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第一章

 切石で構築された縦に長い空間がある。

 二十メートル四方の部屋であり、東側には壁が全て取り払われて、小さな回廊越しに中庭へと繋がっている。

 東の方角から差し込む日の光とともに清涼とした空気が風によって運ばれており、この空間全体に満ちていた。

「「アッラーは偉大なり」」

 と、厳かで尚且つ、粛々たる声が部屋の中央付近に正座している五人の口から発せられていた。

 この場では、朝食前に欠かす事のできない礼拝が行われている最中であった。

 一人、一人の意思疎通が為された秩序を乱さない身体の動かし方で、神への愛を讃えている。

 その動作が繰り返される事、五回。

 床につけていた膝頭、左右の五指、鼻、額を離して、最初に立ち上がったのは、先頭の位置にいる白色を基調としたローブを着ている青年と白地のサリーを身に纏う少女であった。

 二人の後方にいる三人も同じように身を起こし、足早に退出する中で、残った年若い侍女が二人の方に振り向いて、

「ファルザード様、ファーティマ様。食事の準備を致しますので、今しばらく、大広間でお待ちくださいませ」

 伝令役を担った侍女にそう告げられたファルザードとファーティマは、首肯する。

「今日も楽しみにしているわね。貴方の作るご飯」

 ファーティマが腰まで伸びている黒髪を微かに揺らしながら艶然と微笑みかける。

「は、はい!! 頑張らせていただきます」

 と、侍女は、耳の上をみるみると紅潮させつつ意気込みを語り、慌てた様子で一礼した後で足早に入り口の方へと立ち去っていく。

 その場面を十二分に見つめていた少女が一息を入れる間に自分の横を通り過ぎていくファルザードが振り向き様に、さっさと俺達も行くぞ、と話しかけ、そそくさと広間の方へと歩き出す。

「お兄様、ちょっと待ってよ!!」

 少女は、駆け足気味に兄の後を追い始める。



 ファーティマとファルザードが住まう邸に設けられた広間には、長方形の食卓と職人達が端整込めて織り上げた幾何学模様の絨毯が所狭しに敷かれているだけで他の調度品が見当たらない。

 食卓の上には、薄焼きパン、サヤインゲンの煮込み、鶏肉の串焼き、トマトのスープ、彩鮮やかな野菜がふんだんに使われたサラダなどが並んでおり、ファルザードとファーティマが真向かいで食卓を囲んで、それらの料理を食している。

 ファーティマは、鶏肉の串焼きから食事用の短剣で切り分けられた鶏肉とサヤインゲンの煮込みを木のスプーンで掬い、薄焼きのパンに乗せてから二つ折りにして噛り付く。

 良い具合に焼けている鶏肉の香ばしさとサヤインゲンの煮込みに使用されている香辛料の香りが鼻腔へと抜けていき、サヤインゲンの歯ごたえと煮込みの汁が染みこんだ薄焼きパンの柔らかい食感が一口目で味わえ、続けて、二口目で鶏肉まで到達すると噛み千切ると肉汁が溢れだし、咥内を満たしていくとともに咀嚼し、飲み込んだ。

 そうした食事の一時が緩やかに流れて、食器類が互いにぶつかりあった時に生じる甲高い音や咀嚼音だけが広間全体に波及していく。

「どうだ? 病院での仕事は?」

 黙々と食事に専念していたファルザードの唇が唐突に開き、音が生まれた。

「ん? えぇ……、そうね。色んな人達に助けてもらってるわけだし、良い方に向かっているとは思うわ」

 向かい側に座っているファルザードが、そうか、という一言を前置きした後で、

「本当に病院の仕事で良かったのか? お前なら宮殿に仕える事だって簡単に出来たんだぞ? それなのにどうして……、あんな身の危険に及ぶかもしれない場所で仕事しようなんて思うんだよ?」

「…………お兄様。心配してくれるのはありがたいけど、私の気持ちは変わらないわよ」

「……ったく。何故、そこまでして下々の者達に関わろうとする? それは、彼らに対する哀れみからか? それとも、同情か?」

 と、訊ねてきた。

 少女は、無意識の内に指先を下唇に当てる仕草をしながら考えること十数秒。

「そこの所は、私もよく分かっていないわ。みんながどんな暮らしをしているのかを直に知っておきたかった。ただ、それだけよ」

 心配性の兄は、ふぅ、と嘆息をつきながら手に持っていた薄焼きのパンを木皿に置き、口の中に入っていた食べ物をしっかりと飲み込み終えてから、唇を微かに開いたと同じタイミングで、お食事中に失礼いたします、と二人の耳に届く音量で声を発したのは、広間の入口から現われた黒髪を肩口で切り揃えられた女性であった。

