発音。
「大森先生…」
頼光は少し悲しそうにしたが、感傷に浸っている場合ではないと、すぐに気を取り直した。
「どうせあれぐらいじゃ死なないだろ」
少し薄情な感想であった。
そんな事よりも彼は、モンスターたちと戦わなければならない。
だが、いくら片付けても減らない敵の数に閉口させられる。
巨大な剣のような腕で切りつけられ、炎のブレスで攻撃され、突如闇の顎と化した地面が襲いかかってくるのを、手刀で切りはらい、真空の壁で受け、適当なモンスターを顎の中に蹴り込んでやり過ごす。その動きに淀みはない。しかしこれだけの大軍を相手にするのは、さすがに辛そうである。
後に〈魔王〉との決戦が控えているので、消耗が気になるのだろうか。人間離れした動きで敵を倒すその表情には少しだけ焦りの色が落ちていた。
だがその心配は――
「お困りのようね、ヨリミチ勇者!」
「げ。その声は……」
突如として頼光を取り囲んでいるモンスターたちに、空から大量の光の矢が降り注いだことで吹き飛んだのだった。