白い世界から 月の畔で
戦争・孤児・殺人の描写を含みます。
不得手な方は、此処で引き返してください。
決して グロくは書いていないつもりですが、苦手に感じたら、すぐに引き返す事を推奨致します。
また『話なげーよ、メンドクセェ』と感じた方も、不快をもよおす前に戻る事を お薦めします。
常用漢字ではない漢字の使用が多々あります。
誤字・脱字と共に、広い心で お赦しください。
12月24日-朝。
最前線から助け出されたシュリが 最初に搬び込まれたのは、前線に程近い 野戦病院だった。
たった独りの生存者は、かなり衰弱した状態であったが 大した治療はされなかった。
敵兵に刺された 彼の脇腹の傷は、浅くない。
背中へ貫通しかける程、深く刺されていた。
それが、野戦病院で シュリの処置に当たった医者も 眼を瞠る程、綺麗に塞がっていた。
傷口の幅や 刃物の形状からみても、出血は かなりあった筈だ。
実際に、シュリの躯にも 衣服にも、座っていた地面にも 血の跡があった。
それが、輸血の必要もない状態だった。
間違いなく深手を負っていた脇腹は、跡こそ生々しくとも 傷-自体は塞がっていたのだ。
初期の出血が響いて 憔悴はしているものの、彼が生命を拾ったのは、その お陰でもあった。
総じて、シュリは 生命に別状のない状態だった。
雪の中にいたと云うのに 凍傷もなく、どう云う訳か 顔色も悪くはない。
これに 首を傾げている医者に 傷痕の消毒-程度の処置をされた後、シュリは 本国のあるヴェルツブリュン州へ搬送されている。
更に 大きな病院で検査•治療の後、シュリは アルドフレイ家の別荘で 療養に入った。
「ご気分は如何ですか?」
掛けられた声で、シュリは 窓の外へ向けていた眼を 部屋の入口へ巡らせた。
紅茶と共に 朝食を搬んで来た者は、アルドフレイ家に仕える執事の1人だった。
歳の頃にして 30代半ばだろう。
執事服に包まれた体は 痩身にして優美だが、脆弱さはない。
ぴんと伸ばされた背筋も 滑らかな動きも、貴族の執事として 申し分ない。
優しい眼差しに 柔らかい物腰、美丈夫と云える顔立ちをしている。
黒髪を 肩まで伸ばしている彼は、小さめな眼鏡越しに、シュリを見詰めている。
唯一っ 難癖を付けるとすれば、左こめかみの 古い刀傷くらいだろうか。
執事らしからぬ傷を隠す為に、普段から 髪は少し長めにしている。
名を ゼーレンと云い、シュリ-付きの執事だった。
「昨夜は 大変だったな」
唐突な言葉に、紅茶を淹れていたゼーレンの手が 一瞬だけ止まる。
「お気付きでしたか」
苦笑いに近い はにかみ方で、ゼーレンは 小さく微笑んだ。
帝国の中心地-ヴェルツブリュン州と呼ばれる小大陸の南東に、ヴェルツェルと云う街がある。
この街は、小さくはないが 大きくもない。
自然が豊かで 農耕を中心産業とする、地方都市だ。
その東には〔月ノ舟〕と云う称の 美しい湖が、清水を湛えている。
アルドフレイ家の別荘は、この畔に建てられていた。
昨夜、この館の敷地内に 侵入者があったのだ。
郊外に建つ この館の周りには、他の建物がない。
例外は 侭あるが、近隣の街の者達でも 滅多に立ち入らない。
この辺りの森が、古くからアルドフレイ家の管理する狩猟場であった所以だ。
その為、豊富な自然と 数多くの動物と 貴重な薬草が、アルドフレイ家の手で護られてきた。
代わりに、時折 密猟者や 盗賊などが出没する事はあった。
しかし、昨夜の侵入者達は、窃盗を目的として やって来た賊徒ではなかった。
陽暮れから 湖の辺りに潜んでいた者達は、夜半を待って 行動を開始した。
何派かに分かれ、森の中を 敷地へと近付いて来た。
晣らかに、密猟者や盗賊の動きではない。
何年も厳しく訓練をされた者達の身の熟しだった。
撃退にあたったのは、ゼーレンだった。
2方向から 3派に分かれて進行する16人もの侵入者を、敷地に入られる前に 一掃した。
先行していた数名が 森と敷地との境界としている生け垣へ進む内に、最後方の3人は 骸となっていた。
静かに肉薄するゼーレンの動きに気付く事なく、彼等は 下草の上に斃れていった。
執事に因る 密やかな暗躍は、夜鳥の鳴き声を乱す事もない。
しかし、幾ら静かでも 限りはある。
「静かにしたつもりだったのですが」
言葉の通り、ゼーレンは 静かだった。
声を発てないのは 当然だとしても、彼は、息も乱さず 標的を刺殺する。
其処には、物音も 殺気もない。
機械的で、無駄のない動きである。
だが、これを迎え討つ側は そうもいかなかった。
「奴等の殺気は 隠しようもないからな」
侵入者だって、練磨された者達である。
向かって来たのが チンピラ程度ならば、殺気など 発てはしなかったろう。
しかし、相手が 自分達-以上の手練れともなれば、殺気を隠していられるものではない。
ゼーレンとしても、密やかに忍び寄り 一気に片を付けるほうが 都合は良い。
8〜9人が相手なら、誰一人に気付かれる事なく 斃す事が可能である。
だが、数が多くては 同じ様に事は搬ばない。
