後生ですから、どうぞ最後に別れの言葉を。
「九鬼家当主の妻として嫁ぐことが決まった。明日、迎えが来るからそのつもりでいるように」
私を視界に入れないまま、吐き捨てるように父が言った。父が持ってきた突然の結婚話には、裏があるとしか思えない。何せ生まれてからずっといるべきでない者として扱われてきていたのだ。これからどうなるのか考えながら、私は静かにうなずいた。
「まったく返事もろくにできんのか。この出来損ないめ!」
父は私を突き飛ばして怒鳴りつけてきたが、声に出して返事をしたところで耳障りだと殴られることはわかりきっている。何をしてもあら探しをされるのだから、目立たないようにしておいたほうがいい。今日の明日で嫁ぐのだ、父は嫁入り道具を準備するつもりもないのだろう。婚家が嫁を迎え入れる準備をしているかどうかも怪しいものだ。嫁いだそばから出戻りにならなければ良いのだけれど。
その日の夜、母屋で異母妹が駄々をこねている声が聞こえてきた。離れにはお風呂がないから、母屋で残り湯をもらうしかない。聞きたくなくても、彼らの声は嫌になるくらいはっきりと響いてくる。
異母妹は姉である私が先に嫁ぐことになったのが相当気に食わないらしい。しかも政略結婚とはいえ、由緒ある名家の当主の妻に望まれたのだ。金で買われた結婚だからどこへ嫁いだところで同じだというのに。せめて結婚相手がヒキガエルのような醜い成金男なら、異母妹も溜飲が下がったのだろうか。
「どうしてあのひとが、わたしより先に嫁ぐの? しかも九鬼家当主の妻だなんて。そんなのおかしいじゃない。あの方は、どんな女にも目をくれないと評判の美男子なのよ。それがどうして、あんなしみったれた女に!」
「お前の気持ちはもっともだとも。だが、心配する必要はない。あれは、生贄として嫁ぐのだ。九鬼家が裏山の大池に鬼を封じていることはお前も知っておろう? 大池には定期的に九鬼家の女子を捧げることになっているが、今は九鬼家に年頃の女子がひとりだけしかおらぬ。その娘を九鬼家当主は大層可愛がっているらしい。それにもかかわらず、普段よりも早く贄を求めるお告げがあったそうでな」
必死に異母妹をなだめる声に、思わず笑いが込み上げてきた。せめてもう少しばかり、隠しておけばよいだろうに。私はどこにも行くつもりはないけれど、気の弱い娘ならば逃げ出してしまうかもしれない。この村からどこか遠くの町へという意味ではない。この世に別れを告げてしまえば少なくとも先の見えない苦痛からは逃れられるのだ。彼らにはどうしてそんな簡単なことが理解できないのだろう。
「つまりお姉さまは、嫁いだことで九鬼家の女と認められたならそのまま鬼に捧げられるというのね! まあ、なんてこと! 本当にお姉さまったら、お可哀想だわ」
「なんてあなたは優しい子なのかしら。そんなあなたには、ちゃんと幸せになるための縁談を用意しているの。今回のことでまとまった支度金も手に入ったのだから、もう少しだけ我慢してちょうだいね」
「お前を悲しませる者など、儂の娘ではない。期待に胸を膨らませて嫁いで、歓迎されずに枕を濡らせばよいのだ」
楽しそうに笑う声が恐ろしい。彼らが笑えば笑うほど心が寒くなる気がして、目の前がぼやけていく。私はすっかり冷めてしまったお湯の中に頭から潜り込んだ。
***
私の母と父は、政略結婚だ。いや、政略結婚というのもおこがましいだろう。父は、父の実家と母の実家から、出戻りの母を押し付けられた被害者なのだから。
母はもともと父の一番上の兄と結婚していたらしい。けれど、新婚にもかかわらず流行り病に見舞われ、他界してしまったのだとか。そのため最初はこの家に控えという形で残っていた次男が、未亡人である母を貰い受ける予定になっていたらしい。ところが彼はこんな田舎には珍しいほどの才を持っており、偶然知り合った帝都の華族の娘婿にと望まれたそうだ。なんとも名誉な話である。