「どうしたの? マフナーズ」

「つい今しがた、宮殿の使者から女王陛下の言付けを預かりまして、どうにも、ファルザード様とお嬢様にすぐに知らせてほしい、という事でしたので」

 マフナーズ、と呼ばれた女性が食卓へと歩み寄っていく。

「……そうか。それで女王陛下は、なんて言っていたんだ?」

「はい。政務が始まる前に大事な話を話したいから宮殿の方にお二人の顔を見せて欲しい、と。言付けは、これで終わりになりますね」

「そうなんだ。マフナーズ、わざわざありがとうね」

 少女と侍女は、互いに視線を交差すると笑みを浮かべる。

「…………あっ、お嬢様。口が汚れてますよ?」

 と、どこか楽しそうに呟いたマフナーズが上体を少し折り曲げて懐から折り畳んである布を取り出し、私の口元に当てると優しく拭き取ってくれた。

 その後でマフナーズが一礼し、そのまま入口の方へと踵を返していく姿を視界の端で捉えてから、目線を真正面に戻しながら話しだす。

「それにしても大事な話って何だろう? お兄様は何か知っている? …………お兄様? どうしたの、ボーっとなんかして」

 ファーティマは喋っている途中で兄が沈黙を保っている事に気がつき、目を瞬かせながら問いの言葉を投げかけた。

「ん? いや、何でもない。それよりも早く食べて、宮殿に向かうぞ」

「あっ……、うん」

 二人は、目の前に並べられている朝食を一秒も早く食べ終わる事に専念し始める。



 朝食を食べ終えた兄妹は、着替えをそそくさと済まして、自分達が住まう邸の十字路から辻馬車を拾って乗り込み、約十数分の道程を進んでいき、宮殿の正門前に到着する。

 辻馬車から降りた兄妹が目にしたのは、宮殿の周辺一体を囲んでいる深さ十数メートルの溝。

 二人が立ち尽くしている位置から宮殿の正門までは跳ね橋が掛けられて宮殿内部へと進み事が本来なら出来るが、現時点においてはその肝心の跳ね橋は正門側の方に折り畳まれてあった。

「あれ? 跳ね橋がまだ下ろされていない。早くつきすぎたかな?」

「別に良いんじゃないか? 女王陛下は政務が始まる前にって言ってたくらいだから、とりあえず、あそこで跳ね橋を下ろしてもらえるか頼んでみよう」

「うん。そうだね」

 ファーティマが跳ね橋の手前側に隣接している詰め所に立ち寄り、小さな窓口から奥の方を覗き込みながら、どなたかいませんか? と声を掛ける。

 詰め所の内部は狭く、一つのテーブルに囲んで楽しそうにカード遊びしている二人の兵士がいるだけだった。

「……ったく、誰だよ。こんな朝早くに…………いっ!?」

 兵士達が振り向き際に兄妹の姿を捉えた瞬間、これ以上無いというほどに目を大きく見開いて、手に持っていたカードを勢いよくテーブルに落としたまま立ち上がり、木の椅子が地面に強く擦れる音が部屋中に轟いた。

