蜂蜜色の時間
登場人物
和足彩人
谷山さん(タニヤマサン)
彼は、とても色素の薄い人で、何時も気だるげな印象だ。
けれど、何故か強い存在感を放つ彼は、校内でちょっとした人気者だった。
今日は大好きな雑誌の発売日と言うことで、私は帰路を急いでいた。
足早に教室を出て、校門をめがけて歩を進める。
「あっ」
競歩寸前の早歩きを繰り広げていたせいだろう、足がもつれたと気付いたときには既に視界が地面に向いており。
べしゃ。
おおよそ美しいとは言えない音を立てながら、私は転んだ。
痛い。果てしなく痛い。もしかしたら血が出ているかも知れない。そっと膝小僧に手を当てると、案の定手には血がべったりと。派手にやってしまった。
…どうしよう、泣きそうだ。
うつむいて膝小僧を抱え、その場に座り込む。別に走らなくても良かったのに。
私、馬鹿だ。
やるせなさにますます泣きたくなってくる。と、突然私を覆うように人影がおりた。
「だいじょうぶか?」
顔を上げ、声の主を確認するとそこにはクラスメイトが眉をひそめて立っていた。
転んで良かった、かも。現金な私は、クラスメイトに情けなく笑いかけながらそう思った。
私に声を掛けてくれたクラスメイトは、私が密かに片思いをしている和足くんだった。その彼が今、私に肩を貸し、保健室まで運んでくれている。
「ごめんね、重いよねっ」
嬉しさと申し訳なさで一杯になりながら、申し訳なさの部分だけを抽出して伝えると、和足君はええよと笑った。
「俺保健委員やし。それに谷山さん軽いから全然負担にならへんよ」
そういって首を傾けて私の顔を見る。その際に色素の薄い髪がさらりと流れて、もうそれだけで私は胸がきゅーっと締め付けられるような感情に襲われた。もう、もう、ずるいよ!
「さ、保健室到着や。…ん?先生おらへんなぁ」
「えっ」
「俺が消毒とかするんでもええ?」
「う、うん、全然!全然和足君でだいじょうぶです!」
「良かった。ほんなら…、そこ座って傷見せて?」
治療箱を開けた和足君は、私の傷に視線を注ぐ。
傷を見せるって事はつまり、和足君に足を見せるって事だよね。
ひざ小僧の痛みはどこへいったのか、ただ、私の全ての思考は、自分の足の造形と、和足君の目線にしか向けられていなかった。
「今、タイツ脱ぐから、少し後ろ…、向いててほしい、な?」
緊張で上ずる声に対しても、和足君はやさしく笑って頷いてくれる。その姿にほっとしながら、和足君が後ろを向くのを確認すると、いそいそとタイツを脱いだ。
保護されていた私の足が外気に晒されて、小さく震える。冬だからと隠していた足は、夏の日焼けのあとを残すことなく白くなっていて、ひざ小僧から染み出る赤い血とのコントラストにますます拍車をかける。
その痛いたしさに思わず顔をしかめると、和足君がもぉええか?とゆるやかな声とともに聞いてきた。
「あ、ごめんね、大丈夫です」
「ん」
振り向いた和足君は、私にベッドに座るように言ってから、手当てをしやすいようになのか、床にひざをつく。本来なら和足君が座るはずのいすには、手当て用の消毒液やら絆創膏やらがおいてあった。学年でも人気の高い、それも好きな男子が膝をついて手当てをしてくれる日がまさか自分に訪れようとは夢にも思わなかったが、何か自分には役不足な気がして、少しばかり体を縮こませた。とそこで、和足君の視線が私の足に送られていることに気づく。私の足を見て、和足君はどう思っているだろう。きっとどうも思っていないだろうと、心の片隅では思いつつも、やはり一種の期待感が意識の前面へとでしゃばる。綺麗だと、女の子らしい足だと、思ってくれていたり、するかなぁ。そんな思考に飲まれそうになっていた私を現実に呼び戻したのは、突如与えられた冷感だった。
「っ!?」
一瞬何がおきたかわからず目を丸くしながら状況把握を行うと、目の前にも若干驚いたような顔をした和足君がいた。そして、和足君の手は、私のひざこそうにそっと添えられている。急に訪れた冷感は、和足君の手の冷たさだったのか。そしてふと、和足君の手の冷たさに、何かが連想されかける。
なんだっけ、この冷たさ。この、指の白さ。何かに、似てる気がする。
「あ」
「ん?どないしたん?」
「え、あ、ううん!なんでもないの…」
思わず声を出してしまって赤面するけれど、思いついた。
和足君は、白乳色の大理石に似てる。
白くて淡い色をしているから、温かみがありそうだけど、触った瞬間、指先に走るその冷たさに、裏切られたような感覚を受ける。
和足君の指先は、まさにそれだった。
白猫に似てると思ったから、暖かいと思っていたのに。
「指、冷たかったんやな。ごめんな?」
「いや、大丈夫!ちょっとびっくりしただけだから」
よかったとつぶやかれた後、和足君は気だるげに笑った。
その顔を見るだけで、どうしようもなくわたわたした気分になる。落ち着かない。
心なしか頬も熱い気がする。
「そんなら、消毒液かけてくから」
ちょっと染みるかもしれへんけど、我慢してな。その言葉に頷き、手持ち無沙汰な私はそっと和足君を盗み見る。普段は私が見上げているその頭は、今はつむじが見えるほどに下にあり、なんだか新鮮だ。
和足君の綺麗な手が、私の足に手際よく消毒液を掛けていく。普段ならしみるはずの消毒液が、なぜだか今日はちっともしみなかった。
