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第9話:記憶

挿絵(By みてみん)





 ミハイルがきてから、一週間が過ぎた。

 最初はベッドから起き上がれぬほど弱っていたが、三日も経つ頃には、顔色も良くなり、一人で歩けるほど回復した。

 最近は、日中の大半を図書室で過ごしている。

 貧しい出自にしては珍しく、ミハイルは文字が読めた。

 今も、大きな本を両手に持ち、一途に視線を注いでいる。

 射光を浴びるミハイルの輪郭は、清らかな金色に縁どられていた。思わず見入ってしまい、メグは声をかけることを躊躇した。

 脅かさないよう、長机を手で、こんこんと小さく鳴らすと、ミハイルはぱっと顔を上げた。


「あ、ごめんね。驚いた?」


「……」


 言葉を忘れてしまったかのように、ミハイルは呆けた顔でメグを注視している。机に広げている新聞に眼を落とし、ああ、とメグは納得した。


「……マガハラ大聖堂の記事、私も読んだわ。あの男、死んだのね」


 王国新聞の隅には、小さくマガハラ大聖堂の聖職者の死が報じられている。

 死因は、原因不明の心臓発作。

 家族は詳細を明かしてはくれず、メグが真相を訪ねても素知らぬ顔をしているが、あの男が普通の死に方をしたわけではないと、メグには判っている。


「これでもう、怯える必要はないわね」


 家族の誰かが、ミハイルの為に暗躍してくれたのだろう。この少年が、二度と悪夢に怯えなくて済むように。


「うん……」


「領民も安心して眠れるわね。と言っても、誰もあの男が犯人だなんて、思っていやしないのでしょうけれど」


 でなければ、王都ルイ・ジャンを震撼させた殺人鬼の死が、こんな新聞の片隅に乗るわけがない。


「……浮かない顔ね。どうしたの?」


「メグこそ、疲れた顔をしているよ」


 指摘を受けて、メグはぎくりとした。

 七日前、地下で鉄扉を開いてからというもの、夢見が悪いのだ。どんな夢を見たのか、具体的な内容は覚えていないのだけれど……


「……私のことはいいのよ。ミハイルのことを聞いているの」


「なんでも、ないよ」


 なんでもない、という顔ではない。

 問い詰めようか迷っていると、ふと、新聞の横に置かれた記録紙に眼が留まった。カサンドラ国の歴史や経済の詰まった分厚い書物だ。

 開かれたページには、マガハラ大聖堂の処刑について書かれている……


「そんなの読んで、楽しい?」


「うん、まぁ……」


 ミハイルは、歯切れの悪い返事をよこした。


「メグ」


「うん?」


「メグは、本当は人間じゃないの?」


「私は悪魔よ」


 即答するメグを、ミハイルは物言いたげに見つめた。


「何?」


「メグ、こんなことを言って、気を悪くしないで欲しいんだけど……」


 ミハイルは言い辛そうに言葉を切ると、澄んだ翠瞳でじっとメグを見た。


「君は、人間の女の子にしか見えないよ」


「知ってる」


 ふて腐れ気味にメグが認めても、硬い表情を解かずに、ミハイルは半分瞑目した。長い睫毛が、顔に深刻そうな陰翳を落としている。


「僕、君とよく似ている子を、知っている気がするんだ」


「私と?」


「メグを見ていたら、マガハラの事件を思い出して……そんなこと、あるはずがないんだけど……メグは……」


 深刻そうにミハイルは呟いた。どうして、そんな顔をするのだろう。


「……何? マガハラの処刑がどうかしたの?」


「……メグは、いつからルイ・ジャンで暮しているの?」


「え?」


 静かな翡瞳を見て、訳も判らずメグの胸は騒いだ。応えられずにいると、ミハイルは発言を悔いたように視線を揺らした。


「答えたくないなら、いいんだ。変なことを聞いて、ごめんね」