「おい。カードを隠しとけ」

「へぇ? どうしてです?」

「良いから俺の言う通りにしろって」

「……わかりましたよぉ。もう、主任は人使いが荒いんだからさ」

 若い兵士とのやり取りを終えた主任と呼ばれた兵士は引き攣り笑いを浮かべながら窓口まで近付いた。

「…………これはこれは、ファーティマ様、それにファルザード様もいらっしゃっていたんですか。今日は、こんな朝早くにどうかされたんですか?」

 小声で自分達に話しかける年老いた兵士の背後では、もう一人の兵士がテーブルの上にばら撒かれたカードを拾い集めている最中であった。

「今日、女王陛下と会う約束しているので跳ね橋を下ろしてもらえませんか?」

「あっ、そうなんですか。そういう事でしたらただいまやりますので、もう少しだけお待ちくださいね」

 ファーティマに応対していた兵士は振り向き、おい行くぞ、とカードを集め終えていた若い兵士に呼びかけ、詰め所から出て行く。

 二人の兵士が跳ね橋を下ろす為の手順を踏むこと数分。

 ゆっくりと軋みを上げながら跳ね橋が接地する。

 その様を見届けたファーティマは、詰め所の方に兵士達が戻ってきた折に、ありがとう、と労いの言葉を投げかけてからファルザードと共に宮殿の中へと入っていく。




 ふぅ、と一息をついた主任と呼ばれた兵士は、兄妹の後姿をいつまでも見送っている若い兵士の肩を軽く叩きながら、

「俺達の役目は、終ったんだ。そんな所に突っ立ってないでさっさと戻るぞ……ッ!? って、何をそんなにニヤニヤしているんだ。お前は……」

 と、言った。

「いやぁ~~~。オレ、あんな綺麗な子にお礼を言われたの初めてで……」

「あぁ……。そうかよ」

 相方の能天気ぶりに呆れ気味に言葉を返す年老いた兵士。

「にしても、主任もあの子と知り合いなら、オレに紹介してくれたって罰が当たらないのに。今まで、隠しとくなんて酷いなぁ……。で、あの子は誰なんです? それに隣にいたあの男とはどういう関係なんですか? ……ハッ。まさか、恋人同士だったりするんですか!? それじゃあ、俺、望み薄なのかなぁ。いやいや、オレの魅力に掛かればあの子もいちころなハズ。そう思いませんか? …………あれ? 主任、どうしたんです?」

 後半の言葉は、若い兵士が主任がこめかみを丹念に揉み解している所に気付いた為であった。

「いや、何でもない。それより、一つだけ忠告しといてやる。ファーティマ様には絶対にこれからちょっかいを掛けようなんて思うなよ」

 目をぱちくりと瞬かせる若い兵士は、ふと思い出したかのような口調で喋りだす。

「そういえば、主任はさっきからあの子の事を様付けで呼んでいるけど、どっかのお嬢様だったりするんですか?」

「お前はそうか……。ここに来てから数ヶ月しか経っていないんだったな。なら、知らないのも無理ないか」

 年老いた兵士の物言いに、???、と疑問符を浮かべている若い兵士。その反応を見ていた主任は、微苦笑の息を漏らすと、

「ファーティマ様。それに彼女の隣に居たファルザード様もアケメネス女王国の英雄の子供なんだよ」

 と、告げた。

「えっ? つまり、それって……、女王陛下の…………」

 主任の言葉を理解した一兵卒の顔色が急速に蒼ざめていく。

「そういう事だ。諦めるんだな」

「ううっ……。これを機に知り合いになれると思ったのになぁ」

 未練がましく、両肩を大きく落とす若い兵士であった。



 広大な敷地の中にある宮殿は、大きく分けて二つの区画が存在する。手前側が謁見の間、会議場、礼拝室と云った公的機関が存在している区画とその奥の方には女王陛下やその王家の血筋に連なる人々に割り当てられた居住区画がある。

 ファーティマとファルザードが女官の案内で通されたのは、謁見の間ではなく、居住区画にある女王陛下の執務室。

 自国生産の色鮮やかな絨毯が床一面に敷き詰められており、執務机と椅子がポツリと置かれている他に部屋のあちこちに無造作に不気味としか言いようのない彫刻品や絵画や木彫りの人形などを見渡していたファーティマは、唇を半開きにさせたまま、

「前よりよく判らない品物が増えているような気がするんだけど……」

 と、感想を漏らした。

「俺ら臣下がどれだけ窘めた所で、あの人の趣味がそうそう変わる訳がないさ。……少なくとも、ここにある半分くらいの物が価値ある品物ならば、誰もとやかく言わないんだけどな。まったく、あの人の審美眼にはほとほと困ったもんだ」

 ファルザードが溜め息交じりに呟いたと同じタイミングで、

「……これらの良さを分からないなんて、かなり損しているわよ」

 朗々たる声が響き渡り、二人は半歩分後ろに下げた右足を軸にして入口へと方向転換する。

 視線の先にいたのは、黒い髪を肩口で切り揃え、猫の瞳を思わせる琥珀の輝きを宿した両眼を兄妹に注いでいる女性であり、彼女の背後に控えていた侍女の一人が二人に向かって一礼してから、静かに執務室から退出する。

「「アフタル女王陛下、おはようございます」」

「あら? そんな堅苦しい呼び方、今は必要ないわよ? この部屋にはあたし達しかいないんだから。それとファーティマ、本当に久しぶりね。あぁもう、見ない間にまた一段と美しくなっちゃって……。とても嬉しいわ」

