メインヒロイン
大和魂の女、キリエは幸せそうに酢こんぶをねぶっていた。
「ジンふぁん、正直言って、今あっしの事かわいいって思ってるっすね。……けど、ダメっすよ。あっしに惚れるとヤケドするっす」
「今は思ってない。マジで。……ていうかさ、お前なの? 一番はじめに到着するの、お前なの?」
酢こんぶ臭を漂わせた女は胸を張ってこう言った。
「あっったりめえっす。これが物語だとしたら、あっしがメインヒロインっすからねっ」
「えっ!? そ、そうなのか……?」
迅八は見た。
…ピタリとした大和魂シャツは、小柄な体には似合わない胸に押し出され、文字が歪んでしまっている。
酢こんぶを舐めている唇はつややかに濡れていて、その上の目は澄んでいる。なにも邪気がない…というか、何も考えていなさそうなつぶらな瞳。
活発そうなショートヘアと、健康的な張りのある上気した頬。まじまじと観察すると、やはりキリエは可愛い。
それらの情報を含めてから、迅八は言った。
「………いや、それでもやっぱ違うと思うよ」
「うっせーてめーっ!! こんにゃろこんにゃろ!!」
「あ、やめてやめて、やめてったら!!」
バシッバシバシッ!
チョップを見舞うキリエと、やめてやめてと言いながら、どこか嬉しそうにそれを受けている迅八。
レジーナは遠くからそれを眺めて、どこが記憶喪失なんだろう……と思っていた。
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鉱山都市の奥に位置するアリの巣。
迅八達がいるその場所の反対側、町の入り口から外に出てしばらく進むと畑がある。
若い男達や、一部のたくましい女達、それらは皆鉱山で働いているが、それ以外の者たちは普通の町と同じように、それぞれの仕事を持っている。
食料は物によっては隊商から買った物だけでは足りなかったり、値段が高かったりもする。鉱山では働けない者たちのほとんどは、昔ながらの農夫としての仕事を続けているのだ。
女が作物を収穫している畑、その横の畑では老人達がクワを振るう。
そして、その光景の向こう側には森が見えた。
・・・・・・・・・・・・・・・
「みんな、あまり遠くに行かないでね」
毛皮のコートの胸に子狐を抱いたサアヤが言うと、子供達は元気に返事をして散っていった。
この場にいるたった一人の大人であるアンリは、自分の子供の後ろ姿に声をかけた。
「ヘンリ! いっぱい取ってこいっ。今日はキノコ鍋だ。ガハハハハッ」
「うんっ」
子供達もサアヤと同じように厚着だが、アンリは一人だけ半袖のシャツで太い腕を組んで笑っている。豪快なアンリを見ていたサアヤは、嫌そうに顔を歪めた。
「野蛮人……」
「……ん? サアヤ、お前も混じって行ってきたらどうだ? …あいつらは食べれるもんも食べれないもんも分からん。たんまり毒キノコ持ってくるかもしれんぞ」
「……私は引率でここにいるの。食べれない物は後で分けるから」
「けどなあ、お前も本ばっか読んでると、ガリガリのまんまだぞ。たまにはなあ、」
「別に関係ないでしょ? …そんな事言われたくない」
「……はいはい悪かった。ガハハハハッ」
その言葉を残してアンリも木の向こうに消えた。
…まだ太陽は絶壁の向こう側に行っていないが、雨季のどんよりとした雲は分厚く空を覆っている。
ギザギザとした針葉樹の森の中、足元に大きめの布を広げると、サアヤは靴を脱いでその上に座り込んだ。
「おい小娘。テメエは行かねえでいいのか?」
「行かない。私がそんな事する必要ないもん。あの人達は取る人。私は食べれるか食べれないか教える人」
サアヤの毛皮に埋まるようにくるまっている子狐が、顔だけ出して言う。
「……ふん。まあ別にどうでもいいこった。それよりも丁度良い。話に付き合えや」
いつも持ち歩いている本を開こうとしていたサアヤの胸を、子狐が尻尾で叩く。
サアヤは微笑んでから子狐に頬ずりした。
