第十二章
「んっ……」
と、小さな声を漏らしたアスワドは、閉じていた目蓋を薄く開け、茶色に染められている天井を見た。それから、顔を左右に動かしてみると、シャーヒーン達が着替えている所と自分が寝台に寝ていることを認識する。
そこでようやく、脳が覚醒したとともに、各部位の筋肉痛と切傷による痛みが全身を一斉に駆け巡った結果、
「痛っ~~~!!」
と、悶えながら、叫んだアスワドは、完全に左右の眼を開けると、上体を起こした。
己の呼吸音が荒い。
「ん? おや、アスワド君。ようやく、起きたのかい?」
アスワドに歩み寄り、声を掛けてきたのはシャーヒーンであった。
「今、何時だ?」
「朝方だよ。そんでもって、今は礼拝を行う五分前ぐらいだね」
「なっ!? 朝方って、俺はどれくらい寝続けていたんだ?」
げんなりとした声音で呟くと、
「昨日の今日だから安心して良いと思うよ? 君も早く、着替えて、礼拝に備えないと……」
「そ、そうだな」
寝台から降りる動作に移った際に、
「俺の荷物は、どこにあるんだ?」
「あっちだよ」
柔和な笑みを浮かべた青年は、南西の方角を指差し、部屋の片隅に置かれている見覚えのある荷袋を見つける。
……まずは、顔を洗わないと……。
移動を始めるアスワドは、振り返り際に、昨日、行われた勝負の行方を尋ねる。
「昨日の勝負は、結局、どっちが勝ったんだ?」
「覚えていないの?」
あぁ、と返事を打った。
「君の勝ちということで良いじゃないかな? なんせ、彼が倒れた直後に君も意識を失ったからね。けどまぁ、驚いた。君があそこまで、むきになって、勝ちにいくなんてさ」
そうか、と一言を述べながら、片頬を掻き、微苦笑の吐息を零したアスワドは、身支度を始めるのであった。
●
礼拝が終わり、朝食も終えた時間帯。
ジャバードの邸宅内に存在している一つの空間。そこは、応接の間と呼ばれている場所であり、ファーティマ、レザーの二人が両隣で座っている。
視線の先にいるのは、対面する形で腰を下ろしているアフタルがいる。
「女王陛下。本日も拝顔の栄に浴することが出来て、光栄に存じあげます。僕の用件と言いますのは……、緊急時とはいえ、国境を越えた際に滞在の許可証と増援を送って頂いたこと、さらに昨日の不祥事をあのような方法で処理して頂き、本当にありがとうございました」
「こちらこそ、昨日の急な来訪にも関わらず、対応して頂いたことを感謝いたします。…………と、まぁ、堅苦しい挨拶はこの辺にしておいて、お互い、楽にしましょう? ねぇ、ファーティマ」
「そうね、叔母様」
と、苦笑気味に応える。
ファーティマ、と呼ばれた自分は、叔母である女性に視線を向ける。
「本当は、こっちで片付けるはずだったアッパーズ同胞団の問題で、色々と面倒を掛けさせちゃって、ごめんなさいね」
「そのことは、もう大丈夫よ」
「そう? それなら、良かった。それにしても、まさか、アッパーズ同胞団があそこまで強引な手に出るなんて、考えても見なかったから吃驚したわね」
右頬に右の掌を置き、小首を傾げてみせるアフタルは、溜め息混じりに話した。
「お二人でお話があるようでしたら、僕は席を外しますけど?」
中腰の体勢になったレザーが彼女に言葉を投げ掛ける。
「お心遣いありがとう。でも、居て貰った方が話も進むと思うし、そのままで構わないわ」
分かりました、と言った王位継承権第二位を有する少年は、座り直した。
「ねぇ、叔母様。今回の婚約って、もしかして、私を国外に逃がす目的でしたことなの?」
「……どうして、そう思ったか。訊いてもいい?」
「アッパース同胞団に捕まった時に彼らとアケメネス女王国が置かれている現状について、少し話をしたのよ」
「えぇ」
「アケメネス女王国は、いつ、内乱や他国との戦争が勃発してもおかしくない不安定な情勢の中で揺れていた。だから、王家の血筋を継いでいる私を国外に退避させようとしていた。そうじゃない?」
「……貴方の想像にお任せするわ」
叔母様は、瑠璃色の輝きを秘めている双眸を三日月の形に柔らかく変化させた。
……答えてはくれないのね。それなら、これはどう?