そうして、ゆっくりとした二人だけの時間が流れていたとき、保健室に差し込む光が徐々に金色へと変わっていった。夕方の、オレンジ色に空が染まる前の、黄金色の時間。
私はたった数分しか訪れないこの時間が、何よりも好きだった。
思わず嬉しくなって、和足君に伝えようとした私の目に飛び込んできたのは、夕日が当たり、蜂蜜色に染まっている、色素の薄い和足君の髪だった。
その光景を見て、なんだか私は泣きそうになる。
私は、こんなにも綺麗な男の子に、恋をしたんだ。
そう思うだけで、心が温かい蜂蜜色の何かで満たされた気がした。
「よし、終わったで」
「ありがとう」
絆創膏の貼られた足に、もう痛みはなかった。
「もう、こけたらあかんで?」
「はい、気をつけます」
「せっかくの綺麗な足やのに、傷ついたらもったいないわ」
「…え?」
この人は、今なんと言っただろう。
私の足をさして、綺麗と言ったのは、聞き間違いだろうか。
私がぽかんと和足君を見ていると、和足君はさも面白そうに小さく笑った。
それにつられて私も笑う。
なんだか今日は、怖いくらいに幸せだ。
ほな、教室戻ろかと和足君に促され、二人並んで教室を目指す。
教室に着けば、この幸せは終わりを告げる。そう思うと、歩く速度が少しだけ落ちる。
そんな小さな抵抗に、和足君は歩幅を合わせることで付き合ってくれた。
そして教室に着き、扉を開けると、そこには宮古さんが1人帰り支度をしていた。
「あ、宮古」
するりと、和足君が私の横をすり抜けて、宮古さんの元へ向かう。
私が、2年越しの思いで出来たことを、宮古さんは目の前でいとも簡単にやってのけた。
「こんな時間までどうしたの?」
「あぁ、委員会の当番やってん。で、谷山さんの手当しとった」
「谷山さん?」
そこでふと、宮古さんの視線が私に注がれる。
「あ、うん!そうなの、学校出たところで、転んじゃって…」
「そうなの。大丈夫?」
「うん、和足君が手当てしてくれたから、もう平気。ありがとう」
宮古さんは、私のしょうもない意地に、気がついただろうか。
宮古さんから注がれる視線や彼女の表情が変わることはなかったが、彼女は私の言葉を聞いて、どう思っただろう。
「そっか。よかったね」
そのよかったねが何をさしているのかは、分からないけど、一応頷いておく。
宮古さんは、クラスの女子とほとんどつるまない。あくまでクラスメイトという役割を最低限こなしているだけで、必要以上に関わろうとしない。
私だったら、絶対に寂しいし、最初の方は寂しくないのかなと思ったけど、彼女は自ら望んで独りなんだと気付いてからは、ますます近寄りがたくなった。
そんな彼女が唯一自ら側にいることを望んだのが和足君だ。
和足君も、宮古さんと一緒にいるときは、なんだか雰囲気が違う。気が緩んでいるというか、安心しているというか。
そんな二人の関係を羨ましいなと、私は思う。
思うだけなのは、私は宮古さんみたいに、一人にはなれないからだ。
一人のために、他の全員を捨てる覚悟は、私にはない。
二人が楽しそうに話す姿を、羨望の眼差しで眺めている自分に気がついて、ひそかに苦笑する。
やっぱり、私は眺めてるだけで十分だ。
そう思ったとき、ふいに、和足君がこっちを向いた。
交錯する視線に、一瞬腰が引けそうになるけど、それを踏み留める。
「私、もう帰るね!手当ありがとう。二人ともまた明日ね!」
自分が出来る精一杯の笑顔でそう言って、荷物を取り、教室を出る。
しばらく無人の廊下を歩いて、靴を履き替えると、私はそのまま力一杯走り出した。
色んな感情がごちゃまぜになって、ただがむしゃらに足を動かす。
本当は、眺めてるだけで十分じゃ無い。
あの隣に、いれたらいいなと思う。
けど、自分の気持ちに折り合いはつけなきゃいけない。
自分にはそこまでの勇気が無いから。
でも、自分が思っていた以上に私は和足君のことが好きだと、気付いてしまった。
めちゃくちゃな感情に、戸惑ってどんどん加速する。
冷たい風が頬を切って、痛くて、目から涙がこぼれる。
これは風のせい。これは風のせい。
自分に言い聞かせるようにぎゅっと目を瞑って、とにかく走った。
「あっ!」
急に、足がもつれて視界が揺らぐ。
そのまま前に転びそうになったのをなんとか留めた代償は、冷たいコンクリートに打ち付けられたお尻だった。
「いったぁ…」
今日はよく転ぶ日だ。
お尻に走る重い痛みに顔をしかめつつ、私は自分の足に目を落とす。
私の足は、外気に晒されて赤くなってはいたものの、保健室を出たときと変わらずそこにあった。
それにほっとして、そのまま和足君が綺麗だと言ってくれた足に顔を埋める。
「………」
この気持ちは、いつ折り合いをつけられるんだろう。
足をそっと撫でながら、ぼんやりとそう思う。
私が大人になっても、この気持ちは続くのだろうか。
色あせた思い出でも、思い出せば今抱いている感情が、胸に広がるのだろうか。
できればどんなに大人になっても、鮮明に残っていて欲しい。
だから。
私はゆっくりと立ち上がって、歩き出した。
この足が綺麗である限り、思い出が鮮明であり続けるような気がするから。
本屋で、雑誌とそれから足が綺麗になるための本を、買って帰ろう。