さっきまでいた筈の仲間の姿が消えた となれば、まず 敵の襲撃を疑うものだ。
一気に警戒した軀は、どうしても 強い殺気を纏ってしまう。
これが、森から離れた中庭に面する部屋で療養中の シュリに気付かれたのだ。
「確かに」
くすり と、ゼーレンが笑った。
侵入者達は、己れへ襲い掛かってくる者の姿を捜さんとした。
各自-立ち止まり、周囲を見回した。
そうして、ほんの僅か 動きを乱した途端、容赦なく殺される。
全員が、敵の姿を黙認する事も叶わず 一撃の下に斃された。
執事は、たった独りで16人もの侵入者を始末したのだ。
役目を終えたゼーレンのほうは、返り血さえも浴びていない。
更に 働き者の彼は、その夜の内に、16もの屍体を含める 全ての痕跡を 丹念に消し去っている。
「今度は、もう少し巧くやるとしましょう」
シュリの手許へ ティーカップを差し出しながら、ふと こう切り出した。
「まだ、思い出しませんか?」
ゼーレンからの問いに、ベッドの上の者は 微かに眉を寄せた。
これを眼の端に捉え、執事は 密やかに息をつく。
あの戦線で 何が起きていたのか。
或る程度の事ならば、シュリは 把握していた。
軍務に就いて 暫く、シュリは『国としては表沙汰に出来ない任務』を担当する部門に在籍していた。
幼少の頃より培われた『特殊な武芸』が買われたのだ。
そして、彼は 上層部の要望-以上に この任を熟した。
とんとん拍子に出世もしたが、それが元で 一部の者の反感を買い、過酷な最前線への任務に充てられる。
送り込まれた先にいたのが、ロズベルク司令官だ。
前線を仕切るロズベルクは、当然、策謀者の意を汲んでいる者だ。
シュリの部隊が全滅すると判っていて、増援を差し向ける事はしない。
基、初めから出す気がなかった。
彼は、異動してきたシュリ達を 最前線へ配置した。
そもそも、シュリは、彼の出世を嫉む者の策略で 戦地に送り込まれたのだ。
シュリも 彼の部隊の者達も、周囲の意図には気付いていた。
ロズベルク司令官の意の侭に、彼等は 戦場に立つ事にした。
その上で、全員で必ず生きて帰ろう と誓い合っている。
奴の思惑を外してやろう、と 臨んだのだ。
勿論、そう出来るだけの腕が シュリ達にはあった。
事実、彼等は、激戦区で3ヶ月を耐え抜いている。
そればかりか、不利だった戦局を覆す程の戦果を挙げる事さえあった。
これは、死地に立たせた側としては 思わぬ誤算である。
最前線の戦局が有利になれば なる程、司令官は 焦りを覚えていた。
体良く死なせるつもりだった者達が、いつまでの生存しているせいだ。
このままでは、全滅しないどころか、全員が 無事に生還しかねない。
そうなれば、今度は 己れの身が危うい。
生還したシュリ達が 自分を赦す筈がない、と 判っている為である。
だが、激戦区に放り込んだだけでは 戦死しそうもない。
マズいと思ったのか、ロズベルクは 食糧などの救援物資の搬送を 故意に遅らせ始めた。
しかし、そんな小狡い画策をしても、シュリの部隊は 1人も欠ける事がなかった。
こうなってくると、恐怖を覚えざるを得ない。
最終的に、ロズベルクは 信じられない行動に出た。
あの日、夜明け前に 敵襲があった。
シュリの部隊が野営をする地は、森の中にあった。
捜索しながら 敵に傍を通られても それと判らぬよう、完璧なカモフラージュが成されていた。
当然、敵陣への警戒も怠ってはいない。
見張りがいなかったのは、ほんの僅かな一郭だけだった。
其処を 的確に衝いて、敵は現れた。
唐突な襲撃だ。
予期せぬ事ではあったが、シュリ達は 何とか攻撃の第一波を躱し、森の奥へと逃げ延びる。
彼等は、負傷した仲間を庇いつつ、それでも 部隊は勇猛果敢に闘った。
しかし、相手は 完全武装の一個師団だ。
それに引き換え、シュリの部隊は 軽装備である。
襲撃を警戒してはいたものの、野営地にいた状態だった事もあり、咄嗟に持ち出せたのは 最低限の装備と云わざるを得ない。
そして、初段階での負傷者がいる状態だ。
向かって来る敵を シュリが魔法で牽制しながら、部隊を 森の奥へ逃すしかなかった。
そんな闘い方が 何時間も続く内に、1人 2人と、部下が斃れて逝く。
絶望的な中でも シュリは先頭に立って戦い、最後は 部下を庇って深手を負った。
そのまま、軍の援けもなく 10日間も放置されたのだ。
「10日間、雪の中にいた貴方が弱っていたのは 当然です。でも、それは『傷が塞がっていた』理由にはなりません」
脇腹の傷は、深さからして 放っておいて治るものではなかった。
しかし、傷は 医術-以外の力で塞がっている。
出血も酷かったのに、助けられた時には 失血したとは思えない程 快復していた。
あの状態、あの状況のシュリに起こり得る事ではなかった。
ゼーレンの疑問も、当然の事だろう。
「治癒系に属する能力は、かなり特殊なものです。サンクワール教会の司祭達であっても、皆が具えるものではありません。〔能力者〕を多く有する帝国軍でさえ、治癒能力がある者は僅か。それも、微々たるものでしょう。第一、貴方の部隊には〔能力者〕自体がいなかった…… 」