行き場のなくなった母は実家を頼ろうとしたが、既に実家は母の兄に代替わりしており、出戻りを拒まれたそうだ。そこで家の跡取りとなって母をもらってくれないかと打診されたのが、私の父なのである。もちろん、父はその頼みを何度も断ったらしい。長男ではなかったために養子に出されていた父には、既に将来を誓った相手がいたのだった。
それにもかかわらず無理に呼び戻された父は、家と母を押し付けられてしまった。幼い頃に養子に出されていた父にとって、家族と言えるのは養父母だ。血が繋がっているだけの両親など他人のようなもの。その上、顔も知らぬ兄のお古と結婚する羽目になり、本当に愛する女は妾としてそばに置いておくことになるなんて、父にとっては地獄以外の何物でもなかったはずだ。
だから母が亡くなって早々に後妻を迎えたことも当然のことなのである。彼らにしてみれば、割り込んだのは私の母の方なのだから。そしてこの家にいる限り、私が異物であり邪魔者であることもまた覆すことのできない事実なのだった。
***
祝言は、不思議なほど静寂に満ちていた。主役のはずなのに誰からも話しかけられることもなかったのは、みんなこの結婚が形式的なものだと知っていたからなのだろう。
もちろん初夜が行われるはずもないことはわかっていた。だから庭に出て、ひとり月を見上げていたのだ。まさか自分の形式上の夫に出会うとは、夢にも思っていなかったのである。
不意に耳に届いた柔らかな低音。思わず振り向いてしまったのは、その声音があまりにも優しいものだったからだ。自分を呼んでくれるはずがないとわかっていたのに、不思議なほど自然に呼びかけてきた相手を見つめてしまっていた。そのことが、相手には信じられないほど不愉快で、許せないものだったようだ。
「なぜここにいる」
「なぜと言われても、本日祝言をあげましたので」
彼は私の頬をしたたかに打ち据えると、可愛らしい少女を連れて立ち去ってしまった。どうやら言葉選びを間違えたようだ。結婚したのでこの家にいると言いたかっただけなのに、新妻として初夜を待っていると聞こえてしまったらしい。肩を落としつつ、もう今日は会うことはないだろうと思っていたが、その後なぜか彼はひどく怒った顔で私の部屋を訪れた。
「誰がお前のような女の名前を呼ぶものか。汚らわしい。俺が口にするのは、最愛の名前のみだ」
なるほど、先ほどちらりと見えた可愛らしい少女が彼の義妹のようだ。私が生贄になった後は、彼女を妻として改めて娶るのだろうか。それならばたとえ嫌いな相手とはいえ、私をあまり邪険に扱う様子を見せつけない方が良いような気がするのだが。あるいは純粋そうな少女も、恋敵が虐げられる様には心を躍らせるのかもしれない。
「……大変申し訳ございません」
「お前の名は呼ばぬ。だから、俺の名前も呼ぶな。お前は黙って役目を果たせばそれでいい」
彼は淡々と語った。かつてこの村を襲った恐るべき鬼がいたのだという。その鬼を封印したのがこの九鬼家の初代当主であり、鬼を封じているのが裏山にある大池なのだとか。鬼は百年に一度深い眠りから目覚めるため、鬼が暴れることのないように生贄を捧げることになっているのだそうだ。生贄が必要でない期間も、定期的に祈りを捧げなければならないらしい。
それは九鬼家の口伝なのだろう。私が知る話とは少しばかり詳細が異なっていたけれど、真実なんてひとの数ほどあるのだから気にしたところで仕方がない。早く愛する女性の元に行きたいのだろう。ご当主さまは、苛立たしげに足を踏み鳴らした。
「お前を贄として捧げるのは、半年後だ。それまで九鬼家にふさわしい嫁として過ごせ。それから決して俺の最愛に近づくことのないように」
「承知いたしました」
不満そうに鼻を鳴らされたが、他に何を言えば良いのだろう。私が知っておくべき事柄はただひとつ。いつこの身が供物として捧げられるのか、それだけだ。
