ある薬屋の老婦人の話
――この手紙が、君に送る最後の手紙になるだろう。
そんな書き出しで始まっていた手紙が、小包とともに届いた。
彼が旅に出かけると言って国を出てから、もう二十年がたとうとしていた。〈ゴツコラ〉の領主だった彼は、息子にその立場を譲った後すぐに、念願だった世界一周の旅に一人で出かけていったのだ。
その息子が、さらにそのまた息子の犯した件の火消しに追われて、今やお家存続の危機に陥っているなど、彼は夢にも思っていないだろう。旅路の邪魔になってはいけないので、知らせる気は毛頭ないが。
それはさておき。
旅に出かけた彼は、毎月欠かさず手紙を送ってくれた。到着した場所で、どんな体験をしたのかが細かく書かれてあり、私はいつも楽しみにしていた。次はいつ届くだろうか、そろそろではないか、と考えるのも含めて。
今回も、そろそろかと思っていた矢先に届いたそれを開いて、私ははっとした。
突然の「最後」宣言とともに書かれていたのは、無情な事実だった。病を患い、医者からもう長くないと宣告されたそうだ。
手紙を一旦膝の上に置き、日差しが降り注ぐ窓の外を眺める。
「そうね……もうそんな年だものね」
「え?」
つい言葉がもれて、品出しをしてくれているマリネちゃん――赤い体に足がいくつもある不思議な子――が、目を丸くして振り返った。
なんでもないのよ、と言ってごまかして、マリネちゃんが仕事に戻っていったのを見てから、また手紙に目を落とす。
そこには、昔の話もいくつか書かれてあった。懐かしくなり、自然と笑みがもれた。
◇◇◇
私と彼が出会ったのは、まだ彼が領主の跡取りの立場の頃だった。将来は騎士団に入団する、と意気込んで士官学校に入ったものの、親に領主になるためにと連れ戻され、腐っていた頃だ。
現当主に反抗するつもりで、ガラの悪い輩とつるみ、夜な夜な酒場をはしごする日々を送っていた。その中のある一つの酒場で働いていたのが、私だった。
知り合った当初は、まさか彼が領主の跡取りなどとは思わなかった。酒に酔った勢いでその話を聞かされたときは、心底驚いたものだ。
と、同時に、そういう立場の人も悩みがあるのかと、意外に思った。それ以来、昼も夜も関係なく、会うたびに話すようになり、気づいたときには惹かれあっていた。
しかし、当時の彼にはすでに、親によって決められた婚約者がいた。そのお方は美しく、気立てもよくて非の打ち所がない人だそうだ。そのお方との縁を切って、私たちが一緒になるなど考えられなかった。
また、それがなくとも許される恋ではなかった。そもそもの問題――身分。そんな、到底越えられない高い壁がそびえたっていたからだ。
彼は、領主の跡取り。私は、昼は花を売って、夜は酒場で働く平民。どうあっても、交わるはずがない立場であった。
これで終わりならば、ただのどこにでもある悲恋話かもしれない。しかし、私たちの物語は、それで終わらなかった。
ある年の冬、なかなか止まらない咳と高熱が出る病が大流行したのだ。私も彼もそれにかかり、彼などは一時生死の境をさまようほどの重体に陥ったらしい。
互いになんとか一命を取り留め、回復して外出許可がおりた日に聞かされたのは、彼の婚約者が同じ病で命を落とした話だった。
彼は、決して喜んではいなかった。同様に、私も。
私が今でも、こうして薬屋を経営しているのは、そのときの経験があったからこそだった。
人の命は、簡単に失われる。そんな悲劇を、少しでも、一つでも減らせるように。薬がなくて、それを買うお金がなくて、命を落とす人がいなくなるように。当時心に決めた想いは、今でも色あせてはいない。
そうして、結局私と彼が結ばれることは、終ぞなかった。
「ケイティ。私は、〈ゴツコラ〉の領主になるよ。裕福な者も貧しい者も、誰もが幸せに暮らせるような、そんな場所を作りたいんだ」
ただの綺麗事かもしれないけどね、と言いながらも、まっすぐ前を見つめる彼。その横顔を見た私は、ただ頷くしかなかった。
彼が、夢に見た世界を作れたのかは、分からない。旅に出ると言い出した彼からの、「共に行かないか」との誘いを丁重に断ったときの、悲しそうな、しかし穏やかな笑みが、その答えのように思えてならなかった。
