LOG.01 ノイズ退治は定時で終わらない
今日も都会に夜は来る。ビルの隙間をすり抜けるように夕闇が降り、ネオンの光がガラス面に反射して街を染めていく。人々はそれを日常として受け入れ、誰も特別な感慨を抱かない。それはただ、当たり前に訪れる夜の風景であり、誰にも等しく流れる時間だ。
そんな夜の裏側で、ノイズは生まれ、静かに息を潜めている。
「今日は巡回じゃなくて出動。夜間対策課に対処して欲しい所があるみたい」
ユイは肩をぐっと回し、脚を伸ばす。冷たい夜風が髪を揺らし、通りのネオンサインが瞬きながら色を変える。その光を眩しそうに目を細めながら、ユイは軽い調子で言った。
「場所は?」
隣に立つレインは、街の喧騒と光をぼんやりと眺めながら問い返す。空を見上げると、薄雲の向こうに丸い満月が浮かんでいた。白い月光は、街の人工光とは違う冷たい色を持って夜空に滲んでいる。
「西。交通事故が増えてるから、ノイズが溜まってるかも知れないって」
「……判断阻害か」
「多分ね」
ノイズは、人間に直接危害を加えることはほとんどない。しかし、強いノイズのそばにいると、なにかしら影響が出る。
例えば、判断力を一瞬鈍らせる。
例えば、見ている景色がブレる。
例えば、急に心がささくれ立つ。
これらの“異常”が重なると、事故や事件が起こりやすくなる。
つまり、ノイズとは、強い感情が形を持った“認識のバグ”のようなものなのである。
それを未然に防ぐために、夜間対策課はノイズを狩っているのだ。
ノイズが昼間に活動することは少ない。昼間は日の光が異常を散らし、街の人々の意識に溶けていく。だが、夜は違う。夜は心を静かにし、光を弱め、ノイズが形を持ちやすい。
「資料は?」レインが淡々と問いかける。
「昨日の仕事終わり、レインが爆睡中にまとめておきました」
ユイは誇らしげに、だがどこか呆れたように肩をすくめ、レインに端末を手渡す。
「……爆睡は、してない。仮眠だ」
途端に、レインがむすっとした表情になって、不服そうに小さく言い返した。自然と歩く速度が上がる。
「仮眠? 三時から九時までぶっ通しで寝ることのどこが仮眠なの? 爆睡としか言いようがないでしょ、あんなの」
ユイが早歩きでレインに追いつき、正論で言い返した。レインがさらに眉をひそめ、不機嫌な顔をする。
ユイへのかすかな抵抗に、レインは無言の抗議を含んだ視線を向けるものの、ユイは一切気にしていない様子だ。
レインは言い返すのを諦め、渡された端末を静かに受け取る。
そして不機嫌を隠しきれない様子のまま、ため息をついて画面へと視線を落とした。
端末に表示された位置情報のピンが、地図上で小さく点滅する。
表示されたのは、何の変哲もない見通しの良い交差点。昼間なら車も歩行者も行き交う、ごく普通の場所だ。
一見すると、何の怪しい点もない。
しかし、レインにはその場所に心当たりがあった。
ここは、確か──。
「そ。ここ、前にもノイズで交通事故多発してたとこなんだよね」ユイが画面を覗き込み、横から説明を付け加えた。
ここは約三ヶ月前、ノイズによる影響で交通事故が多発した交差点だ。夜間対策課が対処し、事故は減ったはずである。
「また出た、ってことか」
「そうなるね」
ノイズは「人の記憶に残らない場所」を好む。その交差点には大きな植え込みと電柱があり、ノイズが身を潜めるには最適の場だ。再びノイズが発生し、そこへ留まっていると推測するのは難しいことではない。
「よし、情報も頭に入ったことだし、早く行って終わらせよう! 今日の仕事これだけだし、帰ったらゆっくりお風呂入れるし!」そう声を弾ませ、ユイが勢いよく走り出す。夜道を走るユイの後ろ姿は楽しそうで、仕事というより夜の散歩のようですらある。
レインは小さく息を吐き、特に否定も肯定もしない適当な返答をする。
わざわざ急ぐ必要はないと思いつつも、完全に置いていかれるのも面倒だ。
そんな微妙な距離感のまま、レインも歩幅を広げてユイを追いかけることにした。
「ほら、レインも早く爆睡したいでしょ」
「……だから、爆睡じゃない。あくまで仮眠だ」
西の交差点へ向かって、二人は移動していた。