ゼーレンは、尤もな意見を述べながら、シュリの表情を窺っていた。
この世界には『魔法』と呼ぶべき 特殊な能力が存在する。
種類や 力の特色や 強弱はあれど、特殊なものである。
力の種類は、大きく分けて 攻撃•防禦•呪詛•幻惑•操作•治癒とされている。
この内で、治癒は とても希少で貴重な能力と云えた。
その治癒能力でしか有り得ない現象が、治癒能力を具えない シュリの身に起きたのだ。
発見された時点で、傷は 塞がっていた。
それと同時に、失った血液までもが増幅し 快復していた。
こんな事は、自然に起こり得ない。
更に、気になる事がある。
最前線で大怪我をした彼は、10日後 助け出された時には 容姿の特徴が大きく変貌していた。
夜闇の様に黒かった髪は、僅かに紫がかった銀髪になっていた。
これについては 瀕死の状態が長かったせいだろう、と 周囲は納得していた。
侭ある事だからだ。
しかし、劇的に変わってしまったのは 髪の色だけではない。
元々 シュリの眼は、何色か判らない程 暗い色をしていた。
それが、救助された時には 宝石の様に美しい紫色になっていたのだ。
あれ程の傷の治癒も含め、疑問に感じるところである。
「何があったか、本当に判らないのですか?」
ゼーレンの問いに、シュリは 再び表情を渋くさせる。
傷や寒さのせいもあり、ずっと意識を保つ事は出来なかった。
しかし、何も憶えていない訳ではない。
仲間を失った あの戦闘も、傷付き 凭れた大木の場所も、記憶にある。
勿論、その後の出来事も 忘れてはいない。
だが、話しても良いものかは 迷われた。
あれが、瀕死の中で視た幻であれ 現世に存在する者であれ、不自然な存在に変わりはない。
寧ろ『幻だった』と言われたほうが しっくりくる程である。
ベッドの上で上体を起こし ティーカップを手にしたまま、シュリは 黙して考え込む。
「何か、憶えておいでですね?」
紅茶のカップを手にしたままでいる シュリの顔色を読んで、ゼーレンが ずいと身を近付けた。
「お話しください」
聴くまでは引き下がらない、と云う態度だ。
こうなると、ゼーレンは 本当に執拗で 諦めない。
正直に 全てを話すには 迷いもあるが、下手に嘘などつくのも 得策ではない。
長い付き合いだからこそ、誤魔化しが効かない相手なのだ。
どちらにせよ、もう 話すしかなさそうだった。
シュリは、憶えている限りの事を 記憶の通りに話す事にした。
同日-10時過ぎ。
全てを聴いた後、ゼーレンは 難しい顔になっていた。
眉を寄せ、険しい表情で 沈思している。
「 ーーーーーー……… 」
2日前、大病院での検査を終えたシュリの許へ 軍の者が来た。
たった独りの生存者だ、特に 可妙しな話ではない。
調査部や 情報部が聴取に来るのは、通例だ。
しかし、この時 現れたのは、そう云ったレベルの相手ではなかった。
このヴェルツブリュン州にある 帝国軍の総本部は、ホーブルク要塞と呼ばれている。
其処を預かり 纏め上げるラトウィッジは、帝国軍内にいる4人の司令官の内の1人だ。
そんな人物が 直々に見舞いに出向いて来るなど、有り得る事ではない。
確かに、生還したのは シュリだけだ。
前線での様子を知るにも 全滅に至った顛末を聴こうにも、シュリの口からしか得られない。
だが、それは 司令官が来た理由にはならないだろう。
ラトウィッジの訪問には、もっと 重要な趣旨があった筈である。
病院でもシュリに付き添っていたゼーレンは、突然 現れた この司令官に強い違和感を懐いていた。
しかし、今の話を合わせて考えれば、見舞いがてら現れたラトウィッジの行動に 意味が通る。
「成程」
思わず、ゼーレンは そう呟いていた。
確かに、シュリが助かった状況には 謎がある。
10日もの間、重傷を負い 風雪の中に放置されていたのだ。
生きていただけでも奇蹟だと云うのに、受けた傷は塞がっている。
更に、顔色までも良くなっていたのである。
疑問に思われるのも、無理はなかった。
「救助が向かう前に、シュリ様を治しただろう〔能力者〕を 捜す為…… 」
「治療された憶えはない、が…… 」
シュリは、すっかり冷めた紅茶を一口飲んで 小さく息をついた。
思い当たる節は、例の少女だった。
傍らへ来た様子もなかったが、あの場所には 他の知的生命体がいた憶えもない。
シュリに何か出来たとすれば、やはり 謎の少女だけと云う事になる。
これを聴いて、ゼーレンは 深く溜息を零した。
シュリを助けてくれた者は、それが何者であれ アルドフレイ家の恩人だ。
捜し出して 館に招き、丁重に持て成したい相手である。
だが、軍が捜しているとなれば、話は ややこしくなる。
貴重な〔能力者〕の確保を目的として 軍が乗り出したなら、一貴族の申し出など 通る筈もない。
けんもほろろに あしらわれて、少女は 軍の能力開発施設に容れられてしまう。
其処に収容されれば、もう 会う事は叶わない。
そうなれば、大恩を仇で返す事になる。