◇◇◇
手紙を優しく撫でつけてから、元の形に折りたたんだ。
「ケイティさん、終わりましたぁ」
「ありがとう。お疲れ様。じゃあ、お茶にしましょうか」
マリネちゃんが額の汗をぬぐいつつやってきたので、お茶の支度をした。
ティーカップに入れたお茶を出すと、マリネちゃんが未開封のままだった小包をじっと見つめているのに気づいた。
「あら、いけない。忘れてたわ」
「こちらも商品ですか?」
「いいえ。知り合いが送ってきたものなの。たぶん、いつものお菓子かなにかだと思うんだけど……」
マリネちゃんが中身を気にしている様子なので、お茶の前に小包を開けようと思った。
封を切り、蓋を持ち上げてみてすぐに、そこに入っていたのはお菓子ではないと分かった。
「わあ……きれいですね」
穏やかに香る、色とりどりの花だった。なにかの魔法がかけられているのか、包まれてから少しもしおれず、色あせてもいなかった。
途端に脳裏に浮かんだのは、彼と出会ったばかりの頃の光景。売り物の花を差し出した私に、はにかむ彼の姿。
「ケイティさん?」
呼ばれて、我に返る。
不思議そうな顔をして、マリネちゃんが顔をのぞきこんでいた。
「ああ。ごめんなさい。なんでもないの」
「そうですか? あ、この花どうしますか? どこかに生けますか?」
「そうね……空いてる花瓶があったと思うけど」
花瓶を取り出し、きれいな水を入れたそこに、マリネちゃんが届いた花を生けてくれた。
久しぶりに水を得た花たちは、一層美しく輝いて見えた。
「……マリネちゃん。あなた、誰かを好きになったことはある?」
「へっ!? あ、そ、そうですね……ありますよ。もちろん」
「へぇ。どんな人?」
「とても美人で……あ、同い年だったんですけどね? でもやっぱりなんていうか……高嶺の花っていうか。人気者でしたし。結局アピールどころか、ろくに話もできずに終わっちゃいました」
マリネちゃんは、その人を思い出しているのか、照れて顔を俯け、頭をかいた。
「そうなの。その人はもう遠くに行っちゃったの?」
「その人がじゃなくて、僕がですね」
「そう。また会えるといいわね」
「うーん……どうでしょう。会えても、結局また話しかけられずに終わっちゃうと思います」
「でも、いいじゃない? 会えるだけ、とても幸せだと思うけど」
「……そう、ですねっ」
マリネちゃんは、無理矢理といった様子で笑顔を浮かべ、ティーカップに顔をうずめるようにしてお茶を飲んだ。
なにか、悲しい思い出でも思い出させてしまっただろうか。
ふと思って、なにも考えずに聞いてしまった。申し訳なくなり、昨日いただいたばかりのお菓子も出した。
「マリネちゃん、悲しい?」
「えっ?」
「その人と会えなくなって」
「……悲しくないと言われれば、嘘になりますね」
マリネちゃんは、神妙な面持ちになり、ティーカップを静かにソーサーに置いた。
次の瞬間、ぱっと上がったその顔には、明るい笑みがあった。
「でも、いいんです。出会いがあれば別れもあります――あ、いえ、違いますね。別れがあるからこそ、出会いがあるんですから。僕は、カイルさんやティムさんオリヴィアさん……それから、ケイティさんにも。お会いできて嬉しいです」
それが、やせ我慢で言ったのではなく、本心からくる言葉なのだと、手に取るように分かった。
そのとおりだと思った。
彼と出会って、別れた。その後、旦那と巡り会って、子供ができて、旦那と死別して、元気な孫が生まれて。
人は、人生の中で出会いと別れを繰り返し、そうして自身の幸せを模索していくものなのだ。この年になって、ようやくそれに気づくとは。
――私は、君と出会って、愛することができて、心から幸せになれた。それだけは確かだ。
手紙の最後に書かれていた言葉を思い出し、彼の顔を思い浮かべながら語りかけた。
ええ。もちろん、私もよ。
「マリネちゃん……ありがとう」
「えっ? なにが、ですか?」
「色々よ」
しばらく目を丸くしていた赤くて可愛らしい魔物ちゃんは、また笑顔を浮かべて「どういたしまして」と、言った。