「お父様が同胞団に関わっていたって、本当?」
と、胸の裡で抱いていた疑念を口にする。
「誰から聞いたの? そんなことを……」
微かに瞠目しながら、問いを発した女王陛下。
逡巡した面持ちを露わにした長い黒髪の少女は、アスワドから、と返答した。
「そう、アスワド君からなのね。……それで、あの子はなんて言ったの?」
「お父様が同胞団の導師だって、言っていたわ」
そう、と前置きしたアフタルは、笑顔のままで、
「兄さんが同胞団の者達と密かに通じている報告を何回も受けたことがあってね? それで、密偵を使い、調査していた時期だったのよね。ただ、兄さんの方もガードが固くて、なかなか、アッパーズ同胞団との関係がどの程度のものなのかが完全に把握しきれていなかった。丁度、その頃に、兄さんが死んだのよね」
「そう、なんだ」
「ファーティマ、アスワド君が語ってくれたその話をもっと詳しく訊かせてくれない?」
……んー、どうしよう?
迷っている間に、アフタルを視認する。
自分の言葉を待っている彼女は、表情を変えず、笑顔のままであった。
信憑性が確かめられない話である以上、正直に言うには、憚れる。だから、と云って、喋らない訳にはいかない。何故なら、アスワドを助けるには、彼自身の話が必要不可欠である為に。
一度、首を小さく左右に振り、はぁ、と溜め息をついた。
「……分かったわ。話す」
ファーティマは、幼馴染みの青年が語ってくれたことの顛末を話し始める。
●
数分が経った頃に、アフタルは、己の顎先を右の親指と人差し指で挟み、そういうことだったのね、と納得した直後に、二の句として、疑問の声を発する。
「貴方は、彼をどうしたいと思っている?」
「叔母様、それってどういう意味ですか?」
怪訝そうな表情で、尋ねた。
「彼が兄上を殺害した件に関して、その処遇をどうするべきかって話よ。そろそろ答えを出さないといけないわ」
「そのことについては、昨日の勝負で決着がついたんじゃなかったの?」
これ以上ないほどに、一対の瞳を大きく見開いたファーティマは、呆然、とした声音で呟いた。
「……そうね。あの一騎打ちはアスワド君が勝ったわ。でもね? 処刑はしないという話の方向性に進んだとしても、兄さんを殺した事実が消える事はないし、厳罰は免れない。何かしらの刑罰を科さないことには、英雄を今も慕っている国民達の怒りも収まらないだろうから」
「そんな……」
「女王殿下、アスワドの身柄はこちらで引き取ることは出来ませんか?」
ずっと、黙っていたレザーが上下の唇を開き、一つの提案を申し出た。
「その提案をしただけることには感謝いたします。ただ、この問題に関しては、私達の方で何らかの決断をまず下さないことには、その提案を受け入れることも出来ませんから」
私達、というアフタルの言葉が指し示す意味は、王家に連なる人間、という一点に他ならない。
ファーティマは、無意識の内に左右の手を握り締め、掌の内側に爪痕を残す。
……私の決断は……。
「……叔母様の方こそ、どう考えているの?」
「そうねぇ~~~。兄さんやファルザードには悪いけど、アスワド君への恨み辛みは無い。ただ、懸念が一つあるとすれば、アスワド君自身の手で兄さんを殺させてしまった、という負い目だけ」
「えっ? それって、どういう……」
「アッパーズ同胞団の行動は知っているわね? アスワド君の言葉を信じるならば、兄さんは、ずっと王家に仇なす行動を取っていたわけ。……遅かれ早かれ、あたしは兄さんの処遇に対する判断を下していたと思うわ。だけど、その前に結局、ああいう顛末になっちゃった訳だからね」
「それじゃあ、もう一度訊くわね。ファーティマはどう思っているの?」
どことなく面白がっている、ということを隠していないアフタルの声がするりと両耳に通り抜けた瞬間、無意識の内に強張っていた全身から余分な力が抜け、溜息を漏らす。
「私は……、彼を失いたくない。ただ、それだけよ」
と、胸の裡にあるアスワドの想いを吐露したファーティマは、真摯な眼差しで叔母である女性を見つめる。
「僕も、アスワドを失うようなことにはしたくないです」
右手を放したアフタルは、真剣な表情を浮かべるとともに上唇と下唇を開き、
「なるほどね。……それなら、今後、アスワドがアケメネス女王国の領地内に足を踏み入れることを禁じる。もし、これらが破られた場合は処刑も辞さないものとする。それで構わないわよね?」