 アフタル、と呼ばれた女王陛下は、ファーティマを力一杯に抱きしめるとともに、頬ずりも絡めてくる。

「ちょっ……。く、苦しいよ」

「久々なんだから、良いじゃないのよ。ここ数日、忙しすぎて癒しが足りていなかったのよねぇ~~~」

 少女は、助けて、と兄に視線を投げかけたものの、彼は片手を横にひらひらと動かしながら、諦めろ、と唇の動きだけで表わした。

 数分の時間が過ぎさり、

「うーん、堪能したぁ~~~」

 ファーティマを解放した女王陛下は、左右の五指を組み、思いっきり背を伸ばしていた。

「…………女王陛下。政務が始まる前に、というから早く来たのに、こんな事で時間を取られていては、本末転倒です。とっとと本題に入ってくださいよ」

「相変わらず、せっかちな所は兄さんにそっくりねぇ~~~。困ったものだわ」

 右頬に掌を当てながら小首を傾げるアフタルの反応に、こめかみを揉み解しながらファルザードは盛大な溜め息を零した後で、

「いい加減にしてください!!」

 と、声を荒げた。

「おぉ~~~、怖い怖い」

 両眼を三日月の形にさせた女王陛下が楽しげに言葉を返すと、兄はかなり疲れた表情で両肩を撫で下ろした。

……お兄様も大変だろうなぁ。

 宮殿の中でいつも行われているであろう、と簡単に想像できる君主と臣下のやりとりに口の端が緩ませたファーティマは、頃合を見計らって、話を進めていく。

「私達に何の話があるの?」

「あぁ……、そうだったそうだった。危うく、本題を忘れる所だったわ」

 と、そんな事を嘯きながらアフタルは、執務机に備えられている椅子に腰掛ける。

「……急で申し訳ないんだけど、ファーティマに婚約の話が持ち上がっていてね? それで、承諾するかしないかの選択をして貰う為にここに来てもらったわけ」

 結婚、という単語の意味を少女が呑み込むのに数秒を要する。

 下唇に指先を当てながら、ふぅ、と一息を入れ、

……とうとう、私にも結婚の話が舞い込んできたわけかぁ……。

 己の身分を自覚しているファーティマにとって、十六歳という年頃となった現在において、結婚の話がいつ来てももおかしくはない、と頭の片隅で考えていた事柄だったとはいえ、この瞬間に訪れた事には、多少なりとも驚きを覚えていた。

「本当に急な話ね…………。相手はどこの国の人なんです?」

 少女と女王陛下の関係を端的に表した、叔母様、という呼び名を口にする。

 アフタルは目を丸くしたのも一瞬、すぐに穏やかな表情に切り替えてから、

「セレウコス王国、王位継承第二位のレザー王子よ」

 と、告げられた。

……セレウコス王国って確か……、西側に存在する国家の一つだったよね。この国よりもバスラ砂漠に近い事もあって、領土の殆どが畜産に適さない厳しい環境に置かれているんだっけ。そっか……、私の夫となるレザーという男性も王族に連なる人間なのかぁ~~~。

 冷静に思考を働かせながら、どんな相手になんだろうか? と思いを巡らしている間に、あどけない笑顔を自分に向けてくれた五つも歳の離れていた少年の姿が脳裏を過ぎっていく。

「…………」

……私は、一体何を思ったのよ?

 心の中で首を横に振る少女は、つい今しがたに思い浮かべた少年の事を忘れる為に、アフタルにレザーに関する情報を聞き出そうとする。

「……気になる? なんなら彼の肖像画があるから見てみる? かなり吃驚すると思うわよ」

「自分で吃驚するなんて言っちゃったら、台無しだと思うけど…………」

 そう? と返事をした女王陛下は、執務机の隅に置かれていた小さな銅製の鈴を手に取り、小気味良く鳴らした。

 失礼いたします、と執務室の外で待機していた侍女が深々と腰を折り曲げて礼を行った後に、執務室の中へと足を踏み入れる。

「女王陛下、どのようなご用件でございましょうか?」

「あたしの部屋からレザー王子の肖像画をこっちに持って来てくれるかな?」

 畏まりました、と了承した侍女は踵を返し、急ぎ足にならない程度の歩みでこの部屋から引き下がっていく。

 侍女の後姿を見送っていたファーティマは、ファルザードの方に顔を動かして、

「縁談の事を前から知っていたの?」

 と、問い掛けの声を発した。

「……まぁな。ここ最近の会議の議題で今回の縁談をどうするのかで皆がかなり盛り上がっていたからさ。まぁ、その気持ちも分からないでもなかったけどな。なんせ、ここ数年は、アルケサス帝国との戦争が終ったかと思えば、すぐに内乱が発生して、ゴタゴタしていた突入した訳だし……、だからこそ、この縁談が国を挙げての祝い事になるかもしれないと思えば、古老達だって、逸る気持ちを抑える事なんて出来ないのも分かっちまうしな」