シュリも、同じ事を考えたのだろう。
突然の訪問者に『一切 記憶にない』の一点張りだった。
「 ーーーーーーこれは、関係ないのかもしれませんが…… 」
前置きをして、ゼーレンが語り出した。
「ジョシュが、妙な事を申しておりました」
ジョシュと云う男は、シュリを助けに来た小班の長だ。
彼は、最前線にいるシュリからの 7日に1度の定期連絡が途絶えた事で、シュリの部隊の危機を察知した。
即座に 小班を率い、音信不通となったシュリの部隊を捜索•救助に来てくれた人物だった。
これは ヴェルデシュタイン州-攻略担当の前線司令官-ロズベルクの指示を仰がずに、の行動だ。
この奇特な帝国軍人-ジョシュ中尉は、実は ゼーレンの腹違いの弟である。
シュリが軍人になる前から軍務に就いていた 彼の素性を知る者は、少ない。
随って、シュリとの繋がりを 軍は知る由もなかった。
ジョシュは バレる事なく、最前線と前線司令部とを繋ぐ パイプラインの任に就いた。
勿論、シュリが前線に派遣された後の志願である。
伝令や物資を搬ぶ 輜重科の小班長-ジョシュは、シュリを助けに行った地で 不思議なモノを眼にした。
敵•味方-入り混じった屍体が雪に埋もれる中、かまくらが 1っ作造られていた。
大木の根許を包む様に、直径5メートルもの大きさの、分厚い雪のドームがあったのだ。
「ジョシュは、シュリ様が造られたのだと思ったそうです」
強い風雪から身を護る為に シュリ-躬らが創作したのだろう、と 発見した時は考えていた。
「ですが、今の お話からしますと…… 」
「ああ、俺じゃない」
部下を庇い 刺された時点で、かなりの深手だった。
間髪を入れず 自分を刺した敵を殺したが、直後には姿勢を崩し 真面に立っていられなくなる程の傷である。
とても、障壁を張れる状態ではなかった。
そして、仲間が作ったモノでもない。
彼の部下達は、深手のシュリを護らんとする。
最後の1人まで果敢に闘い、敵と共に死んだ。
シュリよりも先に 死出の旅へ着いている部下に、雪のドームなど造れはしない。
静まり返った中、大木に凭れていたシュリは 雪が降っていたのを見ている。
1度の失った意識が戻った時の事は、はっきりとしない。
あの孤独な世界に 少女が現れた時、周囲が どうなっていたか、と云う事には 憶えがなかった。
天候などの印象が、全くないのだ。
雪が降っていた と云う記憶はないが、降っていなかった とも云い切れない。
だが、更に後の 強風の音を耳にした時には、既に ドームが完成していた筈である。
これは、九分九厘 間違いないだろう。
「その少女が、ですか…… 」
唸る様に、ゼーレンが言い零した。
シュリの傷を治せそうな人物も、彼を吹雪から護れそうな人物も、例の少女しかいない。
誰も彼もがいなくなった戦場だ。
他に 心当たりはない。
尤も、あの少女が『実在したならば』の話ではある。
「あの状態だし、俺の記憶も 確かとは言えないが…… 」
戦闘後の 深い森の中に、一般人とは言い難い少女。
戦地だった あの森の、シュリがいた辺りには、血飛沫が 乱雑に踏み荒らされた雪を紅く染め、無造作に 屍体が転がっていた。
雪に埋もれつつあったとしても、周囲の惨劇は 隠し切れていなかった筈だ。
そんな中だと云うのに、少女は、顔色一っ 変えていない。
更に、眼の前で死にかけているシュリを見詰め続けていた様も、一般人とは思えない要因の1っだった。
しんしんと雪が降り頻る中で、何を考えてか、シュリの傍らに 佇み続けた少女だ。
「ヴェルデシュタイン州の、まだ制圧されていない地域の住人……と 云うのは?」
少女が実在していたとするなら、常識的に 最も有力な可能性だった。
しかし、シュリは 肯けずにいた。
シュリの部隊が派遣されていた ヴェルデシュタイン州は、永らく無政府国家である。
現在は その地の利権を巡って、アルカイン帝国と ギレス王国とで争っている真っ最中だ。
このギレス王国と云うのは、他の国々-同様に 州の1っを国家領土とし、それを ラッケンガルド州に置いている。
地図上では、ヴェルツブリュン州の西北西に位置する。
この両国の間に在るのが、ヴェルデシュタイン州だ。
9っの小大陸の中でも、中々に大きな州である。
ギレス王国が治めるラッケンガルド州は、国土の半分が嶮しい山岳と 不毛の乾燥地帯だ。
尚且つ、これと云った資源もない。
そんな国にとって、肥沃で 資源の豊富なヴェルデシュタイン州は 咽から手が出る程 欲しい土地だった。
片や、アルカイン帝国は、現-国土だけで不足もない。
シェーデルン島と ヴェルツブリュン州とを擁するだけに、広さにも資源にも 不服はなかった。
点在する街や村-自体が 其々で小国家群となっている状態のヴェルデシュタイン州の人々とも、良好な関係にあった。
当初、侵略など 必要としていなかった為だ。
しかし、それと同時に、帝国は ギレス王国の様な国が『隣国』となる事を希んでいなかった。
必然的に、両国は対立し 戦争が始まる。
