お姉さん
外の世界が、こんなに遠いものになるなんて思っていなかった。
「今日は暑かった?」
「雨で大変だったね」
お見舞いに毎日きてくれるお母さんに言う言葉。だけど、本当はわからなくなっていた。暑いのも、寒いのも、雨が大変なのも。
ここは一年中同じような温度で。雨は窓から見ているだけのもので。
外になんて、何年間も出ていない。
新人さんがくる。新人さんも古株さんも関係なく退院していく。そして、たまに誰かが亡くなる。
その繰り返し。
何年もたって、友だちはいなくなってしまった。たまにここにくるのは、お姉ちゃんとお父さん。そして、毎日きてくれるのはお母さん。お母さんだけが、変わらない。
「今日は台風だね」
懐かしい声がして、窓から視線を離す。
「あ……れ?」
そこには、見覚えのある人が。
「久しぶり。元気にしてた? ……って聞くのは、おかしいか」
あははと笑う。
──誰だっけ。
名前が思い出せない。でも、覚えている。
「何年か前に……退院したはずじゃ……」
自動販売機の前でよく会ったお姉さん。確か、初めて会ったときも自動販売機の前だった。お姉ちゃんと年が近くて、私はこの人を『お姉さん』と呼んでいた。
でも、ここにきたということは──。
お姉さんはなにも言わず、ただ、にっこりと笑った。
******
お姉さんがどうしてここに戻ってきたのかなんて、知らなくてもいい。好きで戻ってくるはずはない場所だから。
久しぶりに会えたのがうれしくて、私たちは何時間話していたんだろう。気づけば、面会時間は終わっていた。
「あ……」
「どうしたの?」
初めてお母さんがきてくれなかった。
──なんて、言えない。
「台風だもんね」
言えなかったのに、お姉さんには伝わったんだ。私がしょんぼりしていたからかもしれない。私の暗さを吹き飛ばすように、お姉さんは明るかった。
******
あれから何日が経っただろう。
私はお姉さんと一緒だ。
お母さんは、あの日からこない。
曇りでも、晴れでも。
お姉ちゃんもお父さんもこなくなった。もう、誰も私にわざわざ会いにこないのかもしれない。
──誰も?
そういえば、看護師さんも担当医の回診もなくなった。食事も。
「気づいちゃった?」
となりにいるのは、お姉さん。
「え?」
心なしか、怖く感じる。
「そうだよね……このままここで楽しく……なんて、ダメだよね」
どういうこと?
「迎えに来たんだ、あなたを。……知らなかった? 私、退院してすぐに容体が急変しちゃってね」
あははとお姉さんは照れ笑いをする。
え? お姉さんはあれから元気に過ごしていて、なにかあったからまたここにきたんじゃないの?
「まだわからないか……そうだよね、私もそうだったから、わかるよ。でもね、ほら、あそこ見て」
指をさした先には──お母さん! それに、お姉ちゃんとお父さんも。
「お母さん!」
声を出したのに、誰も私を見ない。直後、
「長い間、お世話になりました」
お父さんの声。お父さんも、お母さんも、お姉ちゃんもなぜか悲しそう。誰かに一斉に頭を下げている。
「いいえ、なにもできなくて……」
いつも話しかけてくれた看護師さん。──あれ、もしかして。
「私……」
「あの台風の日も、お母さんはきてくれていたんだよ」
え?
「あなたが意識がなくなってからは、お姉ちゃんもお父さんも……ずっと一緒にいてくれた」
うそ。たまにしかきてくれなかったお姉ちゃんも、お父さんも?
ああ、悲しいのに、涙がでない。
そっか──そうなんだね。
「もう……戻れないんだね」
お姉さんはゆっくりとうなずく。
「これからは、私がいてあげるから。だから、あなたのところにきたんだ」
「私が、淋しくないように?」
静かに笑う。
「ううん。私が淋しくないように……かな」
ありがとう。やさしいうそだね。
「そろそろ、いこうか」
ちいさいとき、私は病院で迷子になった。そのときも、お姉さんは同じように言ってくれた。
「うん」
差し出された手を、あのときのように私は握る。
今度は、戻る道ではないけれど、やさしい手は変わらない。