***
名前を呼ばれることのない私だったが、存在を無視されていたわけではなかった。何せ私は、ご当主さまの大切な義妹の代わりに生贄になるべき人間なのだ。
生贄として差し出されるのは、あくまで大切な人間でなければならないらしい。それは家族を愛している人間であればこそ、家族のために鬼を封じる力を得ることができるためだと言われている。
だから私が痩せ細っていたり、傷ついていたりしてはいけないそうだ。そのため私は食事を抜かれることも、暴力にさらされることもなかった。そうでなければ、主人に大事にされないお飾りの妻なんて良い欲求のはけ口になっていただろう。
いずれ死ぬことが決まっている人間に、社交などが任されるはずもない。私のことを父が心配して訪ねてくることもないため、私の元にやってくるのは九鬼家の人間たちばかりだ。幸運だったのは、九鬼家のご当主さまの母君が心優しい女性だったことだろう。彼女は、私が義妹の身代わりになることを深く詫びてくれたのだから。
「ごめんなさい。息子が家族を守る方法があると言ってくれた時に、よく確認もしないで飛びついたわたくしが悪いのです。どうか、許してちょうだい」
「私は、私を必要としてくださる方のためにこの身を捧げることができることを、誇りに思っております」
「ああ、なんて優しい子なの」
「いいえ、私は誰よりも自分のことしか考えられない愚か者なのです」
自嘲気味に笑った私の言葉に、なぜか姑がほろほろと涙をこぼした。必死に愛を乞う私に、心を痛めたのかもしれない。それからも私は屋敷の下女たちに交じって、こまねずみのように働いた。そして日中の空いた時間に裏山の大池を拝みに行くのだ。
大池は、とても不思議な色合いをしている。その水に触れれば、たちまち命を落とすといわれているのだが、それでも私は大池参りを止めなかった。だって大池は、私にとって唯一の安らぎの場なのだ。その昔、母とふたりで身を寄せ合っていた時から、この大池は私の心の支えだった。ここで自分の気持ちを吐き出していたからこそ、私はなんとか平静を保つことができていたのだと思う。
いずれ自分が突き落とされる大池を雨の日も風の日も拝み続ける私の姿は、哀れを誘うものだったらしい。人々がこっそり人食い大池と呼ぶ場所を「いずみさま」と呼び、鬼神の無聊を慰めようとする健気な娘として、お飾り妻であるはずの私は周囲の人々からそれなりに受け入れられていったのだった。
***
鬼神の供物として捧げられる日。
その日、私は丹精込めて美しく装われていた。以前にあげた祝言よりもよほど花嫁らしい装いをしていたのだから、今回の儀式は相当に気合の入ったものなのだろう。もしかしたらご当主さまは、あくまで仮初の妻である私との結婚は手を抜いただけなのかもしれないが。
花嫁行列は、しゃらんしゃらんと鈴の音をたてながら裏山の大池へ向かっていく。最後の一本道は、何より親しい相手――父母や伴侶――に両手を引かれて歩くのがお約束らしい。母が生きていれば母が私の手を引いてくれたかもしれないが、せんなき話である。私は政略結婚の相手として私を選んだ父と、義妹の代わりとして私に白羽の矢を立てたご当主さまを指名した。
ふたりとも大変不服そうな顔をしていたが、この結婚をお膳立てした当事者である以上、最後までちゃんと付き合っていただこうではないか。ふたりに手を引かれて、ゆるゆると歩みを進める。誰も声を発したりはしない。聞こえるのは、ただ大池の中心から発せられるこぽこぽという優しい水音だけだ。
大池を前にふたりの手が離れる。生贄は自ら望んで、入水しなければならない。早く飛び込めと言わんばかりのふたりの顔を見上げながら、私はとびきりの笑顔でお願いをしてみせた。
「後生ですから、どうぞ最後に別れの言葉を」
私は父とご当主さまの顔を交互に見つめた。少し離れた場所から私たちを見守っている九鬼家の人々もまた、小さくうなずいている。娘として愛されることもなく、妻として愛されることもなかった女の最期の願いだ。それくらい叶えてやってもよいだろうと、九鬼家の善良な方々は思ってくれるだろう。