今、この時、この瞬間に、アスワドの処遇が決定した。二回、三回と両目を瞬かせたアフタルは、叔母様は、それで良いの? と、問いかける。
「構わない。今回のことは、政治的判断が必要になるほど我が国に害を齎せるものではないから、そこは安心していいわ」
と、肯定の発言を受け止めた。
……良かった。
「後、残る問題と言えば、ファルザードを納得させることが出来るかどうかよねぇ~~~。まぁ、今日、出発する前に、あたしが言うわ」
「ねぇ、叔母様。お兄様の説得は、私に任せてもらえない?」
首を横に振り、駄目よ、と単語を口にするアフタルであった。
「えっ? どうしてなの、叔母様」
「妹である貴方がこのことを告げられたとなると、あの子はあれでいて、けっこう融通が利かない所があるから、お前はあいつの肩を持つのかって激怒するわよ? その様子が手に取るように分かってしまうから、余計に……ね」
「でも、誰かが説得する役目を負うのなら、家族の私がやるべきだと思うの」
「身内同士での無駄な争いは避けられるなら避けるべきなのよ。そのことをあたしは兄さんとの件で十二分に分かったからこそ、あなた達にまで、繰り返してほしくない。だから、あたしとしてはこの件に関して、貴方がファルザードを説得することには反対する」
きっぱりと断言されてしまい、返す言葉も見つからず、
「私は駄目だとすると、叔母様がお兄様を説得させるというの?」
「そういうことになるわね」
「それだと、叔母様とお兄様の間に深い溝が出来てしまうわ」
「……心配してくれて、ありがとう。だけどね、あたしから彼の処遇を言えば、ファルザードは従うしか無くなる。何せ、アケメネス女王国の君主が下した決定だからねぇ」
……二人が対立する所なんて、見たくない。何か良い方法はないの?
思案していた時に、
「それなら、僕からお兄さんに言ってみるってのは、どうかな? 後々、その方が角は立たないかも知れないしね」
と、レザーが一つの提案を持ちかけてきた。
ファーティマは、隣に座っている褐色肌の少年の方に振り向き、
「でも、これ以上、レザーに迷惑をかける訳には……」
それなら、こうしようよ、と呟いたと同じタイミングで、両手を軽く打ち鳴らしたレザーは、笑みを深めるとともに、
「僕とファーティマの二人でお兄さんを説得しよう。もし、口論になったとしても、僕が二人の間に入って、止めれば良いんだからさ。これなら、安心でしょ?」
「……そうね。貴方の提案に乗るわ」
と、承諾する。
間髪入れずに、
「それじゃあ、二人に任せて、大丈夫なのね?」
女王陛下の方に顔を向けた少女と少年は、首を縦に振り、肯定した。
アスワドの件について、話が纏まり、応接の間から退出するファーティマ達だった。
●
ファーティマ達は、ファルザードが滞在している賓客の間に到着した。
北の方角に一つの窓があり、彩り鮮やかな調度品の数々が置かれている一人用の部屋。
「お兄様、いる?」
「失礼致します」
ファルザードがいる地点まで、近付いていく少女と少年の二人。
「ん? ……なんだ。レザー様とファーティマか」
己に宛がわれた部屋に訪れた客人達の方を振り向き、作業の手を止めるファルザードであった。
「何をしているの?」
「アケメネス女王国の方に戻らないといけないから、その身支度をしているんだよ」
「お兄さん。もう少し滞在していただいても、こちらとしては構わないのですが……」
「レザー様の言葉に甘えておきたいところですが、そろそろ政務官としての仕事が滞りすぎている頃合いですし、本日中にはここを発ちますよ。……それで、俺に何の用があるんだよ?」
こちらの方に身体を向け、二人と正面を見据えた兄が発した最後の台詞は、長い黒髪の少女に対して、発せられたものであった。
「伯母様からの伝言です」
「伝言? それは一体なんのことなんだ?」
「アスワドのことです」
「なるほど。あいつの処遇について、か。……で、どんな決定が下されたんだ?」
両腕を組んだファルザードが泰然とした態度で、ファーティマ達と向き合った。
ファーティマは、ふぅ、と大きく息を吐き出すとともに、
「今後、アスワドがアケメネス女王国の領地内に足を踏み入れることを禁じる。もし、これらが破られた場合は処刑も辞さないものとする、と。……以上がお父様を殺害したアスワドの処罰になりました」
はぁ!? と驚きの声を上げたファルザードが両眼を瞠る。
