桜の思い出
今朝、目を覚まして外を見たら天気が良く、青空を泳ぐ白い雲が綺麗だと感じた。だから朝ごはんを食べ終えたとき、ふと、散歩に出かけようなんて思ったのだろう。何かに呼ばれたわけでもないし、予感があったわけでもない。単なる気まぐれだった。だからその後のこともすべて偶然だ。そう言えば彼女はそれも運命だよと笑うかもしれない。とにかく出かけようと思った理由はその程度だった。
適当な服に着替え、水筒だけ持って外に出る。日差しがまぶしくて手をかざす。小さいころ歌った歌を思い出して、それを口ずさみながら春の陽気の中を歩く。いつもより歩調は緩めだ。急いではもったいない気がする。そうして進むのは車道の脇に桜が植えられている道だ。最近はあったかくなってきたし、少しくらい咲いているのもあるだろう。そんな風に思っていた。
満開だった。桜の花の白いアーチがどこまでも伸びている。その下を時折車が通る。僕もあそこを歩けたらなんて素敵だろう。今だけ車になれたら良いのに。それか猫。猫なら車道を歩いても怒られないし止められない。轢かれる危険はあるけど、それに見合う魅力はあった。
特に行き先も決めてなかったから、桜並木のにそって歩くことにした。日当たりが違うのか、まだ五分咲きの木やつぼみの木が並ぶところもあってそれがまた面白い。穏やかな気分で足を進める。ときどき水筒から麦茶を飲む。
何回か家族連れとすれ違った。花見にでも行くのだろうか?子供は楽しそうにはしゃいでいる。見ていて微笑ましい。さらに歩くと歩道橋があった。カメラを持ったおじさんやお兄さんがいる。あそこから見る桜は綺麗だろう。僕も上ってみる。ちょうど手の届くところに花の付いた枝があった。それにカメラを向けているおじさんがいる。邪魔しないようにその人の後ろを通って歩道橋の真ん中まで行く。そこで足を止めて横を向く。
桜が下に広がっていた。思わず見とれてしまう。上から桜を見下ろすなんてなかなかできない経験だ。だからみんな写真を撮ろうとしているのかもしれない。僕も1枚、と思って携帯を忘れたことに気付いた。仕方ない。代わりに目に焼きつけておこう。
止めていた足を動かし歩道橋を降りる。すぐ横に僕が通った小学校があった。春休みで土曜だからか人な気配が無い。だけど校舎も遊具も6年前とまるで変っていなくて、思い出があるからか物寂しいとは思わなかった。よく見れば遊具は塗りなおされていたんだけれど。柵を乗り越えれば入れそうだったけど自重する。その代りここに通っていたころよく遊んだ公園に向かうことにした。
公園の桜は8分咲きといったところだった。来週が桜祭りだから、珍しく桜が満開の桜祭りになるかもしれない。久しぶりに参加しようか。インドア派な僕にしては珍いことに、そんなことを思った。
そのまま足を進める。公園を抜けると、そこは神社の境内だ。ここにも桜が植えられている。ソメイヨシノよりも赤味が強い花を付けた桜が1本別に植えられていた。その下にも何人か人がいる。彼らもこの木に惹かれたのだろうか?
近づくとこの木の説明が書かれた看板があった。なんでもプリンセス雅というらしい。皇后のご成婚がどうとかかいてある。言われて見ればどことなく高貴な気がする。この木も心のカメラで撮っておく。
それから再び桜のアーチに沿って歩いていく。どういう理由か、ここには車が通らない。車道に出たいな。そんな思いをぐっとこらえる。それでも気付くと目は桜と車道を行き来している。もうこれは仕方ないよね。
ちょっと道を渡るだけ。そんな言い訳をして横に1歩踏み出す。その時、急に風が吹いた。桜の花びらが風に乗り、道の中央で渦を巻く。
「「わぁ……」」
見とれて思わず声が漏れた。桜色のつむじ風に惹かれ、2歩、3歩と足を進める。
回っていた花びらが風と共に飛び去ってしまった。それで足を止める。歩道と車道の境目だったけど、そんなことには構わず左右を見る。誰もが歩いていた。誰もあれを見なかったのか?そうは思いたくなくて向かいの歩道も見る。一人の女性と目が合った。
その人はこっちを見て立ち止まっていた。頬が上気している。きっと彼女もあれを見て感動したのだろう。僕と同じように。
そう思ったらたまらなかった。止まれなかった。知らない人なのに、気が付いたら人目も気にせず叫んでいた。
「そこの君!良かったら一緒にお茶でもどー!?」
言ってようやく我に返った。これじゃナンパじゃないか。道路越しにナンパとかどんなだよ。これで歳が離れていればまだ良かったのに、同い年くらいに見える。違うんだ、僕はそんなつもりじゃ――
慌てて言い訳しようとしたとき、彼女の返事が聞こえた。
「喜んでー!」
「と、まあ、お父さんとお母さんの出会いはこんな感じだよ」
多少端折りながら7歳になったばかりの娘に語って聞かせた。その隣にはにこにこ笑っている彼女がいて、少し気恥ずかしい。もうあれから15年になるのか、と無理やり頭を切り換える。もう彼女と出会う前の記憶よりも出会ってからの記憶の方が多くなっている。あと4年もすれば彼女といた時間が人生の半分を超える。その時にはまた何か贈ろうか。
「ねーねーおとーさん、おかーさん」
「どうかしたの?」
「どうかしたかい?」
声を揃えて聞く僕たちに、彼女は言った。
「おとーさんとおかーさんが会ったのも今日みたいな日だったの?」
今日は桜祭りの日。それに桜が満開だ。
「今日はお父さんとお母さんが初めてデートした日と同じかな」
「初デートで、初めて一緒にお花見をした日だよ」
まだ付き合っていなかったけど、だからこそ緊張したっけ。懐かしいな。
そんなことを考えて彼女を見るとばっちり目があった。ちょうど初めて会った日のように。それなら考えていることは同じだろう。それだけで心が暖かくなる。
「はつデートって、どんなだった?」
どうやら我が家のおませさんは興味津々らしい。やれやれ、仕方ないな。僕は紙コップに入った麦茶で喉を湿らせて、もう一度話し始める。
「そうだね、あの日は確か――」
花見と回想はまだ終わりそうにない。急いではもったいない気がして、僕は愛する家族にゆっくりと語って聞かせるのだった。