「あ、ううん……私ね、六歳より昔の記憶がないの。ここでの暮らししか、知らなくて」


「六歳……」


「私に似ている子って、誰?」


「……いや、僕の気のせいだったみたい。よく見たら、そんなに似ていないかも」


「ふぅん?」


 不思議そうにメグが呟くと、ミハイルは優しげに微笑んだ。


「メグがここの人達に、とても愛されているのは見ていて判るよ」


 照れ臭そうにメグがはにかむと、ミハイルも小さく声を上げて笑った。


「地下で会った時、シャルルの瞳が光って見えたんだ。すごく綺麗な顔をしているけど、魔性めいていて怖かった」


 そりゃあ、悪魔だもの。と思いつつ、メグは相槌を打った。

 気を失っている間に城に運ばれたミハイルは、自分が空を飛んでいたことを知らない。悪魔達と一週間を過ごして尚、空想上の存在だと思っているようで、メグが悪魔だといくら言っても聞く耳を持たない。


「でもメグを見て、なんというか、安心したんだ」


「悪魔っぽくないから?」


 拗ねたようにメグが言うと、ミハイルは慌てて首を振った。


「違うよ。清潔な格好をしていて、ふっくらしていて……恵まれた生活をしている、幸せな子だと思ったんだ。そんな子が、不思議そうに、僕を見ていたから」


「……ねぇ、ミハイル、ずっとここにいてくれる?」


 俯き、頼りなげに呟くメグを見て、ミハイルは頬を染めた。メグの頬にキスをして、柔らかく微笑む。


「僕もここにいたい」


 彼を傍に置きたいと思うのは、メグの弱さだ。

 もちろん、遊び相手が欲しい気持ちもある。だが、それ以上に、自分より弱い者がいるのだと、傍で眺めて安堵したかった。彼には自分しかいないのだと、優越感に浸りたいが為。

 それに気付かず、メグははにかんだように笑った。

 ふと、空気が凍った。

 窓を開けていないのに、窓辺のカーテンが揺れる。突然、ミハイルは息苦しそうに喘いだ。


「うぅぅッ」


「ミハイル!?」


「お姉様に近付くな」


 シャルルらしからぬ口調に、メグの背筋は冷えた。


「駄目!」


 嫌な予感がして、ミハイルに伸ばされる腕を掴んだ。


「ミハイルは嫌いです」


 拗ねたような口調だが、瞳は少しも笑っていない。爛と輝く魔性の瞳には、見紛うなき殺意が浮いている。


「殺しちゃ駄目」


 はっきり注意するメグを、シャルルはじっと見つめた。ここにいてはまずい気がして、メグはシャルルの手を引いて部屋を出た。


「お姉様、何を話していたのですか?」


「世間話よ」


「世間話って?」


「マガハラ大聖堂の話とか……私に6歳より昔の記憶がないこととか……」


 足を止めて、シャルルを見た。

 茜射す黄昏の魔性をもらい受けて、シャルルはこの上なく美しい笑みを浮かべた。


「へぇ……ミハイルは、何て?」


「別に、どうも……話の流れでここにいて、ってお願いしたら、いいよって言ってくれたわ」


「お姉様は、僕のお姉様ですよ」


 なんだか、シャルルが怖い。背筋がぞくりと震えて、メグは両腕を摩った。蒼い瞳に怪しい光を灯して、シャルルはメグの方に顔を寄せた。


「お姉様、いい匂いがします」


「え?」


「怯えているの?」


「……ッ」


 夕闇に輝く瞳に、ぞわっと肌が粟立った。仰け反るメグを見て、シャルルは表情を和らげた。


「変なお姉様。まるで、人間みたいですよ」


「煩い!」


 誤魔化すように叫んだ。

 背を向けて駆け出すと、一目散にメグの私室に飛び込んだ。扉を閉めて、鍵もかける。

 今夜はシャルルに傍にいて欲しくない。


「……人間じゃない。私は、悪魔」


 誰に言うともなしに、口の中で小さく呟いた。

 心が重い――

 起きていても負の思想が止まらず、メグは早々にベッドに横になった。


 +


 天使のような美貌に、シャルルが嘲笑を浮かべる。


“怯えているの?”