ユイは仕事道具の入ったケースを揺らして先を歩き、レインは両手をポケットに突っ込んだまま、やや遅れてついていく。二人の靴音はそれぞれ違うリズムで、コンクリートを軽く叩いていた。
それでも、行き先で待っているのはれっきとした“仕事”だ。ノイズが潜んでいる以上、甘さは命取りになる可能性だってある。だが、こうして移動している間だけは、妙に日常の延長のようにも感じられて、それが逆に気持ちを落ち着かせていた。
「そうだレイン」
ふと、ユイが振り向いて訊く。足は止めず、軽く歩幅を合わせるだけ。
「……ん、なに」
「ずっと気になってたんだけどさ、顔のそれ、いつできたやつ? あたしと組んだ時にはもうあったし」
ユイがレインの顔を指差す。
レインの顔には、小さな傷跡があった。随分と古い傷だ。ユイはそれを初対面の時から何度か視界に入れては、聞かずに放置していた。
「……今更?」
レインが呆れたように言う。その言葉には棘も怒りもなく、ただ“本当に今更だな”という静かな意味だけがあった。
「あー、うん。組んでから結構経つけどね。隠してるわけじゃないから、聞いてもいいかなって」
ユイは笑いながら言う。夜風に揺れる髪を耳の後ろに指で払う仕草は、まるで雑談の延長だった。
「────………………」
だがレインは急に言葉を止めた。歩調は変わらないのに、視線がふっと下を向き、何か探すようにコンクリートの地面を見つめる。
「……あ、これ聞いちゃダメな感じだった?」
急に黙り込んだレインに、ユイは慌てて歩幅を縮め、レインの顔を覗き込んだ。申し訳無さそうに声のトーンを落とす。
「──いや、別に」
レインは淡々と答えた。表情はユイが訊く前とさほど変わらず、ただ事実を述べるような口調。
「いつできたのか、あまり憶えてないだけ」
その言葉と同時に、レインの視線が一瞬だけ遠くを向いた。街灯の光ではなく、もっと暗い空の向こう、それとも記憶の奥の方へ。
ユイはその視線の意味を詮索することも、軽口で流すこともしなかった。ただ、数秒の間を黙って、隣を静かに歩くことを選んだ。
「……ここか」
「そうだね」
二人は交差点に足を踏み入れ、周囲をゆっくり見回した。
街の中心にあるはずの交差点は、この時間帯になるとまるで別世界のように静まり返っている。昼間は車が絶えず走り、人の声やクラクションが混じり合う場所だが、今はわずかなエンジン音が遠くに聞こえるだけだ。
信号機の光が一定のリズムで切り替わり、その光に照らされる白線は少し色あせて見えた。街灯は一本だけが健気に立ち、白っぽい光を落としている。人影はなく、夜風がアスファルトを撫でる音だけが響いていた。
「人も車も少ないね。まさにノイズが好みそうな場所だね」
ユイが端末をしまいながら呟いた。
「……ここ最近の事故も全部深夜帯だったな」
レインが淡々と答える。
「さてと、どこにいる──あ、いた。あそこ」
ユイの指先が向く先、電柱の根元。
真上からの街灯に照らされず、わずかな影になっている部分。
普段なら誰も気にしないような “日常の死角” に、闇が形をとったように、人影が立っていた。
それは、輪郭が曖昧で、重さも存在感も安定しない。
ユラユラと揺れ、黒い水面のように形を保てずにいる。
しかし確かに『そこに居る』ことだけは分かる。
ノイズだ。
「ノイズってさ、電柱の影とか、人の記憶に残らない場所好むよね。一般人には見えないって便利」
「……身を隠すには十分なんだろ」
「隠れてるつもりなのがかわいいよね。丸見えなのに」
「お前の目だからな」
軽口を叩きつつ、ユイはノイズをじっと観察する。
「見たところ、中規模型っぽいね。人型は取れてるし、サイズも大体同じくらい」
ユイが声を潜めて報告する。
「……わかった。正面から行く」
レインが短く答え、ゆっくりとノイズへ近づいた。
一歩。
二歩。
距離を詰めるたびに靴音が夜に響く。
ノイズは最初、無反応だった。まるで眠っているようだ。周囲を見ていないかのようにも見える。
「本当に寝てんじゃないの?」
「……あれにそういう概念はない」
「でもあれ寝起きの猫みたいじゃん」
「……猫に失礼だ」
軽口を飛ばしながら、レインがノイズに手を伸ばした瞬間──
ノイズの輪郭が急激に揺れた。