元々 ヴェルデシュタイン州に住んでいた者達にとっては、降って湧いた様な悪夢だろう。
農耕と牧畜を 主な産業とし、慎ましく生きてきたヴェルデシュタイン州には、地図に載らない集落も多い。
交易があったアルカイン帝国にも、把握出来ていない村々は数多ある。
深い森などに点在する村などについては、ヴェルデシュタイン州の人々も 把握し切れていないのが 現実だ。
あの少女が その街や村、その 孰れかの住人である可能性はある。
だが、最も高いのは 戦乱に巻き込まれ、寄る辺を失った民である可能性だろう。
曾ての シュリが そうだった様に、少女も 戦禍を遁れて あの森へ辿り着いたのかもしれない。
たった独り 迷い込んだ森で、シュリを見付けた………この推察のほうが、まだ 説得力がある。
時間感覚を失った10日間だ。
どの時点で 少女が現れたかも判らないし、いつ去ったのかも シュリは知らない。
だが、10日もの時間が経過していたのだ。
ジョシュの率いる部隊が シュリの救助に到達した時、少女が去っていたのは 当然だったろう。
通り過ぎる途中で シュリを見付けた、と云う仮説でも 説明が付く。
しかし、断言出来ない部分もある。
『服装からして、少女は 一般人ではなかった』
この、拭い切れない印象だ。
そして、特殊な存在感が 少女の周りには漂っていた。
「確かに、ただの住民ではないのかもしれません」
ゼーレンが そう呟くのには、幾つかの理由があった。
「雪のドームの事ですが…… 」
一般的に かまくらを造るとなれば、雪を固めながら積み上げる。
もしくは、積み上げた雪の山を 刳り貫いて造るだろう。
手を使うか 道具を用いるかの違いはあれど、概ね そんな遣り方で築かれる。
しかし、シュリの周りにあったモノは、何かの上に雪が降り積もったモノだった。
シュリならば、結界や 障壁を張る事が出来る。
其処に雪が積もれば、同じ様なドームを造るのは容易い。
だが、あの かまくらは、それとも異なっていたらしい。
「どう云う事だ?」
シュリを吹雪から護っていたドームは、氷で出来ていた。
厚さ10センチもの氷が ドーム状にシュリのいた場所を包み、その上に 雪が20センチ以上 積もっていた。
更に、ドーム内にも積もっていただろう雪は 全て溶けており、内部の温度は 春の様だったらしい。
雪と氷のドームの中央、大木の幹を背に、灰色の砂地が露出する地面に座して、シュリは 発見されたのだ。
寒気の中ではあったが、それ程の氷が 自然に出来るとは思えない。
人工的なモノであった事は、疑う余地もなかった。
また、氷には 接ぎ目もない状態だった。
何処からか 氷のブロックを切り出して積み上げたのではない、と 報告されている。
これ等-全てが、魔法を使った証拠でもあった。
「 ーーーーーーまさか…… 」
魔法と云う能力を具える者達の中でも、それは かなりの訓練が必要とされる。
〔天賜〕を持つだけでは叶わない。
〔魔人〕やら〔魔女〕やらと呼ばれている領域に達する者達でなければ、不可能な事だ。
逆に云えば、極一部の訓練され尽くした〔能力者〕にしか出来ない技である。
シュリは、軍に詳細登録されている 帝国-公認の〔魔人〕だ。
彼が造ったと云うなら、何の問題もない。
軍の詮索があっても『自分で造った』と云えば それで済む。
だが、少女の術となると 簡単な話では終わらない。
「もし、彼女が〔魔導士〕ならば…… 」
ゼーレンは、其処で 言葉を切った。
しかし、言いたい事は シュリにも伝わっていた。
ギレス王国が、ヴェルデシュタイン州へ侵略を開始した頃と 今とでは、事情が違う。
当初は、ヴェルデシュタイン州の人々を護る為、ギレス王国の侵攻を防ぐ為と始めた筈が、現在は 目的が異なっている。
帝国軍は、この州を手中に収めんとして 兵を動かしていた。
上層部の人員も その戦争方針も、この10年の間に 大きく変わった為だ。
表向きは 無政府国家-状態にあるヴェルデシュタイン州の人々を 他国の侵略から護る、と されたままだ。
戦争に勝利した暁には『復興の支援』とでも銘打つつもりだろう。
そして、事実上 全土を支配する算段だ。
斯くして、アルカイン帝国は 今、全力で ヴェルデシュタイン州の獲得に奔っている。
それに向けて、7年前に 皇帝令が発せられた。
帝国-国内にいる全ての〔能力者〕を把握する事が 目的だった。
どの様な能力があるのか、どれ程の力があるのか。
それを 緻かく分析し 登録する為に、国中の〔能力者〕が集められた。
彼等は、数日から 数ヶ月もの期間を、軍の施設に軟禁される。
そして、軍事に利用出来ると判断されれば、その場で 帝国軍の特殊能力養成所に籍を置かれる。
シュリも 3ヶ月弱の期間を、様々な検査や試験の為、拘束されていた。
軍のデータバンクには、彼の能力についての克明な記述がある。
余りに若い歳で 特殊部隊へ配属されたのも、彼の能力が 主に攻防に長けていたからだろう。
今更だが、特殊な能力を持つ 全ての者を 纏めて〔能力者〕と括っている。
多くは、微細な破壊や 近日の天気が予知や 木の実を芽吹かせる程度の、瑣々やかなものだ。