……それだけ、重要な話ってことだものね。

 身分の高い者同士の結婚は、国と国の友誼を交わす大事な外交手段の一つである。

 だからこそ、と思う。

「ねぇ、叔母様? 私とレザー王子の結婚をアケメネス女王国にとって、有意義なものにしてくれる?」

 真摯な光を宿した瞳を向けながら発した姪っ子の言葉を聞いた女王陛下は、穏やかな眼差しで彼女を見つめながら、

「えぇ、約束するわ。貴方が幸せになるためにも…………」

 と、首肯しながら断言した。

 ありがとう、と微笑していた少女の耳に兄の声がするりと聞こえてきた。

「俺はてっきり、断るもんだと思っていたんだけどな……」

「断る理由なんてないもの。それに、以前から結婚は王族の務めでもあると言っていたのは、お兄様の方でしょう? だから、私はそれを果たすだけ」

「……そうか」

「妹離れがなかなか出来ていないわねぇ」

 と、言った直後に、アフタルはニヤリと口の端を吊り上げると琥珀色の瞳を妹から兄へと移して、お兄ちゃん、と猫撫で声を出しながらそう呼びかけた。

 その反応を目の当たりにしたファルザードは、そんなんじゃないですって……、と心底嫌そうな表情を露わにしたまま、否定する。

 



 アフタルがとても楽しそうに甥っ子を弄くり倒していく様子をファーティマが面白そうに眺めている間に時間が過ぎ去り、

「失礼いたします。女王陛下、レザー王子の肖像画を持って参りました」

 その声に振り向いてみると、二人の侍女が布で覆われた肖像画の角隅を大事そうに両手で持ち上げながら、運んできた。

 ファーティマとファルザードは、侍女達の邪魔にならないように数歩分の距離を横に移動して、中央のスペースを開ける。

 兄弟の行為に、二人の侍女は会釈してから、音を立てない様にしながら執務机の上に肖像画を置き終えると、執務室の入口付近まで下がり、執務室にいる三人の王族に向かって、一礼した後に部屋を出た。

「ファルザード、布を解くのを手伝って」

 分かったよ、と頷いた兄が肖像画の上側にある角隅を両手で持ち、立てかけている間に、女王陛下が肖像画の裏側にある布の結び目を緩めていく。

 保護していた布を解いた肖像画を横に倒すと、ファーティマがきちんと見えるように自分の立ち位置をずらすファルザードであった。

「……っ!? この人がレザー王子なの!?」

 視界に飛び込んできた肖像画に描かれている人物の姿を捉えた瞬間、驚きの声を上げてしまう。

「そうよ。吃驚したでしょう?」

「確かに驚いたけど……。これは、この肖像画は何年か前の物じゃないの?」

「ううん。違うわよ。今年に入ってからの描かれたものだから、正真正銘、現在のレザー王子」

 口を閉ざしたファーティマは、もう一度、肖像画を注視する。

 そこに描かれていたのは、椅子に腰掛けている年上の男性ではなく、年下の男の子だった。自分の相手は同年代かもしくは年上になるだろう、と予測していた少女自身にとって、年下という選択肢があるとは考えに及んでいなかった為に、若干の戸惑いを覚えていた。

……そっか、そうだよね。歳が十以上離れている場合もあれば、逆の場合もあるはずだもんね……。実際に私といくつぐらい離れてるんだろう?

 さすがにこの見た目からして五歳以下の子供という事はあるまい、と思う。

「どうかしら? この子を見た第一印象は?」

 と、喜色満面の面持ちで尋ねられ、んー、と下唇に右の人差し指を当てて、思い付いた事を言語化していく。

「大人しそうと言うよりもどこか活発で、それでいて大人びているように見えなくもないかな……? うん。やっぱり、実際の年齢以上に見える雰囲気が漂っている気がする。特に、このハシバミ色をした瞳なんかが理性的に私には見えるわ」

「なるほどねぇ~~~。けっこう、好印象っと」

「別にそういう訳じゃ…………」

「そう照れなくても良いじゃない。貴方が良い印象を覚えてくれて、あたしとしてもホッとしてるわけだしね。…………それでね? 二週間後にはセレウコス王国に行ってもらいたいのよ。そこでお披露目にする手筈になっているから」