「……っ」
その腕は視認しづらいほど薄暗く伸び、レインの手を振り払った。
拒絶の動き。
そして、ノイズは怯えたように後ろへ後退する。
中規模型のノイズは、最低限の自己防衛行動を取ることがある。
本能ではなく、ただの人間の模倣だと言われているが、それでも十分“生きているように見える”。
「う…………ぁ……」
ノイズの口元と思われる部分が開き、ざらついた声が漏れた。
不快な声だ。声色は確かに人の声の構造をなぞっているが、どこか音が欠け、意味が滲んでいる。
「こ、ろさ…………ない、で……」
──殺さないで。
それは、命乞いの言葉。
だが感情はなく、音の模倣に近い。薄っぺらい響きだ。
レインは表情を変えずに一歩踏み込んだ。
「……悪いが、それは出来ない。仕事だからな」
そう言い切ると同時に、再びノイズへ腕を伸ばし、揺れる影の内部へ手を差し入れる。
手先に触れる生温い感触。
その奥に、硬いもの──核がある。
レインの指がそれに触れた。
瞬間、ノイズの輪郭が霧のように薄まり、空気中に溶けていくように消滅した。
まるで最初から存在しなかったかのような静けさが、そこに戻る。
「……」
レインは小さな核を拾い上げ、しばらく動かずに眺めていた。
先ほどの命乞いが、意味のないはずの言葉が、妙に耳に残ったのだ。
「おつかれ、レイン。……平気?」
ユイが隣に来て、小声で問いかける。
「ああ」
レインはいつも通り簡潔に返し、核をユイの手に渡した。
「ならいいけど。今回は核投げなかったね。そこは偉い」
「……いちいち褒めるな」
「いいじゃん、別に。褒めて伸ばす方針」
ユイは小さく笑い、端末を開いて核の解析を始める。
「……中規模型にしては、言語模倣のレベル高かったね。事故が増えたのはここ二週間くらいだけど、それ以上いた感じ。どれくらいここにいたんだろ」
ユイが解析をしながら呟いた。
ノイズは、人間を模倣する。
声も、動きも、表情すらもトレースできる。
ただ──そこに宿る意味だけは、どうしても再現できない。
先ほどの命乞いも、本来持つはずの感情が、そこには無かった。
だから、薄っぺらく響いた。
核を回収し終えた時点で、現場は“ただの深夜の交差点”に戻っていた。信号だけが律儀に色を変え、虫が街灯の周りをふらふら飛んでいる。昼間の喧騒が嘘のようだ。
ほんの数分前に異常があったなんて、誰も想像しないだろう。
「……ころさないで、か」
レインは小さく息を吐き、ノイズの言葉を反芻した。
「ここ最近、ああいうの多いよね。嫌になっちゃう」
ユイが肩をすくめて言った。
「そうか?」
「え、気が滅入らないの? 精神削ってくるよね、あれ?」
「別に」
「この子ほんと感情どこ行ったの……?」
ユイはため息をついたが、それもどこか慣れた調子だった。
レインは特に弁解せず、夜風を吸い込みながらしばらく空を見上げた。
雲は薄く、月はぼんやり滲んでいる。静かだ。
二人はしばらく無言のまま夜風に当たった。
「……よっし、仕事終わった! レイン、コンビニ寄っていい? 甘いもの買って帰りたい!」
ユイが突然大きな声で宣言した。レインが目をしばたかせる。
「……お好きに」
レインがぶっきらぼうに返す。
「やったー! レインは? アイスとか食べる?」
「……今の気分は、別に」
「えー……」
軽いやりとり。いつも通りだ。
レインはふと、後ろを振り返る。歩き出した二人の背後で、風がほんの少し揺れた。
人のいない交差点。けれど、どこかに“視線”のような気配が残っている気がした。
ノイズたちは学習している。
それがただの模倣なのか、それとも——。
考えても仕方ないと首を振り、レインは前を向く。
「……まぁ、アイスなら、別に」
ぼそっと言った途端、ユイが振り返った。
「えっ!? なにそれ成長? すごいじゃん!」
「騒ぐな。凄くない」
「そうやってすぐ照れる〜」
「照れてない」
冗談を交わしつつ、レインは歩幅を合わせるようにユイの隣へ戻った。
夜はまだ続く。
そして都会もまた、ノイズを孕んだまま静かに息をしていた。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました!