「実に下らなさすぎる。伯母上の決定は……。罪人であるあいつをそのまま放置した上でのうのうと生かし続けるとは……。お前はそれで納得したのか?」
「えぇ、私は、アスワドを失いたくないんだもの」
「そうかよ。伯母上と二人で結託したという訳か」
身を翻したファルザードは、数歩の距離を移動した後で、再び、身支度を再開させる。
「お兄さん、それは違います。僕も含めた三人で下した決断です」
「……なんで、アスワドを庇うような真似をする? あいつにそこまでする価値があるとでも言うのか?」
兄が目の端でこちらをちらりと見遣ったのも数秒の出来事であり、
……私の気持ちが通じていない……。
愕然としている自分を余所に、
「お兄さんのアスワドを憎む気持ちは十二分に分かりました。僕達の方も『彼を赦してほしい』とは願っていません。ただ、彼が死ねば、貴方がアフマド様を失った時と同じように喪失感や悲しみを抱く者達がいるという事実を心に留めて欲しいのです」
「…………実にくだらない」
と、嫌悪の色を露わにした声色で吐き捨てたファルザードは、一呼吸の間があってから、
「父上の敵討ちはどうするつもりだ?」
「しないわ。だって、彼を死ねば、お父様が生き返ったりはしないし、それで私達の憎しみがそう簡単に無くなるって訳じゃないもの。だから、アスワド自身がこれから『自分にとってこれが罪滅ぼしとなるだろう』ということを生きて考え抜いてほしい、と。そんな風に思っているわ」
「なるほどな。二人とも、俺があいつに復讐しないように説得を試みたわけか。残念だが、俺の気持ちは変わらないぞ」
一歩も譲らないお兄様の主張に、そんなことを言わないで、という単語が桜色の唇から零れ落ちるとともに、
「お兄様、アスワドがどうして、お父様を殺害してしまったのか。その理由を聞いてもらえれば……」
説得しようとする必死さゆえに、言わないでおこうとしていたことまで、喋ってしまっていた。
「今更、そんなことを聞いた所で、アスワドへの憎しみが和らぐことは二度とないんだよ。悪いな」
だが、それも、話している途中で遮られてしまった。
「親友同士なのに、どうして、そういうことを言うのよ」
「間違えているぞ、ファーティマ。親友同士じゃねぇ、親友だったってのが正解だよ。……よし、これで片付けた」
と、ファルザードが言った直後に、背嚢の結び口が閉まる小さな音が部屋中に響いてきた。
兄である男性は全身で振り返り、背嚢を担ぎ上げると、そのまま、前進し続ける。
そして、
「この話は、アスワドには伝えてあるんですか?」
ファーティマとレザーの間を通り抜けようとした瞬間に、少年の方向に顔を動かしたお兄様が問いの言葉を口にする。
「いえ、まだですが……」
「それなら、この話、俺からあいつに伝えても宜しいですか?」
「えっ?」
別にそれは良いですけど……、と肯定するように囁き、微かに両眼を瞠っていたレザーであり、そうですか、という一言を述べたファルザードは、今度は、こちらに振り向くとともに、
「……ファーティマ、そんな心配そうな顔をしなくていい。別に今からアスワドに復讐しにいこうとは思ってないし、きちんと昨日の勝負の行方は覚えているから安心しろ。ただ、最後の別れを告げるだけだ。俺と伯母上は、今日、出発するわけだからな」
さらりと、そう告げてみせた。
「……分かったわ」
「それじゃあ、行ってくる」
ファルザードは、滞在していた時に使用していた部屋から出て行き、ファーティマは、ただただ、呆然とした眼差しで精悍な顔立ちの青年の後ろ姿を見送るのであった。
●
蒼天の空を形が不確かな雲の一群が流れている。
商業都市リヤード、南西地区一帯を走っている男性達。その最後尾の列には、負傷の身でありながら、訓練に参加しているアスワドの姿があった。
一定の調子で、はぁ、とも、ふぅ、と云った荒い呼吸音が彼らの口々からこぼれていた。
今現在、ランニングしている護衛官達は、ジャバードが住んでいる邸宅の正門を視認できる距離に近付いた矢先に、先頭の列の方から、
「あれは、誰だ?」
「ファーティマ様の兄君らしいぞ」
「そのお兄さんが何故、こんな所にいるんだ?」
「さぁ? 誰か知っているか?」
「あっ……、そういえば、アスワドと知り合いみたいなことを言っていたぞ」
と、云った声々が自分の耳にも届いており、
……ファルザード? 何ごとだろうか?