「こら。ちっちゃいくせに生意気だな」
「ああもう…、テメエみたいな発育不良にまとわりつかれても嬉しくねえわ。調子に乗りやがるとぶっ殺すからな」
この喋る子狐は、とんでもなく可愛らしいのに最高に口が悪い。しかも本気で言っている。そのギャップがサアヤには可愛くて仕方が無い。
「ねえ、本当にあなたが千年の大悪魔なの? 実物は……怖いの? 気持ち悪い姿だったら、それにはならないでね」
「テメエ、この超俺様に向かってなんて無礼千万な事を抜かしやがる……」
バシバシと自分を叩いている子狐の感触に、サアヤは頬をゆるめた。
「おう、テメエ転生者なんだろ? だったら手早くいくぞ。…なんでこの町の奴らは俺達の事を放っておく」
「え? …だから、今は北の国と」
「それだけじゃねえぞ。なんかあるはずだ。…レジーナにはお前から色々言ってんだろ? 俺達の事を」
「え……うん」
「娘の機嫌を損ねたくねえ母親が、俺達の事を本当はどう思ってんのかはどうでもいいこった。…だがな、町の奴らの態度は納得いかねえな」
クロウは感じていた。自分達の事を遠巻きに見ている町の住人達には『畏れ』がある。
それは当たり前だが、それ以上に『興味』を感じる。
「……なんかよ、近寄りたがる雰囲気だ。普通俺達みてえなのには近寄りたがらねえんじゃねえか? なのに、近寄りたがるくせに情報を引き出そうとする気配がさほどねえ。俺達が北のモンだとするなら、一人位は先走る馬鹿がいてもよさそうなもんだぜ」
「気のせいだよ。あの人達はあなた達の事を怖がってるわ」
「いや、そりゃわかんだけどよ……。なのに近寄ってきたがるだろうが」
「気のせい。あなた達は嫌われてるわ」
その言葉に。子狐は眉をしかめた。
「……別に嫌われててもどうでもいいんだが、おめえのその口調はなんだ? ずいぶん断定的に言いやがるな」
「見えるもん。……聞こえるの」
森の中の獣道は入り組んでいるが、さほど広い森ではない。サアヤの場所からは姿が見えないが、少し離れた所から常に子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。
その声を聞きながら、子狐はやはりストレートに切り出した。
「おめえユニークか? …見えるとか聞こえるとか、そりゃなんだ?」
「………………別に、言ってもいいけど、誰も信じてくれないもん」
「あんだよ。いいから言えよ。信じるか信じねえかは俺様が決めるぜ」
「……見えるし聞こえるの。心の声、」
「おい、ちょっと待て。静かにしろ」
サアヤの言葉は子狐に遮られた。
自分の胸に抱いている子狐をサアヤが見ると、子狐は犬歯をむき出しにして木々の奥を見ていた。
「……小娘、ここにいろ」
トンッ、包帯でグルグル巻きにされた小狐がサアヤの胸を蹴る。軽い衝撃を胸に感じると、びゅおんっ! 音を残して子狐は木々の向こうに走り去った。
「え、なに……」
突然消えてしまった子狐に、サアヤの口から疑問がこぼれる。あの子狐…千年の大悪魔は、木々の向こうを睨みつけていた。
「なに? ちょっとやめてよ…!!」
ここいらにはなかなか危険な魔物は出没しない。レジーナ達が定期的に魔物を討伐しているからだ。
それでも絶対という事はないので今日はアンリも護衛としてついてきている。
アンリは鉱夫だが、もしも冒険者だとしたらBランクくらいの力は持っている男で、何も心配はないはずだった。
(魔物の一匹くらいなら、あの野蛮人がどうにかしてくれるよ……)
……それなのに。
なにか、感じる。
そして、それは最初、匂いとしてサアヤの元に届いた。
「くさい。なにこの匂い……」
鼻に微かな悪臭が届くと、その匂いを感知した瞬間に、サアヤの視界に色が広がった。
「な、なにこの色……!!」
紫と茶が混じったような、おぞましい色が。
木々の隙間を越えて、遠くから自分の方に流れてきている。
……おっ、うおわあああああああッ!!
