些細なこと
それは、柔らかな日差しに吹く風が心地よい五月のある日のことだった。ボスと嬢ちゃんとファミリーの皆との、少し慌ただしくも自分にとっては穏やかな日常に、オルコスはささやかながら幸せを感じつつ廊下を歩いていた。仕事が終わったとボスへ報告しに彼はボスのもとへ向かっていたのだ。
ふと、ボスの部屋から声が聞こえる。穏やかで優しくて、聞いていて落ち着く声。コンシリエーレと話でもしているのだろうか?であれば出直したほうがいいだろうか、オルコスは部屋の前で立ち止まってそう考えていた。
「……あぁ、どうしたらいいと思う?私はね、セレーナに生きていて欲しいんだ。なのに私はあの子を殺したくて仕方がない」
扉を開けなくとも分かった、これはボスの独り言だ。正確には部屋に大切に保管している奥様の剥製に話かけているのだろう。周りには理解されないが、それが彼の愛の形だった。相手を愛しているほど殺したくなると、俺にだけ教えてくれた。なぜ俺に教えてくださったのか、いまだに分からないままだが。
「私が、こんな風に歪んでいなければ…」
どこか苦しそうな声で、ただ娘に生きていて欲しいと、でも自分はいつか手を下すだろうと、独りで悩みを抱えているボス。
俺にとってはここが全てだった。ボスが全てだった。あの人が大切にしているものが全てだった。俺はあの人のためならなんだってすると決めていた。
だから、あの人にセレーナを殺させるわけにはいかない。あの人にとって世界で一番大切なあの子をあの人から守れるのは、事情を知っている自分しかいないと腹を括った。あの人の愛を否定することになっても、あの人を裏切る事になっても。
オルコスはボスの部屋より奥にあるセレーナの部屋へ、出来るだけ音を立てずに静かに向かった。ボスの部屋からそう遠くないが、今はやたらと廊下が長く感じる。ボスがすぐに行動する人ではないのは分かっているのに、心臓の鼓動が異様に速く手汗も止まらない。緊張しながらも気付けばセレーナの部屋についたオルコスは、ノックもせずに扉を開けて部屋に入っていった。
パステルカラーの水色をベースにした壁紙やクマやウサギなどの可愛らしいデザインのドレッサーや本棚といった家具が並ぶ中で、ふわふわの薄いピンク色をした小さいソファに腰かけて静かに本を読んでいるセレーナ。周りに猫や象などの様々なぬいぐるみが置かれていて、まるで夢のような不思議な気分にさえなるほど穏やかな空間になっていた。なんとなく、ぬいぐるみがセレーナを守るように見えているのはボスの話を聞いたせいだろう。それらに見られているみたいで落ち着かないながらも、オルコスはセレーナに声をかけようとした。
「セレーナ様、ボスのお呼びです」
背後から声が聞こえてオルコスは振り返る。そこには長い黒髪を右肩にまとめて前で結んでいる男性がいた。赤紫色の瞳は優しそうにセレーナを見ているが、セレーナは本から視線を反らさずにただ首を横に振った。
「ボスからの大事な話です。組織の将来に関わるもので、貴女に来ていただかないと困ります」
そう言いながら男はゆっくりとセレーナのほうへ歩み始める。さすがにセレーナも本を閉じて棚に戻す。そして彼女は真っすぐと男のほう、ではなくオルコスを見つめて小さく微笑んだ。まだ十歳の女の子なのに、そうとは思えないほど大人びた雰囲気の彼女からオルコスは一瞬だけ目を反らすが、すぐに彼女を見つめ直す。
「逃げるぞ」
オルコスは開口一番に言うとセレーナに手を差し伸べる。彼女は何も言わずにオルコスの手を取り、自分を迎えに来ていた男の顔を見た。
「パパによろしくね、おじ様」
「オルコス、なんの冗談かな」
笑顔で淡々と聞いてくる男にオルコスは銃を向けて答える。
「…冗談に見えるか、セギル」
「あぁ、悪かったね。君がボスを裏切るなんて想像もしていなかったから」