それでも、人口の10パーセントに充たない者しか具えていない。
先天的な能力の為、それを持たない者は 幾ら努力しても身に付ける事は不可能だ。
その為、覚醒の如何はあれど 絶対数は少ない。
更に、高度で強い能力を具える〔魔導士〕と呼ばれる者に至っては〔能力者〕の20パーセントしかいない。
〔魔導士〕と云うランクに達する者は、判明した時点で 問答無用に軍籍登録をされる。
これは、データとして記録されるだけではなく、強制的に 帝国軍に籍を置くと云う事だ。
日常生活は これまで通りに行えるが、少々の束縛がある。
こうなれば、本人が希むと 希まずと、有事の際は 軍務へ借り出される。
シュリが冠する〔魔人〕の称号は、その〔魔導士〕の上に位置する。
この〔魔人〕や〔魔女〕は、数いる〔魔導士〕の中の1パーセント未満しかいない。
一般的な家屋を 一撃で吹き飛ばせる以上の破壊、本物と紛うばかりの鮮明な幻影、結界や障壁などの 防禦能力。
または 強力な詛い、或いは 傷や病の治癒を可能とする能力の保持。
この孰れかを具えている者が、冠する事を認可される称号だ。
つまり、少女が 風雪からシュリを護るドームを作った張本人なら、間違いなく このランクだと云う事になる。
「帝国軍が、放っておく筈がない」
ぽつりと、ゼーレンが呟いた。
希少価値のある〔魔人〕級の能力者は、軍としても 利用価値の高い能力である。
特に、今は ヴェルデシュタイン州を巡って交戦中だ。
帝国軍の 欲深き者達が、これを目零す筈がない。
シュリの仕業ではないと知られれば、草の根を分けてでも 捜し出す事だろう。
もしも 見付かれば、強引な手段を使ってでも 帝国へ連行するだろう。
そして、後の事は 考えるまでもない。
「 ……シュリ様?」
じっと考え込んでいるシュリの眼が、拮く細められた。
この緻い変化を、ゼーレンは見遁さなかった。
ゼーレンは、シュリが拾われた時 軍の特殊部隊の一員だった。
シュリを 最初に見付けたのも、実は ゼーレンである。
デュオル=アルドフレイが『助ける』と決定した後、彼に進言して 躬ら護衛係となる事を希んでいる。
表向き、ゼーレンは、負傷に因り退役となった。
そして、新しい就職先として アルドフレイ家の執事に迎えられた、と なっている。
それからは、護衛と共に、主に 戦闘に関する分野での教育を担当してきた人物である。
心の機微が表れ難いシュリだが、執事-兼-護衛として仕えてきた者の眼には 顕著な反応だった。
「捜すおつもりですね?」
ゼーレンの問いにも、ベッドにいる若者は 無反応だ。
しかし、否定しない事が 返答になっていた。
「 ……軍に、残られるのですね?」
少女を軍から護るには、それより先に シュリが捜し出すしかない。
現在のヴェルデシュタイン州は、戦争中の区域だ。
一般の飛行船も 各種-交易船も、今は 止められている。
その為、軍務でもない限り 海溝を渡る許可は降りないのだ。
広範囲を長期に亘って捜し出すには『軍を辞める訳にはいかない』と云う事になる。
「そうなると、幾つか……やっておかなければ、なりませんねぇ」
暢びりとした口調で、ゼーレンが独白した。
帝国軍の一部には、シュリを快く思わない人達がいる。
その者の差金で、シュリの部隊は全滅をし 彼-自身も重傷を負う事になった。
この状況を解消しない限り、安全とは云えない。
少女を捜すにも、まず 彼の身辺を『整理』しなければならない。
「取り急ぎ、整頓しなければならない者が……いますねぇ」
差し当たって、ヴェルデシュタイン州を攻略する為に派遣されている前線司令官と その側近だろう。
勿論、大元は もっと『上の人間』の筈だ。
しかし、それが誰か判明しない 今、やるべきは 目先の安全とも云える。
昨夜の様な事態が起きるくらいだ。
何より、時間を掛けていられない状況である。
まず、ヴェルデシュタイン州の前線司令部にいる 前線司令官達を始末する。
その口から、黒幕を吐かせるほうが 効率が良い。
「まぁ、あの様な人物ですし……きっと、碌な死に方は 出来ないんでしょうねぇ」
物騒な事を 暢びりとした口調で、ゼーレンが呟いた。
彼は、軍にいた頃も 現在も、実に密やかに荒事をなす人物だった。
そっと忍び寄って、優しく息の根を止める。
標的とされた者は、僅かな声もあげずに 死出の旅に着く。
自分が殺されたと判らぬ内に、縡切れるのだ。
荒事が専門の 特殊部隊の者達にも『ゼーレンの特技』と言われる程であった。
そんな人物に狙われたら、何処にいても安全ではない。
どんなに護衛を付けても、生命の保証はない。
ゼーレンの言葉に、ベッドの者は 軽く苦笑した。
「怖い事だな」
シュリには、青年執事の行動が読めていた。
彼は、シュリを護る為に帝国軍を辞め アルドフレイ家の執事にまでなった人物だ。
護るべきシュリが 自由に動けない今、その傍を離れる様な事はしない。
躬ら殺しに行くつもりではないと判る。
そうなると、誰かを動かすと云う事になる。
