記憶の断片
その時、ある光景が、私の脳裏によみがえってきた。血が床に流れている。髪の長い女性が、血の海の中で、倒れている。女性の顔は、長い黒髪に、邪魔されてよく見えない。その女性の傍に、女性が立っている。杏子だ。こちらを見ている。とても、冷たい目をしている。彼女の左手には、ナイフが握られている。そのナイフの先から垂れた血が、倒れた女の大きなお腹を赤くしている。
「大丈夫?」、彼女の一言で僕は我に返った。「とても、青い顔をしてる。ねぇ、どうかしたの?なにか、思い出したの。」「いや、大丈夫。何でもない。」「…そう。それならいいんだけど。」。彼女の前では冷静な自分を保っていたつもりであるが、内心、僕の心は激しく動揺していた。あの光景は一体、どういうことだろう。あれが、私の記憶の断片ならば、何らかの事件めいた事が起きたことになる。そして、その事件に杏子が関わっていることになる。というより、あれは殺人現場と考える方が自然だろう。ふと、顔を上げると、杏子が、僕の顔をじっと見ている。僕は、ぞっとした。あの冷たい目だ。「本当に、何も思い出してない?私に嘘ついてない?」「なっ、何言ってるんだい。ただ、ワインがこぼれて、びっくりしただけだよ。はやく拭かないと」。「…そうね。」「もう、こんな時間だ。もう寝よう。」「…そうね。」そして、夜は過ぎた。
朝、杏子は目を覚ますと、彼女の横には誰もいなかった。台所に向かうと、書置きのようなメモがテーブルに置かれている。彼女は、メモを手に取り、読んだ。洋一の書いたメモのようである。
この行為は君への裏切りかもしれないが、僕は一度、君と離れて自分の過去を探してみようと思う。君の事を信用したいが、信じきれない僕がいる。君が何を隠しているのかを、知らないままでいられない。記憶を取り戻すために、君のもとを離れるなんて、君への裏切りだけど、不信感を募らせたまま一緒にいることも、君を裏切っている事になると思う。だから、しばらく探さないでください。アルバムの中の写真や、その他必要なものを、しばらく借ります。でも、決して、帰らないつもりではありません。
このメモを読んだ杏子は、メモを持つ手を震わせながら、つぶやいた。
「急がないと。すべてが無駄になってしまう。」