 ぞっとして目が覚めた。飛び起きると、ベッドの上だった。


「はぁ、はぁ……」


 べったりと、寝汗を掻いている。メグは顔をしかめて、床に足をついた。

 水を飲もうと思い部屋を出ると、応接間に灯りが点いていた。家族が起きているのだろう。


“――もう、恐がらせたくないわ”


 はっきり聞き取れないが、マリアリリスの声だ。うっすら開いた、扉の隙間にぎくりとしながら、顔を寄せる。そっと、覗きこんだ――



“あの子、自分が人間だって知らないのよ”



 え……



“お姉様には、言わないで”


“ともかく、あの男をさっさと片付けちまおうぜ。これ以上、上位次元ヘイルガイアに浸食されたら、メグの記憶が開いちまう”


 溜息をつくレオナルドの隣で、メフィスティが同意するように小さく顎を引いた。こんな時間に皆で集まって、一体、何の話をしているのだろう……


“早い方がいい。今夜、殺そう”


 淡々と応えるサタナキアと、扉越しに瞳があった。ぎくりとするメグを見て、瞳を優しく和ませる。


“メグを最初に見つけたのは、俺なんだよ。とても美味しかったから、生餌にしようと思っていたんだ。でも――”



 え……



「かわいそうに。まだ“隙間”が怖いんだね?」


 いきなり、サタナキアの声が耳元で聞こえた。背筋がぞっとして、メグは悲鳴を上げた。


「うわぁッ!」


 飛び起きたら、またしてもベッドの上だった。

 メグの寝室だ。誰もいない。外は暗い。

 心臓がバクバクしている。尋常ではないほど、寝汗を掻いている。全部、夢だった? どこから夢?

 ぞぉっと即時に全身が総毛立つのを感じた。


「――お姉様?」


「ひっ」


 思わず、小さな悲鳴が飛び出した。


「シャル……?」


「悲鳴が聞こえたけど、平気? 入ってもいいですか?」


「う、うん」


 ベッドから降りたメグの前に、シャルルはやってきた。


「恐い夢を見たのですか?」


「……」


 心配そうな顔をしている。ふと、その眼差しが、メグよりも高い位置にあることに気付いた。


「シャル、背伸びた?」


「そうですか?」


「……」


 とうとう、シャルルに追いこされた。あっという間に、追い抜かれてしまう……

 感情が乱れて、視界が潤んだ。


「お姉様?」


「本当のことを、教えて。私は、人間なの?」


「お姉様……」


 悲壮感を漂わせて涙するメグを、シャルルは優しく抱きしめた。


「……人間なの?」


「お姉様は、お姉様ですよ。悪魔でも、人間でも、僕の大切なお姉様です」


「どこまでが夢なの? 皆で私のこと、人間だって話してたでしょ? そうだよね?」


 シャルルは曖昧に微笑んだ。


「私、やっぱり、ママとパパの本当の子供じゃないんだ……」


「お母様もお父様も、お姉様のことを愛していますよ」


 メグは瞳に涙をいっぱいためて、天使のように微笑む、悪魔のシャルルを睨んだ。


「シャルなんて大嫌い!」


 激情のままに、吐き捨てた。

 息苦しいほど空気が重くなる。シャルルの見開かれた瞳に、魔性が宿る。

 魅入られる――

 本能的な恐怖から、眼を背けようとしたら、伸ばされた手に両頬を包まれた。

 吐息が触れるほど、顔が近付いた。唖然とするメグの顔が、光彩を放つ瞳に映っている。


「お姉様は悪魔じゃない。人間ですよ。鎖に繋がれているお姉様を、兄様が見つけて連れ帰ったんだ」


「えっ」


「お姉様の悪夢はとても美味しいから、僕達皆を虜にしてしまう。けど――」


「な、何言ってるの」


 かたかたと震えるメグの肩を、シャルルはきつく掴んだ。


「悪夢が魅力的なだけじゃない。お姉様が人間でもいい。僕はお姉様が――」


「やめてよッ!!」


 両手をきつく握りしめられる。振り解こうとしても、敵わない。


「――ッ」


 唇を塞がれた。ふつりと、メグは意識を手放した。





挿絵(By みてみん)

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