戦闘区域にいる者の暗殺となる訳だから、それに相応しい人材を活用するのが 最も良い。
この場合、単純に考えれば ジョシュが適任だ。
現在も ロズベルクがいる前線基地に駐屯する彼ならば、司令官の許に忍び寄るのも 容易いからだ。
しかし、問題もある。
命令にない行動で、シュリを助けに赴いたのだ。
ロズベルクを肇めとする 司令官の側近達には、目を付けられている筈だ。
殺すだけならば出来ても、後々に 誰かに疑われる行動は慎みたい。
そして、シュリとの繋がりがバレる様な行動も 控えたい。
そうなると、別の人物を送り込むしかなかった。
「 ………… 」
シュリは、ゆっくりと紅茶を飲み 朝食へ手を伸ばした。
すっかり 朝食ではない時間になってしまったが、彼は こう云った事を気にしない。
執事も それが判っているから、食事を取り換えるなどしない。
食べ物を粗末にすると云う事を、アルドフレイ家の者達はしないのだ。
そんなゼーレンが用意してきたのは、軽食と云えるものだった。
生クリームを添えた ヨーグルトケーキと、フルーツの盛り合わせである。
そもそも、話が長くなると予期していたのだろう。
冷める心配のないメニューだった。
シュリは、ヨーグルトケーキを 1っ手に取った。
塞がっているとは云え、脇腹を 深く抉る様に刺されたのだ。
食事は、内臓に負担が懸からないものを、との配慮だろう。
「如何しますか?」
唐突な ゼーレンの質問だが、シュリは 尋ねられた内容が判っていた。
「任せる」
そう短く答えてから、付け加える様に呟く。
「俺が始末を付ければ、足が付く。部下達には 済まないが、今は 自重するしかない」
シュリだって、殺そうと思えば 出来なくはない。
誰にも気付かれず この屋敷を抜け出し、誰にも見付からず ヴェルデシュタイン州へ渡る事も、不可能ではない。
心境的には、今すぐにでも赴いて、ロズベルク達を 躬らの手で縊り殺したかった。
自分を慕い 最期まで附いて来てくれた部下達の末路を思えば、何度 殺しても殺し足りないくらいだった。
しかし、現在 シュリには監視の眼が張り付いている。
暗殺を警戒し 別荘に篭って尚、刺客達を向けられた程だ。
短時間の外出は誤魔化せても、ヴェルデシュタイン州への往復は 厳しいものがある。
帝国軍の者が来て 面会を求められれば、これを拒むなど不可能だ。
その折、シュリが不在と知れれば、そして、そんな時に ロズベルク達の訃報が伝えられる様な事があれば、事態は アルドフレイ家にも及ぶだろう。
それを考えると、動く訳にはいかなかった。
「宜しいのですか?」
再び、ゼーレンが尋ねた。
危険は高いが、やろうと思えば 殺しに行く事は可能だった。
その手配も 多少の小細工も、ゼーレンには出来る。
シュリの性格を考えれば、部下の無念は 己れの手で晴らしたい筈だ。
それが判っているからこそ、ゼーレンは 最終質問をした。
「任せた」
先程と同じ言葉で、シュリが返した。
手法や 時期に至るまで、全てを一任しての言葉だった。
「畏まりました」
これ以上は、質問を繰り返すほうが 野暮と云うものだ。
ゼーレンは、深々と 丁寧な礼をとった。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
同日-11時過ぎ。
シュリの部屋を辞した後、ゼーレンは、長い廊下を歩きながら 思案を巡らせていた。
シュリが話してくれた情報と、話を聴く前に集めていた情報とを、頭の中で精査する。
何度 考えても、可能性は 1っしかなかった。
《 莫迦な男だ。》
舌打ちをしたいところだったが、彼は 表情の変えずに廊下を歩く。
機械的な靴音が、静かな廊下に響いている。
そのリズムと同様、ゼーレンの心に乱れはない。
『シュリを死なせる為に、敵国-ギレスへ前線駐屯地の場所をリークした』
ロズベルクのとった方法は、これだろう。
大まかな場所を知っただけなら、索敵中に シュリの部隊の者達が気付き、迎撃の準備を整えられただろう。
その暇も与えず、完璧なカモフラージュをしていた駐屯地へ 一気に攻め入るなど、正確な場所を知らなければ 出来る事ではない。
つまり、攻め入った敵兵は『知っていた』と云う事になる。
では、何処から その情報を得たのか。
《 偶々、周辺警備中の シュリの部隊の誰かの姿を見付け、密やかに跡を尾け 駐屯地を発見した。》
勿論、この可能性も皆無ではない。
話を聴くまでは 頭の片隅にあった仮説だった。
だが、今は『裏切り説』一本に絞られていた。
救援物資が 故意に遅れる件も、前線で孤立させられる件も、シュリ達は 折り込み済みだった。
全ての対策を練った上で 前線に赴き、雪深い森の中に 水と糧を求めた。
その点に於いて、シュリの手腕は確かだ。
ゼーレンが確認するまでもなく そう判断出来るのは、彼-自身が この技術を教え込んだからだ。
窮地に於いて 生き残る為にするべき事•しなければならない事は、幼い内に 叩き込んでいる。
仲間を大切にするシュリが、この点に手を抜く事など ある筈がない。
