もうひとりの存在
鏡の中には、もうひとりの私がいる気がする。
そう思い出したのは、中学にあがったころ。
髪を整えて鏡に背を向けたとき、そこから視線を感じた。
ふり返ってみても、もちろんなにも変わりはなかった。私が私を見ているだけで。
「気のせい……よね?」
言い聞かせるように言葉が出た。
それからも時折、その視線は感じたけれど、変哲なく月日は流れた。そして、私は中学を卒業した。
「ひとりになるけど……大丈夫よね?」
「大丈夫だよ。何歳だと思ってるの」
仕事に行く母を笑いながら見送る。高校に入学するまで、こんな毎日が続くんだ。
「行ってらっしゃい」
今までは見送ってもらっていた。それが見送る立場なんて、なんだかくすぐったい。
「行ってきます」
パタリと閉まったドアにカチャリと鍵をかける。それっきり、家には静かな空気が流れた。誰もいない家なんて、どのくらい振りだろう。
廊下を歩いて行くと、洗面所が気になった。──また、あの視線だ。
「誰かいるの?」
のぞきこむと、そこにはお風呂場のドア。もちろん、洗面台の前に誰もいない。ただ、あるのは──。
「誰も、いるはずないよね」
鏡。そう、そこにある鏡に向かって私は言った。それで、いつものように背をむけようとしたとき、確かに見えた。
「え?」
慌ててふり返る。
鏡の中でおかしな動きを『私』がしたと。
「だ……れ?」
向き合った私は、私ではない。鏡ではありえない動き。私は斜めに映っているはずなのに、そこでは真正面を向いていて。
「私は、あなた。……いいえ、あなたではない、もうひとりの存在よ」
鏡の私は、ひとりでに話し出す。
「もうひとりの存……在?」
「そう。私たちは生まれたときは双子だった。でも、私だけ鏡の中に吸い込まれたの」
今、なんて?
「私たちだけじゃない。みんなそう。みんな、あなたたちの方だけが知らないの。……ねぇ、出してよ。私も、ここから出して」
信じられない。ううん、きっと誰が聞いたってすぐに理解なんてできない。
でも、嘘じゃないとわかる。──もうひとりの『私』だから?
鏡の中の私は、ポロポロと泣いている。
「そんなこと言われたって……どうすれば……」
「壊すのよ」
壊す?
「そうよ、壊すの。この鏡を。……できるでしょ? 出して、私を。私もあなたみたいに自由にしてよ」
自分の意思じゃないみたいに、体が動く。
お風呂掃除用のブラシを手に取って──。
ガシャン
鏡は砕けた。
破片が飛び散っていく。──それはスローモーションのようで。
鏡の中から、すうっとなにかが飛び出していく。
「ありがとう。十何年も、このときを待っていたのよ。私」
なにかが耳元でそう言った気がした。