そう、彼らはとても良いひとたちなのだ。ただ、自分たちの家族のことを何より愛しているだけ。そのために、自分の家族ではないものに面倒ごとを押し付けているだけ。
あまりにも哀れな女のささやかな願い。それを叶えることで自らの罪悪感を和らげたいのだ。
この贄を捧げる儀式は、すでに形が決められている。難しいことなど何もない。変な話だが、別れの言葉とて既に決められているのだ。定型文に続柄と名前を入れて読み上げるだけの簡単なもの。出し惜しみする必要がどこにあるだろう。
「お父さま?」
問いかけるも、父は固まったままだ。周囲の人々もまた、少しばかり怪訝な顔をした。じれったく思うのは当然だ。別れの言葉を言わないのはこの儀式に不満があると思われても仕方がない行為なのだから。けれど父は口を半開きにしたままぶるぶると震えるばかりだった。
だから私は次にご当主さまを見た。父が別れの言葉を私に贈りたくないと言うのなら仕方がない。私はないものねだりはしない女なのだ。
「後生でございます」
彼は父のように固まることはなかった。いや、本音を言えば固まってしまいたかったのかもしれない。けれど、ここで固まることは当主として許されないのだ。父のように、私の名前を忘れてしまっただなんて言い訳は通用しないのだから。
「愛する我が妻、『みはる』の幸せを永久に祈る」
どことなく不服そうな顔をしていた旦那さまは、ふと視線を逸らすと、私を見ないまま一息に言い切った。あの日の夜に見かけたときのような柔らかな声音と微笑みは、ここではない遠く、私たちが出てきたはずの村の方に向けられていたのだ。完全に私の予想通りに。
***
その瞬間、ごうごうと大池が揺れた。普段はきらめく青銅の鏡のような大池が、ぐらぐらと揺れている。そしていきなり、熱湯と蒸気が噴きあがった。
そこかしこから悲鳴が聞こえる。ただびとであれば、決しては触れてはならない大池の水が噴きあがり、彼らに降りかかっているのだ。どのような惨状になっているかなんて、いちいち確認せずとも容易に想像できた。じゅっと嫌な音がして着物の裾が焼ける。
それでも、自分の望みの結果から目をそらしてはいけないだろう。ゆっくりと後ろを振り返ろうとした私の瞳を、大きなてのひらが覆った。がっしりとして温かい、恋焦がれたあの手だ。水しぶきがかからないようにするためだろう、気が付けばすっぽりと抱きかかえられてしまっていた。
「わざわざ見る必要はなかろうて」
「ですが、和泉さま」
「お前が心を痛める必要はないのだよ。あの者たちは、己の手でこうなる未来を選んだのだから」
顔を覆っていた大きなてのひらを外してみれば、そこにいたのは赤髪の美丈夫だ。少し尖った牙の見える口元と、長い髪の間から見える象牙のような角が彼の正体を如実に示している。彼こそが、この大池に封じ込められていた鬼なのだ。
「なぜだ、なぜ鬼が復活した!」
腰を抜かして倒れ込んだ父が悲鳴を上げている。こんなに麗しい相手を前になんて失礼なのだろう。
「お前は何か知っているのか! この裏切り者め!」
ご当主さまが信じられないものを見る目で私を見ていた。その姿があまりにも滑稽で、喉からおかしな音が鳴る。和泉さまは、堪らえきれずに吹き出してしまったようだ。
確かに私は、「私を必要としてくださる方のためにこの身を捧げることができることを、誇りに思っております」と常々言ってきた。けれどいつ私がご当主さまの本当の妻になりたいだなんて言っただろうか。まさか本気で私がご当主さまの愛を希っているとでも考えていたのだとしたら頭の中がお花畑にもほどがある。
ご当主さまが私ではない女性を大切に思っていたように、私だって心に決めた相手がいた。ただそれだけのことだ。あんな扱いを受けて、なぜ心からこの村のためにこの身を捧げると思えたのだろう。よしんば私の行動が裏切りにあたるのだとしても、それはお互いさまなのではないだろうか。
