アサイー=私?
「うん? どうして三十分前に起きた僕よりも、二時間前に起きた有紗のほうが準備が遅いのだろうか?」
心底不思議そうな彼氏――隼のセリフに、有紗は化粧途中の手をぴたりと止めた。そして、恨めしそうに振り返る。
「なんでか教えてあげようか?」
「教えてくれるのかい!? ぜひ聞きたいな!」
「……それはねぇ、顔洗ってすぐ出かけられるようなガサツな隼くんとは違うから! 色々準備に時間がかかるの!」
「なるほど! 確かに僕はガサツなところがあるかもしれない! 有紗、教えてくれてありがとう!」
「あ、ありがとうって……皮肉だったんだけど、今の」
「皮肉? なんだい、それは? 肉の部位か何かかな?」
「はぁ……」
有紗はため息を一つ吐くと再び手を動かした。これ以上隼の相手をしても時間の無駄だと思ったのだ。
二年前から交際し始めた二人は、最近同棲をはじめた。
隼は有紗を溺愛しており、どこへ行くにも後を着いて回り、有紗が一人で出かけることがあれば、逐一連絡を要求する。
有紗は面倒がりながらも、可能な限りは応じていた。それが嬉しかったのか、ますます隼は調子に乗り、今日のようにお出かけの準備中にも横へ来て「待て」をされた犬のようにお座りをしている。
「有紗、これはなんだろうか?」
隼は落ち着かない様子で化粧をする有紗を見ていたかと思うと、机上に置かれた化粧道具の一つに手を伸ばした。すると、すかさず有紗が
「あーもう! 隼くん力強いんだから、そんなに強く持たないで!」
といって取り上げる。
「む! す、すまない!」
隼に思いきり掴まれた容器は、歪にへこんでいる。中で中身が漏れ出しているかもしれない、と想像して隼を睨むと、彼の頭に垂れた犬耳の幻覚が見え、ぐっと言葉を詰まらせた。
「こ、これはファンデーション! リキッドの……。こうやって使う分だけ手の甲に出して、うっすら伸ばして使うの!」
「へぇ。有紗の剥き卵のような肌は、こうして出来上がっているんだね!」
「……なに、私の肌が綺麗なのは、これのおかげだって言いたいわけ?」
有紗がいうと、隼はきょとん、と首を傾げる。
「何を言っているんだい? 有紗の肌はどんな状態でも綺麗じゃないか」
「あ、あっそ」
「どうしたんだい?」
不思議そうに顔を覗き込む隼を「うざい」と突っぱねると、彼はあからさまにしょぼくれた。
ほとんど寝起きにも関わらず、完璧な容貌の隼が憎々しい。
隼は、容姿端麗、素直で優しく、誰にでも分け隔てなく接する。
街を歩けば、通りすがりの女性の視線は皆隼に釘付けとなり、隼を少しでも一人にすれば必ずといっていいほどナンパをされた。
そんな彼の横に立つには、それに見合う容貌が必要だ。
有紗は鏡の中の自分とにらめっこしながら、気分が重々しくなっていくのを感じた。
「そういえば、最近フルーツをよく食べているね。だからそんなに肌が綺麗なんじゃないだろうか?」
「フルーツ? あぁ、アサイーに乗せて食べるようにしてるんだ」
「あさ……? 冷凍庫に入っているフリ〇ザの血液みたいな色をしたやつのことかな?」
「ちょっ! 次から食べづらくなるじゃん!」
「それはすまない。あ、そうだ! 有紗の準備を待っている間に、僕も食べてみたいな!」
「勝手にすれば?」
「作り方は……?」
「自分で調べてよ」
「わかった」
隼は立ち上がってキッチンへ向かった。
化粧する手を止めないまま、有紗は不安がる。
有紗が教えるまで、隼は米の炊き方すら知らなかった。
教えればできる子といえば聞こえはいいが、逆にいえば教えなければできない。いや、それではできない人に失礼だ。必ず大きな面倒を起こす、が正しい。
例えば洗濯機。
有紗の場合、使い方説明書を見なくても、このボタンを押せばいい、というのがなんとなくわかる。
しかし隼の場合。どこをどうすればいいのかが全く見当できない。
購入してすぐの洗濯機が泡を吹いて横転していたときは、さすがの有紗も今後を考えた。
とはいえ、今回はただフルーツを切ってミキサーにかけるだけ。包丁の使い方は有紗が教えたし、それほど問題はないはず。
そこまで考え、有紗は動作を止めた。
ミキサーの使い方は教えただろうか?