そして、シュリを慕っていた者達が、彼の期待を裏切る筈もない。
そう考えると、駐屯地がバレる要因は『偶然の不運』か『故意の裏切り』しかないのだ。
推察は どうあれ、飽く迄も 柔軟な姿勢でシュリの話を聴いて、ゼーレンは 可能性を確信に変えた。
あの日、シュリ達の部隊は 駐屯地の外へ出なかった。
数日前に雪が降り、それ以来 外へ出ていなかった。
新雪の上を歩けば、足跡が残る。
敵の斥候が近くへ来れば、足跡から 駐屯地がバレてしまう。
それを避ける為に、次の『雪の降る日』を待っていたのだ。
幸い、雪の中で保存していた食糧は 数日分ある。
そう思って、じっとしていたと云うのだ。
《 この状況で、敵兵に見付かる筈がない。》
だからこそ、味方に因る裏切りに絞られたのだ。
そして、ロズベルクと云う男は、そう云った愚かな行動をする傾向のある上官だった。
勿論、推論を確定させる為に 誰かを尋問する必要はあるだろうが、ゼーレンの中では 確信になっている事だった。
「ゼーレン様」
彼の進む先に、少女がいた。
歳の頃は、10代半ば。
長めの茶髪をツインテールにした、幼さの残る顔立ちの 可愛い少女だ。
しかし、彼女の表情は 無に近い。
普段は 表情豊かな少女だが、此処-暫くは、ずっと こんな様子だった。
赤い絨毯が敷き詰められた廊下の端に避け ゼーレンを待っていた少女は、丁寧に 腰を折った。
ゆっくりと最敬礼をし、再び ゼーレンの名を呼ぶ。
「適任者がおります」
何処から話を聴き付けたのか、メイド服に身を固めた少女は 静かに進言した。
この言葉に、ゼーレンは 暫し考える。
「 ーーーーそうですね」
ハイスピードで思案を巡らせつつも、歩調や 表情は変わらない。
相変わらず 機械的な靴音を響かせて、長い廊下を歩いている。
「任せましょう」
この結論を出すまでに掛かった時間は、僅か 4秒。
失敗すれば アルドフレイ家が取り潰しに遭うだけでは済まない決断を、驚く程 短時間に下した。
而も、その判断をしたのは 当主ではなく、一介の執事である。
「はい、お任せを」
それに何の疑問も懐かずに、少女メイドは 頭を下げた。
口調も表情も 淡々としているが、声には 微かに感情が表れていた。
これに気付きながら、ゼーレンは 少女の横を通り過ぎる。
「急いではいけませんよ、決行は 2日後に」
「畏まりました」
元の 無感情な声に戻っているが、押し殺しているのは 判っていた。
《 シュリ様が襲撃されて、もしも、生命を落とされていたら……。》
ふと、そんな事が過った。
自分は云うに及ばず、この別荘にいる殆どの者が 仇討ちに奔っただろう。
後先など考えずに、それこそ アルドフレイ家の事も顧みずに、ヴェルデシュタイン州へ渉り 本懐を遂げただろう。
最近 あの少女が無表情になっていたのも、暴走しそうな怒りを堪えての事だった。
《 危なかった、本当に……。》
それ程に、アルドフレイ家の者達は シュリを好いているのだ。
好意を向けられている当人が、最も判っていない事実でもあった。
今回の報復についても、先行して ヴェルデシュタイン州へ渉った者がいる事を、ゼーレンは知っていた。
少女メイドが言っていた『適任者』は、これを指していたのだ。
《 あの2人なら、上手くやるだろう。》
突っ走りがちな者の手綱を、あの少女なら 巧みに操れる。
そう思ったからこそ、任せたのだ。
《 あの男の寿命は、後-2日か。》
惜しんでいるのではない。
2日も与えなければならない事に 怒りを覚えているのだ。
今は シュリ-付きの執事になっているとは云え、ゼーレンは 元-軍人だ。
その中でも、暗殺に長けた者だ。
制約も何もないのなら、躬らが赴いて ロズベルク達を惨殺してやりたかった。
しかし、既に 外れたとは云え、軍籍にあった者は 能力も功績もデータが残っている。
更に、監視が付いている以上、ゼーレンが この別荘を離れる訳にはいかなかっただけだ。
本当なら、1秒でも早く抹殺してしまいたかった。
あの男が、この世に存在し 身勝手に呼吸しているだけで、腑が煮え繰り返る思いだった。
《 シュリ様は、軍に残られると言った。ならば、俺は、その障害となる者を排除するのみ。》
《 間違っても、俺達が シュリ様の足枷になってはいけない。》
この思いがあって、この邸宅に残ったのである。
人に譲りたくない役目だったが、此処に残って行う事も 大切だ。
そう思い直して、ゼーレンは 厨房へ向かっていた。
シュリの昼食を用意する為に。
この後 ゼーレンさんは、豪華な昼食を作り シュリの許へ届けました。
『今さっき 喰べたばかりだ』と云う正論は、ゼーレンさんには通用しません。
『昼食の お時間ですので』と云う一言と 優しい笑顔で黙らされてしまうとか いないとか…。
何にしても、朝食が軽めだったのは 確信犯でしょう。
頑張って快復してね、シュリ。
それにしても、シュリが主人公なのに 一歩も動いてないな。
こうしてみると、主人公を蔑ろにするモノが多い気が…。
ーーーー気のせい…って事にしておこう……うん、きのせいだ。