 女王陛下の発言を最後まで聞き終えたファーティマは、これ以上ないほどに目を大きく見開き、

「なっ……。そこまでもう話が進んでいたの!? なら、私に了承を得るかどうかっていう話は何だったのよ!?」

 と、愕然とした面持ちで叫んだ。

「ん? それは勿論、ファーティマが頷いてくれる可能性が高いと踏んでいたから、前々から準備だけは進めていたのよねぇ。…………これが。それにもう承諾を得たし、問題ないじゃない?」

 激しく目元を覆いたくなる気分に駆られていたが、なんとかそれを抑えこみつつ、落ち着け、と何度も念じながら、声を絞り出す。

「もしも、私が嫌がっていた場合は、この話はどうなっていたのよ?」

「それゃあ、別の花嫁候補ならすでに何人か見繕っていたわよ? まぁ、でもその心配はたった今、消えたから問題は無くなった訳だし、これで肩の荷が下りたわ」

 両手を組み、軽く背を伸ばしているアフタルからそんな事を軽々と言ってのけられてしまい、開いた口が塞がらないファーティマであった。

「……お兄様、本当はどこまでこの話を知っていたの?」

 横目で隣にいる兄を見遣り、声音が無意識の内に低くなっていっているのも構わずに訊いた。

 妹の迫力に、うっ!? とたじろいでいるファルザードは、そうだなぁ……、と乾いた声を漏らし、眉を八の字にさせて頬を人差し指で掻きながら、次の言葉を紡ぎだす。

「最初からかな……」

 ほぅ、とファーティマが一段と低い声を出しているのを耳にした兄は、引き攣り笑いを浮かべていた。

「ファルザードには、あたしから黙っているようにお願いしたのよ」

 助け舟を出した女王陛下を見つめた少女の鮮やかな桜色の唇から静かに息が吐きだされ、

「分かったわよ。二週間後に向こう側へ着けばいいのね。…………それはそうと、この縁談を最初に持ちかけたのはどっちなの?」

 と、尋ねた少女の脳の奥底からアケメネス女王国に関する情報を整理する。

……セレウコス王国と同じ大陸の東側に存在している国家の一つがこのアケメネス女王国なのよね。その領土には河川の支流が何本も流れており、肥沃な大地を有している事からも畜産業が盛んに行われている訳で、だからこそ、こちら側から縁談の申し込んだ場合だと、自給率の低いセレウコス王国と同盟関係を結びメリットが見当たらない。それとも、同盟関係を結ぶ必要性に迫られている何かが起こったとでもいうのかな? 或いは、自国に利益となる価値を見出した?

 と、花嫁となる少女が思考を巡らしている途中で、

「ふふっ……。相変わらず、知りたがり屋さんねぇ~~~。まぁ、別にこんなのは隠し事じゃないから、答えてあげる。うん、そうね。正直に言えば、半々って所かな」

「半々?」

「そう。実際、貴方との縁談を望む国々はたくさんあった。まぁ、大国の分類に入るとされているらしいアケメネス女王国に王家の血筋を連なる女性が存在し、しかも、繋がりを持てるならば、あたしが別の立場だったら、縁談を申し込んでいるだろうからね。セレウコス王国もその中に一つで、だけど、今まではそれらを断っていた」

 アフタルは柔和な笑みを浮かべながら、そう答えた。

「断っていたって、どうして……?」

「アルケサス帝国との戦争や内戦を鎮圧に力を注いでた時期と被っていて、縁談を進めている場合じゃなかったのよ。でも、今はそれなりに落ち着いてきているし、今後のアルケサス帝国との関係もあるし、一つでも多くの他国との友好も深めておきたい。だけど、もっとも重要な事が一つだけあるわ。それは、貴方が結婚する事で希望が民草の心に芽生えくれれば、というあたしの願い」

 希望、と小さな声で呟きながら、その単語がすとんと胸の奥底に染みこんでくる感覚に自然と口元が綻んでいく。

姪の反応をじっと見ていたアフタルは、ふとした瞬間に目を細めて、言葉を続ける。

「戦争や内乱が終った今でも、民草の心に蔓延る厭世観、徒労感、絶望。それらが少しでも和らいでくれれば、今回の結婚はそれだけで大成功になる。それにこういった国を挙げての祝い事から大分遠ざかってしまっているしね。…………と、そんな所かな? 何か他にも質問がある?」