疑問が脳裏に浮かんだのと、騒々しい音がしたのはほぼ同時だった。
キッチンのほうから聞こえる激しい音と、助けを呼ぶ隼の弱弱しい声に、有紗は事態を察した。
放っておくわけにもいかないので、重い足取りで隼のいるキッチンへ向かう。
隼は有紗を見るなり、無邪気に笑った。
「あ、有紗! 来てくれたんだね! 嬉しいよ!」
有紗はキッチンの惨状を一目してすぐ、悲鳴をあげた。
「きゃー! 冷蔵庫がぁぁ!」
同棲するために新しく買った、真っ白い冷蔵庫。
たくさん食べる隼のために買った、たくさん食材を詰め込める最新型の冷蔵庫。
そこにべったりこびりつく、紫色の液体。
有紗は隼の胸元に駆け寄り、彼の胸元をぽかぽかと殴った。
「うわぁん! 馬鹿馬鹿馬鹿ああ! こういうのって落ちづらいんだからぁ!」
「すまない。どうか気がすむまで殴ってくれ!」
「そういう問題じゃない!」
有紗は隼をきっと睨みつけた。
よくみれば、冷蔵庫だけでなく壁や電子レンジ、炊飯器にまで飛んでいる。
おそらく、蓋をしっかり閉めずにミキサーを使ったのだろう。
いや、そうだとしても、ここまで飛び散るだろうか。
どうしようもない現状に、有紗は気が遠くなる。
「誰が掃除すんのこれ……」
「もちろん、僕がやるよ! 助け合ってこその同棲だからね!」
「これは隼くんの自己責任でしょ!?」
急がば回れ、だ。はじめから有紗がやっていればこんなことにはならなかったのに。
「じゃあ、ここは僕が掃除をしておくから、有紗は準備に専念してよ」
「えぇ? でも……」
「いいから。頼ってよ……こんなときくらい」
「っ……いや、なにいい格好しようとしてんの。全部隼くんのせいなんだってば!」
隼の顔の良さに流されそうになりつつ掃除の仕方を教えると、有紗は再度化粧に取り掛かった。
有紗が化粧を終える頃、ちょうど隼もキッチンの掃除を終えた。
家電にかかった染みを一掃し、壁の染みもなくなっている。
「意外と美味しい……?」
「味気なかったら、はちみつをかけるといいよ」
宣言通りひとりで掃除を終えた隼に、有紗はアサイーボウルを振る舞ってあげた。
隼は、ない尻尾をぶんぶん振り回して喜んでいる。
つい、いつもの有紗の量で作ってしまったので、大喰らいの隼は数分で食べ終えてしまった。
隼はやや不服そうに顔を顰めている。
おかわりを求めてくるのが常だ。
普段と違う反応に、有紗の心臓が飛び跳ねるも、努めて冷静に言った。
「な、なに? 不味かったの?」
「いや。そんなことはないよ。はちみつもたっぷりかけたしね」
「そう? って、ああ! ちょっとどんだけかけてんの!? はちみつもう終わりそうなんだけど!! はちみつって高いんだよ? 今度新しいの買ってきてよね!?」
「有紗。そんなことはどうでもいいよ」
「はぁ? どの口が……」
有紗は言いかけて呑み込む。
隼がこれまでにないほど真剣な顔をしていたからだ。
有紗は自然と身体に力が入る。まるで説教をされる子どものさまだ。
「有紗。君は最近これをよく食べているね。たしかにフルーツが入っているから、栄養は申し分ないだろうけど、あまりに量が少ないんじゃないかな?」
「うっ……」
「これから本格的に夏もはじまるし。この量ではバテてしまうよ。特に朝はたくさん食べたほうがいい」
正論をぶつけられ、有紗は口ごもった。
そんなことは自分が一番よくわかっている。
有紗だって、隼のように好きな物を好きなだけ食べたかった。
同じ物を共有して、味わって。
しかし、有紗は人より太りやすい体質だ。
隼と同じだけ食べていては、どんどん体重が増えてしまう。
ただでさえ隼の周りには敵が多い。
少しでも気を抜いたら、すぐに別の女に隼を取られてしまうだろう。
それだけは避けたかった。
だから、化粧にも自分磨きにも、神経質にならざるを得ないのだ。
「そ、そんなのわかってるし。でも、しょうがないじゃん……」
鈍感な隼に、この言葉の真意は伝わっていないだろう。
けれど、喜怒哀楽には敏感らしい。
御主人の機嫌をとる飼い犬のように有紗の手を取り、見上げた。
「僕はね、有紗には笑顔でいてほしいんだよ。無理して食べろとは言わないけど。我慢せずに好きなものを食べた方が幸せなんじゃないかな」
「っ……そんなことしてたら太るじゃん! 隼くんのまわりには可愛い子がいっぱいいるのに、太ったら――」
嫌われる。
有紗は唇を噛みしめた。
しまい込んでいた本音を言葉にすると、鼻の奥がツンと痛む。
有紗は隼の顔が見れなくなり、俯いた。
面倒くさい自分に嫌気がさす。
膝上の拳を握りしめ、涙を耐えていると、隼は小さく笑った。
「なんだ、そんなことか」
「は?」
有紗は隼を見上げ、渾身の「は?」を叩きだした。
乙女の重大な悩みを、「そんなこと」とは。
心に沸々と怒りがこみ上げてくる。
「なにそれ。人がこんなに悩んでるのに」
「いや、だって。例えば有紗はさっき、壁や冷蔵庫に飛び散ったアサイーを見ても、“フリー〇の血液”だとは思わなかっただろう?」
「……は?」
「アサイーはボウルに入っていても、飛び散っていても、アサイーなんだよ。有紗もそれと一緒だ」
「……え、は?」
「有紗の見た目が変わろうと、有紗の中身は変わらない! 僕は、有紗だから好きなんだよ!」
歯を見せて笑う隼に、有紗は顔を真赤にして固まった。
昇っていた怒りがおさまり、鼓動がはやまる。
一瞬で悩みなど吹き飛んでしまった。
有紗は無意識に上がりはじめた口角を無理やり元に押し下げ、鼻をならす。
「隼くんって、馬鹿だよね」
「む!? なぜだろうか!? 教えてくれ!」
「そのくらい自分で考えてよ」
「嫌だ、嫌われたくない!」
「……馬鹿。今さら嫌うわけないじゃん」
有紗は飛びついてきた隼をかわしつつ、終わりかけのはちみつをそっとしまうのだった。