思わず、眉根にしわを寄せていたが、答えは、約十秒が過ぎ去った頃に判明した。
正門の右側の柱に、己の背中を預けて、若干、俯き加減に両腕を組んでいるファルザードの姿を認識する。
??? と疑問符を浮かべつつも、護衛官達は、正門を通り過ぎ、邸宅の敷地内に入り続ける。
自分もまた、彼らと同様に、親友だった青年の正面を通り過ぎようとした瞬間に、アスワド、と呼びかけられる。
歩みを止めたアスワドは、振り向くと、彼と視線が交差しあい、
「どうしたんだ? お前の方から俺に話しかけるなんて……」
「ちょっと、貴様に話がある。少し、良いか?」
……話って、何だ???
「ん? アスワド君、そんな所で立ち止まったりして、どうしたんだい?」
正門と邸宅の境界線上に左右の足を踏み入れていたシャーヒーンが少し上半身を反らして、顔を覗かせる形で話しかけてきた。
「シャーヒーン、俺は、ファルザード……様と話があるから、先に行っててくれ」
「んー、分かった。先に行っているよ」
一度、アスワドとファルザードを交互に見てから、そう呟いたシャーヒーンは、邸宅の敷地内部へと完全に入り、その姿が見えなくなる。
ふぅ、と一息を入れた後ろ髪を縛っている青年は、瑠璃色の瞳を動かして、目の前にいる相手に焦点を移すとともに、
「お前の話というのは、一体、何なんだ?」
「そう、警戒するな。……貴様の処遇について、伯母上から判断が下されたぞ」
「ついに、決まったか」
一瞬の間、目蓋を閉じたアスワドは、囁くとともに、
「それで、女王陛下はなんと仰っているんだ?」
瑠璃色の双眸を開き、正面にいる精悍な顔立ちの青年を見据えながら、言った。
「お前は、今後、アケメネス女王国の領地に足を踏み入れることが許されない。もし、破れば、処刑される、とのことだ。分かったな?」
……そうか。俺は、もう、あの地に帰れないのか。
「あぁ。それと、レザー様とファーティマに感謝するんだな」
「どういう意味だ?」
「さっき、あの二人の口から俺に女王陛下の決断を告げられた後で、貴様を殺さず、許すように説得しにきた」
「あの二人が……??? そうだったのか」
一度、んっんっ、と咳払いしたファルザードは、上下の唇を開き、言葉を紡ぎ出す。
「俺は、今日、ここを発つ。だから、これで会うのは最後になるだろうから、一つだけ、言っとおくぞ。昨夜の勝負には負けたから、今回だけは、貴様を見逃そう。何も、ファーティマ達にほだされたからじゃないことは、覚えとけ。俺には、貴様を許すつもりは絶対に無いからな。これから先もずっと……な」
「あぁ、分かってるよ」
「……それなら良い」
と、素っ気無く呟いたファルザードは、その後で、あー、とか、えっーとだな、と曖昧な単語を口にしており、何かを言おうとしている様子に、こちらは小首を傾げていると、
「マフナーズがじきに帰国することは知っているか?」
真剣な表情を露わにしたファルザードから、唐突に尋ねられる。
「そうみたいだな。それがどうした?」
「あー、なんというか、だな。ファーティマは親交を結んでいる者達がいない環境の中で、これから過ごすことになる。だから、その、貴様を許そうとしない人間がこんなことを言うのは、かなり身勝手だってのは十二分に分かっている。だけど、それを承知の上で頼む。妹がこの国で不自由なく暮らせるように気にかけてやってほしい。知り合いが一人でもいるのといないのとでは大分違うと思うから、どうか、頼む!!」
両手を合わせ、己の鼻先で掲げてみせている彼の必死さが伝わり、ぷっ、と拭き出した直後に、あはは、という笑い声を上げるとともに、