……ふふっ……、本当に叔母様らしいなぁ~。

 そんな事を思うと同時に、この人の身体に流れている血が自分の中にも巡っているんだよね、と誇らしく感じていた少女はふっくらとした唇を開き、

「じゃあ、もう一つだけ。セレウコス王国との縁談を選んだ理由は?」

 と、訊く。

「……あぁ、それはね? 近隣諸国にいる君主の中で、あたしは、個人的にイフラース陛下と面識があって、とても信頼を置ける人だからね。ファーティマの事を任せても大丈夫と考えたの」

「えっ? 叔母様は、セレウコス王国の国王と知り合いだったの!?」

「知り合いというほどの交友をしていた訳ではないんだけどねぇ~~~。でもまぁ、イフラース陛下を良く知る人と知り合いだったのよね。…………あたしは」

 ファーティマは口を閉ざしたまま、ふぅん、と納得の意味をもつ一音を鼻の奥で鳴らす。

「さてと……。叔母様もそろそろ仕事の時間だろうし、帰るわね」

「あら? もう少し、ゆっくりしていけば良いじゃない?」

 そう言った直後に、仕事を始めてください、とファルザードがキッパリと言い放たれてしまい、叔母は不満の意思表示に唇を尖らせる。

「……もう、分かったわよ。ファーティマ、近い内に日程の詳細などを話したいからそのつもりでいてね?」

「うん。二人とも、それじゃあね」

 おう、と返事するファルザード、ええ、と声を発するアフタルの二人であった。

 ファーティマは身を翻して、執務室を後にする。



 「……女王陛下」

 妹の後姿を見送ってから数十秒が経過した頃に、ファルザードはもう一度自分が仕えている主君の方に振り向くと呆れの色が混じった声音で、

「あまり、話をでっち上げないでくださいよ。あの様子だと完全に信じ込んだじゃないですか」

 と、窘める。

「でっち上げる、なんて酷い言い方をするわねぇ~~~。あれは、本当にあたしの真摯な思いを込めて喋ったまでの事よ?」

 ゆっくりと口の端をつり上げた女王陛下が甥であり、臣下でもある青年に向かって、楽しそうに声を発する。

……まったく、この人は次から次へと…………。

 と、青年は溜息交じりに両肩を落としながら己の髪に五指を浅く差し込み、掻きだした。

「貴方がそれで良いなら良いですけどね」

「その歯の奥に物が差し挟まった物言いは何なのかしらね?」

 音も立てずに椅子から立ち上がった女王陛下は、自然な動作で右手を前に突き出すと同時に俺の額をほっそりとした中指の爪先で弾きだす。

 一瞬、という短い時間の中で己の頭部が勢い良く前後した。

「くっ~~~!? 何、するん…………ですか」

 あたしに口答えをした罰よ、とけらけら笑いながら語るアフタルであった。

 青年は右の掌で己の額を隠して二発目を浴びないように後ずさった後で、

「…………はぁ。俺はそろそろ議会の方に行くので、女王陛下も政務をしっかりとこなしてくださいよ」

「そんなに釘を刺さなくても分かってるわよ」

「昨日だって、隙を見て逃げ出したじゃないですか。議会の人間まで使って、探し出す羽目になったんですからね」

 唸り声を上げるアフタルを無視して執務室から出ようとした瞬間、

「そういえば、今、思い出したんだけど……」

 と、声を掛けられ、青年は移動を停止すると共に顔を動かして、視界の端で女王陛下の姿を捉えると、何ですか? と訊く。

 あー、とも、えっーと、と曖昧な表現をしているアフタルの様子に、怪訝そうな表情を浮かべたファルザードは身体を反転させると、再び叔母である人物を視界の中央に収めながら次の言葉を待った。

「今朝方、セレウコス王国から帰ってきたイマードが妙な事を言っていたのよ」

 ファルザードは、その台詞を切欠に自分と同じ主君に仕え、一、二週間前にアケメネス女王国の使者としてセレウコス王国へ旅立った同僚の姿を思い浮かべる。

「イマード様が帰ってらっしゃったんですか。それで、その妙な事とは?」

「うん。アスワドを見た、ってね」

 アフタルの言葉が耳の奥底で何度も繰り返さる中で、切れ長の瞳を有する青年はこれ以上ないというほどに目を大きく見開き、思考が完全に止まる。

 考える力を取り戻すのに、現実の時間は数秒にも満たないではあったが、ファルザード自身には、一分以上の時が流れている、と錯覚させるほど長いものに感じてしまっていた。

 だからこそ、

「…………らしいんだけど、どう思う? って、聞いている?」

「…………あっ。も、勿論、聞いてましたよ」

 と、この場に自分以外の人間がいる事を思い出し、なんとか言葉を繋げていく。

 アスワド、という人名を耳にしたその時から胸の裡に渦巻いている一つだけではない激しい感情を悟られまい、と新鮮の酸素を肺に送り込み、平常心を取り繕いきれていない最中に震えを帯びた声音で喋りだし始める。