私はころころと笑い声をあげながら、傍らに立つ美しい鬼神を見上げた。
***
鬼神は高らかに告げる。
「そもそもわたしとの約束を破り続けたお前たちが何を言う。それに何より、もともとこの娘はわたしのものだ。そうだろう、美春?」
「ええ、もちろんでございます。旦那さま」
私が日々大池に祈りを捧げていたのは、信心深かったからではない。大池の中に、かつてこの村を開拓した鬼神が封じられていることを知っていたからだった。
誰からも無視されていた私の名前を呼んでくれたのは、この和泉さまだけだった。
かつて鬼神は、貧しい村でそれでも前を向く男と友誼を結んだのだという。その男と子どもたちのために、鬼神は自ら大池に沈み、その力をこの辺り一帯にゆき渡らせ、豊かな土地へと変えたのだ。
けれど月日が経つにつれて、約束は忘れられていく。友人として話をしにくると言っていたはずの子どもらの訪いは早々に途絶え、大池の水は力が溜まりすぎて人間にとって有害なものになった。その結果、ますますひとの足は遠のいていく。鬼神は思っていた以上に人間が好きで、寂しがり屋だったらしい。ひとを呼べば生け贄を要求したと誤解され、説明しようにも相手は怯えるばかり。
数百年の孤独の中で、たまたま巡り合ったのが、誰にも必要とされていなかった私というわけだ。けれど大池は深くて、何を届けようにもまるで鏡のように撥ね返されてしまう。見えるのに触れられない。あまりにも近くて遠い存在。そんな鬼神の隣に行く方法は生贄になることだけだった。
もちろん生贄になれば封印が解けることはなく、触れたそばから私は塵となり果てただろう。最初はそれでも良かったのだ、愛するひとの隣で逝けるのならばそれで十分だった。けれど、ふと思いついてしまったのだ。もしかしたら、愛するひとを解放してやることができるかもしれないということに。和泉さまの隣に生きて立つことができるのならば、喜んで鬼になろうではないか。
父が私の名前を呼ばないであろうことは、わかっていた。いないものとして扱っていた娘の名は、家の中でも村の中でも呼ばれることはなかった。「あれ」と呼び続ければ、ゆっくりと頭の中から私の名前は消えていく。父は呼ばなかったのではない。呼べなかったのだ。
そしてご当主さまの大事なひとと、私の名前が同じだったことは大変な幸運だった。ご当主さまにとっての「みはる」は、愛しい義妹の「未遥」だけだ。「美春」という私の名を呼ぶことはないと彼は言った。それにもかかわらず、あの神聖な誓いの場で彼はまっすぐに己の妻の名を呼んだのだ。愚かなことに。
愛していないものを愛しているとのたまう居心地の悪ささえ呑み込んでいれば、綻びかけた約束を打ち砕くことはなかっただろうに。もちろんそれこそが、私の望みだったのだけれど。うっかりではなく、約束を交わした側の故意がほしい。愛するひとの力を返してもらうには、それだけで十分だったのだ。
大池の水はゆっくりと溢れ出し、怨嗟の声を上げる村人たちを呑み込んでいく。大丈夫だ、彼らが死ぬことはない。今まで鬼神がそうであったように、大池の下で静かに暮らすだけ。鬼神と違って、愛する家族とともに永遠を過ごせるのだから何の不都合があるだろう。暮らす場所が地面の上か下か、それだけの違いではないか。
「みんな、あなたのことを封じられるべき鬼だなんて言っておりましたけれど。自分たちの隣にいたのが本物の鬼だったことに、どうして気が付かなったのでしょうね」
「わたしは、そなたが同じ鬼になってくれたことが何より嬉しいが」
「それならば、もう絶対に離れないと誓ってくださる?」
「もちろんだとも」
和泉さまは、私を抱えて跳び上がった。一足で空がぐんと近くなる。きらめく大池は、空の青に溶けてじきに見えなくなった。
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