「本当に、何処までも身勝手なお願いだよな。相も変わらず、妹思いの所はこれっぽっちも直っていないじゃないか?」
と、幼馴染みの青年をからかうように、言葉を発した。
「相も変わらずで悪かったな!? それに、兄が妹の心配をして何が悪い。当たり前のことじゃないか!!」
両手を下ろし、声を荒げるファルザードに、
「そうだな、ぜんぜん悪くないさ。お前の気持ちは分かった。俺が出来る範囲内で、ファーティマが不自由ない生活が送れるようにサポートしよう。それで良いんだろ?」
「……俺の用件はこれで終わりだ」
「それじゃあ、戻ろうぜ」
あぁ、と返事した目付きが鋭い青年と一緒に、邸宅の敷地内に戻るアスワドであった。
●
三時間後。
王子の叔父が住んでいる邸宅内に設けられた表玄関には、ファーティマ、アスワド、レザーの視線の先には、出発の身支度を終えたアフタルとマフナーズの二人がいる。
「見送りに行くことが出来なくて、申し訳ありません。道中、どうか気をつけてください、と。叔父さんが言ってました」
レザーの言葉に反応したのは、アフタルであり、
「そうなの、あたしの方こそ、ジャバード様によろしく、と伝えといてね。レザー君」
「分かりました」
生憎、ジャバードは、リヤードの提督としての仕事の為に家を空けていた。
「そういえば、お兄様は、もう、馬車の中にいるの?」
「馬車の用意が出来たら、すぐに乗っていたわ。別れの挨拶は済んだ?」
「うん、済んだわ」
……ここにいないということは、アスワドと鉢合わせしないようにしたのかしら? いえ、考えすぎよね。それは……。
微苦笑した自分は、次に、マフナーズを見遣ると、
「マフナーズまで居なくなると、寂しくなるわね」
長い黒髪の少女の発言を聞いたマフナーズは、己の目尻に溜めている涙を拭う動作に移り、
「お嬢様、本当に宜しいのですか? あたしはまだ、残っても平気なのですよ?」
「私は大丈夫。それに、一人で帰るより、叔母様と帰った方が安全でしょ? だから、安心して、アケメネスに戻って良いわよ。家族との時間を大切にしてね?」
お嬢様、と囁いたマフナーズは、感極まった表情になり、そのまま、ファーティマを抱き締め、自分の耳元近くで、話しかけてきた。
「どうかお元気で……。お嬢様がこちらでの日々を無病息災で過ごせますように、アケメネスから祈っております」
長年、自分を支えてくれている女性に対して、ありがとう、と感謝の言葉を告げて、彼女の背中を優しく叩いた。
満足した面持ちで抱擁を止めたマフナーズは、、二、三歩と後退する。その代わりに、アフタルが前に出て、互いの視線が行き交う。
「ファーティマ、愛してるわ」
「……うん。叔母様、私も愛してる。たくさん手紙を書くわね」
楽しみにしてる、と一言を返した女王陛下は、今度は、瑠璃色の双眸をアスワドの方に向けるとともに、
「アスワド君。ちょっと、良いかしら?」
「女王陛下、何でしょうか?」
「ファーティマのことを頼んだわよ」
「俺、ですか?」
アスワドは己の顔を指差ししながら、驚きの声を零した。
「そうよ。他に誰がいると思っているのよ? レザー君以外に頼めるひとがアスワド君しかいないもの」
「そうですね、女王陛下」
アフタルの発言を聞いたマフナーズは、頷き、満足そうに返答した。
幼馴染みの青年は、二人の間を忙しなく己の視線を動かし、
「はぁ、そうですか……」
どこか、納得していない面持ちで曖昧な返事を行い、頭を掻きだした。
「なんで、二人とも俺に頼むのだろうな。こんな大切なことを……」
「何か言ったかしら?」
「いえ、なんでもないです。女王陛下の言葉に従いますよ」
「ふふっ……、お願いするわねぇ~~~」