つい驚いてしまってね、と言いながらセギルと呼ばれた男もオルコスに銃を向け爽やかな笑顔で発砲する。オルコスはそれを難なく躱すとセレーナを抱き寄せ耳を塞ぐよう指示する。彼女に弾が当たってもいいと言わんばかりの射撃に銃を持つオルコスの腕に力が入る。その様子をセギルはただにこやかに見つめていた。まるで、お前にはこちらを撃てないだろうとでもいいたげな表情だ。
パァンと銃声が響いたかと思うと、セギルが大きく目を見開いてオルコスを見つめる。セギルは腹部を押さえているが指の隙間からどくどくと血が溢れている。出血の量が思った以上激しいのか、相手は膝をついてうずくまる。それでも彼はオルコスに向けて微笑んだ。
「…逃げなくていいのかい?こんな所で銃声がしたんだ。すぐ皆集まるぞ」
そう彼が言ったそばからこちらの部屋に向かってくる足音が聞こえた。しかしいくら急いでいるとはいえ速すぎる。ボスやセレーナの部屋があるこの階には最低限の人数しかおらず、この部屋は一番奥にある為下の階からでも距離がある。それに今日はここに来るまで周囲に人がいなかったというのに。
「私が発砲した時に動いたなら、おかしくないタイミングだろう?」
彼があの時撃ってきたのが救援要請を意味していたのに気付けなかったのは自分の落ち度だが、今は反省している場合でも感心している暇もない。俺はセレーナに声をかけて彼女を抱きかかえると窓を開ける。ここは三階で普通に飛び降りては助からない。だが途中途中にある雨よけを使えば何とかなる。
「…じゃあな、セギル。嬢ちゃんは守るから安心してくれ」
そうセギルに声をかけるとオルコスたちは窓の外へと去っていった。
「さっき銃声が聞こえ…セギルさん!?」
オルコスが去った直後に部屋に入ってきたのは黒髪に黒縁メガネのいかにも真面目そうな男性だった。
「ちょうどよかった。私は見ての通り手負いでね、次期コンシリエーレとして君が今回の件を担当してくれないかい?まずはボスに説明して…」
まだ血液は流れ続けており、顔色もどんどん青白くなっていっているがセギルは部下である男性に仕事の話をする。
「…わかりました。で、ボスに何を説明したらいいんでしょうか」
部下の男もまた、彼がどんな人物かを分かっているので深く追及せずに仕事を始める体制に入る。
「さすがロワ、私が見込んだだけはあるね。…オルコスが、アンダーボスを連れ去った。彼は…ファミリーを、ボスを裏切ったんだよ」
「…嬢ちゃん、説明はこんなもんでいいか?」
セレーナを連れ去った理由が彼女の父親であるボスから守るため、話の流れでコンシリエーレを撃ったことを話したオルコス。
「やっぱり、そうだったのね。パパが少し変わってるのは知ってたから、そうなのかなって思ったけれど」
父親に命を狙われていると知っていても動じない彼女の雰囲気はどことなくボスに似ており、オルコスは切なそうに彼女を見つめる。彼女には知らないでいて欲しかった、たとえそれが愛だとしても子供が背負うには重すぎると思っていたからだ。でも、彼女は自分よりはるかに強かった。
「そうか、知ってたか」
「…ねぇ、開口一番に『逃げるぞ』って言われて、何も聞かずについて行くと思う?」
そうだよな、普通ならあんなにすんなり連れ出せるわけがない。いつかそうなるとずっと考えながら、彼女はあの日の俺の手をとったのだろうか。
「俺が部屋に来た時から分かってたのか、嬢ちゃん」
「ふふ、そうかもね?でも、知らなかったかもしれないわ?」
クスクスと無邪気な笑顔でこちらをからかってくるセレーナに、先ほどまで申し訳なさでいっぱいだという表情をしていたオルコスも少し微笑む。そんな彼にセレーナは優しく囁いた。
「私には些細なことなのよ。パパのことも、この生活も、将来のことも全部」
「オルコスと一緒いられなくなる事と比べたら、ね?」
ボスはどうしたって愛に対しては自分の気持ちを抑えて生活してるので反動が大きそう