森に響き渡る絶叫。…アンリの声。
「な、なにが、……子供たちは!?」
町の人間のほとんどが嫌いで、いつでも斜に構えている少女は、何かを考えるよりも先に、何故か靴も履かずに走り出した。
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「サアヤ先生っ!」
「あ……、うあ……っっ!!」
「みんなっ私の後ろに!!」
「あああああああああんっ!! うああああああああああああああん!!」
「せんせい、ヘンリがっ、……血がすごいようっ!!」
木々が開けたその場所で、サアヤの目にその光景は飛び込んだ。サアヤの後ろにいる子供たちの真ん中で、左腕を血まみれにした少年が、倒れた父親にすがりつき泣き叫んでいる。……森の中。この叫びは町までは聞こえない。
護衛としてついてきたアンリは一番初めにやられたようだった。元々危険な魔物が出てくるなんて、思ってもいなかったのだ。…アンリが倒れた今、この場で子供たちを守れるのはサアヤしかいなかった。
ガサリと。
「ひっ……」
サアヤの前で、茂みの中から音がする。
…自分達を喰らおうと、何かが茂みの中からこちらを見ている。そして、この場に充満している叫びが耳に入ると、視界に広がる恐怖の色。
子供たちの叫びの奥には恐怖と絶望が溢れている。…その心の声に。
(無理……、声に食われる……!!)
自分は応えることなど出来ない。
自分に出来るのは、心の声を聞く事だけだ。
戦闘用の技術なんてなに一つ持ってない。
突然茂みの中から自分達に飛びかかってくるかもしれない脅威。その恐怖にサアヤの心が押し潰されそうになった時、それはゆっくりと茂みの中から現れた。
……人の形をしている。
ただ、サアヤの元まで届く悪臭。
濁った茶色い悪臭が、サアヤの目にははっきり見える。そして、それを放っている魔物。
崩れかけた体の表面にはてらてらとした粘液が光る。体の表皮を全て剥がして筋肉が浮き彫りになったようなその体。葉脈のように体中に広がるその筋から、時折汚物のような血液が飛ぶ。
……ずり。
一歩動くと悪臭が動く。
その怪物の身体中についてる口。
肩の部分に口がある。
腹の部分に口がある。
「ぐ、が、げ、ゲゲーッゲゲゲゲッ!!」
突然、魔物はその腹の口から膨大な吐瀉物を撒き散らした。茶色い汚物、黄色い粘液。
飛び散ったそれの飛沫がサアヤの足元に届くと、じゅう……と音を立てた。
「サアヤ……」
「せんせぇ……!!」
サアヤは、自分の後ろから聞こえてくる声に、何も返せない。
こんなのが、自分の二度目の人生の終わりだなんて、想像していなかったのだ。
「…………あ」
その魔物から少し離れて、包帯巻きの子狐がアクビをしているのが見えた。
「な、なにしてるの!? 助けてよ!! 千年の大悪魔でしょ!? こんな奴やっつけてっ!!」
子狐は何もしようとしないでじっとサアヤを見ている。そして後ろ足で頭をかいた後、悪魔のように顔を歪めてから言った。
「……遅えぞテメエは。どこで道草食ってやがった」
そしてそれは起きた。
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自分の死を覚悟したサアヤは子供たちを背中にかばう事だけしか出来なかった。
近寄ってくる足音から逃れる為、ただ目を閉じた。
すると、それは起きた。
…ひゅんっ
風を切る音。そして、どさりと何かが倒れた音。
その音の後、子供たちの泣き声が止んだ。
「え…………」
ゆっくりと、目を開ける。
…倒れている怪物のすぐそば、そこには人が立っていた。自分達を守るように、背中を向けている緑の影。
しゅんっ。その影が両手に持っていたナイフを振るうと、汚らしい血が土の上に飛んだ。
「無事か」
高い声を低く潰したようなその声は、サアヤの耳から深く静かに入り込んだ。
振り返る。人影が。
……サアヤよりも少し背が高いその人影は、顔の下半分をストールで巻いていた。
赤毛で隠すようにしている上半分、覗く緑色の目、……深い深い碧。
(…………あ)
サアヤの胸が音を立てる。絶体絶命の窮地に突然現れた。…まるで、物語の主人公のような少年。
震える喉から、サアヤはなんとかその一言を口にした。
「あ、あり、がとう……」
すると、その、サアヤから見ると少年は、サアヤだけに聞こえる声でこう言った。
「…………別に」
……鉱山の少女がめんどくさい恋に落ちたその時、アゼルの匂いがしたので特に何もせずに放っておいた千年の大悪魔は、笑いたくて仕方なかったが空気を読んだ。