項垂れるように両肩を下ろしたアスワドの様子を横目で見ていたファーティマは、口の端を吊り上げ、微苦笑の形に変化させる。
「……あのさ、ファーティマ」
後ろ髪を束ねている青年がこちらに歩み寄ると、小声で話しかけてきた。
「何?」
「女王陛下は、三年前の時よりもパワフルになっていないか? 色々と……」
「そう? いつもと変わらないと思うけど……。ただ、そうね。貴方が叔母様に会うのって三年ぶりだったものね。それゃあ、久しぶりだから振り回されるわよね」
「なんだか、楽しそうだな。お前……」
……だって、アスワドがうろたえている所がなんだか可笑しいんだもの。
正直に答える訳にもいかず、一息を入れてから、
「そう見える?」
笑いを噛み殺した声音で言い、首を捻り、とぼけてみせる。
青年から無言の抗議を受けるも、そのまま、気が付かない振りをした。
「まぁ、良い。女王陛下、マフナーズさん、俺は、この辺で失礼致します」
「あら、そうなの? もう少しゆっくりしていけば良いじゃない?」
「そうだよ、アスワド」
「今日、女王陛下達が帰国するっていう話を聞いて、ほんの少しの時間を貰ってここに来ただけですから、本来の職務を蔑ろにする訳にはいきません」
「相変わらず、真面目さんだねぇ」
「頭が固すぎるのも問題よね、叔母様」
「そういう所があるよね、アスワドって……」
意気投合するアフタル、ファーティマ、レザーの三人と、ふふっ……、と笑い声を上げるマフナーズだった。
そこで、んっんっ、と大きく咳払いしたアスワドは、こちらに顔を向けると、
「ファーティマの方も旅支度しなきゃいけないんじゃないか? 俺達も明日が出発日なんだから」
「アスワドに心配されなくても、ちゃんとやってるわよ」
不満の意思表示に、両頬を膨らませて、唇を尖らした。
「それなら良いさ」
笑みを浮かべたアスワドは、ファーティマの頭に己の右手を置き、優しく撫でられる。
「いい加減に、私を子供扱いするの止めてよね!!」
と、声を大にする。
「……おぅ、別に子供扱いしているつもりは無かったんだがな」
己の左頬を掻き、苦笑交じりに呟いたアスワドは、一息をつき、
「そうだよな、お前はもう、十六歳だもんな。悪かった」
「わ、分かれば良いのよ。それよりも早く、その右手を放してくれない? 皆が見ているじゃない」
周囲をさり気なく流し見ていた少女は、知己を得ている者達が微笑ましそうな表情で己の視線を自分達に向けており、そのことに対するむず痒さを覚えていた。
はいよ、と言ったアスワドは、右手を退ける。その動作を凝視していたファーティマは、二、三秒後に、はっ、となる。
……何を名残惜しそうに見ているの、私は……!?
顔が紅潮していないことを祈りながら、
「ほら、早く、自分の仕事に戻りなさいよ」
ふっ、と微苦笑の吐息を漏らした彼は、アフタル達の方に振り向き、
「それじゃあ、お二人とも、俺はこの辺で失礼致します」
「はい、はーい」
「お嬢様のこと、どうか頼みます。アスワド君」
「…………はい。では、俺は行きますので」
右足を前に踏み込み、アフタル達の間を通り過ぎ、この場から立ち去るアスワドであった。
「そろそろ、あたし達も行きましょうか。マフナーズ」
「えぇ、女王陛下」
「それじゃあね、叔母様、マフナーズ」
「お二人とも、道中をお気をつけてください」
アフタルとマフナーズに別れの挨拶を済ませると、二人の女性は踵を返すとともに、外で待機している馬車がある地点へと歩き出していく。
彼女達の後ろ姿を見送っている最中に、
「さてと、私達も明日の準備しましょうか」
「そうだね」
ファーティマは、レザーと一緒に、各々が泊まっている部屋に戻る。