「アイツがあそこにいたのは確実なのですか?」

「いや、さっきも言ったけど、遠目からちらりと確認しただけで話してはいないらしいのよね」

 椅子に腰掛け直したアフタルは、困った、と言わんばかりに片方の掌を右頬にそっと当てて、

「さて、イマードが言っていた事が本当だとした場合、アンタはどうする?」

 叔母との公私に渡る関係は長いものがあり、それゆえに、自分の本心なんてあっさり見抜かれているのだろう、と確信していたファルザードは口の端を歪めつつ剣呑な光を宿した両眼で女王陛下を見据えて、ふっ、と息を吐き出したタイミングで、

「女王陛下。アイツが生きているんだったら俺がやる事はただ一つだけだよ」

 と、言った。

「…………はぁ。アンタならそう言うと予想はついていたけど。だけど良い? 勝手な行動は謹んで貰うわよ。増してや、ファーティマの婚約がようやく纏まりかけているのにあたし達の方で問題を起こせば、全てが台無しになるのよ」

「分かってますよ。……それぐらいは。ところで、イマード様はアスワドをどこで見かけたと言ってましたっけ」

 おどけた調子で呟くファルザードを凝視していたアフタルは、数秒が過ぎ去った頃に一息をついてから鮮やかな色の唇を開き、音を作りだす。

「軍の訓練場らしいわよ」

「軍の訓練場、という事は、アイツはセレウコス王国の首都にいるんですね」

「……そうなるわね」

……そうか。今ものうのうと生き恥を晒している訳か。胸糞悪い話だな、まったく。

 と、胸中で毒突いた目付きの鋭い青年は、一つの事を思う。

 復讐する機会が訪れた、と。しかし、同時に女王陛下から釘を刺されたばかりであり、迂闊には動くことが出来ない。

 それでも方法はあるはずだ、と考えを巡らしている最中に、

……あれ? そういえば、ファーティマにもこの話をしたのだろうか?

 と、疑問に思い、その事を女王陛下に問いかけてみた。

「……アンタ、人の話をまったく聞いてなかったわね。あたしは、言ったわよ? ついさっきこの事を思い出したって…………」

 あっ……、と息を呑み込んだ後で、しまった、と言わんばかりに顔色を変えた青年の反応に、アフタルは微苦笑の息を漏らしてから、

「まぁ、あたしとしてもイマードの言葉通りにアスワド君が生きているんだとしたら、この話をあの子に告げた方がいいのかどうかって迷っていた所ではあったんだけどねぇ~~~」

 と、右の人差し指で鼻先を軽く掻きながら、言葉を紡いだ。

「それなら、俺から話しときますよ」

 んー、という音がアフタルの唇から零れること、数秒。

「まぁ、そうね。予期せぬ再会となるのは避けときたいし、ファルザードに任せる。絶対にファーティマに変な事を吹き込まないようにね」

 分かりました、と簡潔に答える事で女王陛下の意を汲んだ風に取り繕い、心の裡に燻っているアスワドに対する激情を悟られないようにした。

「女王陛下、これで用件は終わりですよね?」

「ええ」

「それじゃあ、俺はこれで失礼します」

 と、告げると、すぐさま執務室を後にする。



 宮殿の回廊を抜け、敷地内にある政務官の仕事場まで進み続けている青年は、考え事に没頭している内に歩行速度を徐々に早めていくようになっていた。

 道すがら、宮殿に仕えている侍女や政務官の多くとすれ違い、衝突を回避しようと行動に移している人々や挨拶を行っている者達が一瞬という短い間にファルザードの表情を横目にした途端、

「ファルザード様、おはよ――――――ッ!?」

「ひっ―――!?」

 と、その顔色に当惑や困惑の感情を隠しきれず、言葉を詰まらせていた。

 これには、普段の彼からは考えられないほどに、鋭く細められた両眼に宿している危険な輝きと口元には微笑とは程遠い歪められた愉悦が浮かんでいた為に、ファルザードの事を知っている人間でも声を掛ける事を憚ってしまうくらい不気味な存在に映っていた。

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