あるパン屋の釜戸番の話
毎日が憂鬱だった。
ただでさえ行き交う人が多い首都での暮らしは、とても肌には合わなかった。
生まれ故郷の〈ガラナ高原〉は、寒冷地ではあるが穏やかで、都会の喧噪とは無縁の場所だった。あそこで一人、牧歌的な暮らしを営む。それが、子供の頃からの夢だった。
しかし、両親がそれを許さなかった。なぜなら、僕には生まれつき炎魔法を使える素質があったからだ。
生まれたときから魔法を使える者は、ごくわずか。せっかくの才能を殺すわけにはいかないと、なぜだか躍起になって、いつの間にか〈サントリナ〉に上る手筈を整えたのだった。
本人である、僕の意思を無視して。
「ザック、お願い。もうちょい火力強めで」
「……はい」
生地が入れられた釜戸に向けて、杖を振るう。ここ〈パン屋ケルプ〉で釜戸の火の番をするのが、僕の仕事だ。
しかし、とにかくここに行きつくまでが大変だった。
最初に雇われたのは、ガラス製品を作る工房。繊細な火力調整が必要で、どうにもうまくいかず、一週間で追い出された。
次は、ゴミの焼却処分場。危うく火事を起こしかけて、一日で追い出された。
次は、とある飲食店。ここでも火加減がうまくいかず、三日で追い出された。
素質はあるけれど、才能はない。
そう自身で結論づけるのに、大して時間はかからなかった。
元より、人と接するのが苦手な点が、最大の欠点とも言えた。精根使い果たした僕は、次の仕事を探す気にもなれず、行くあてもなく、路上で浮浪者にまじってぼんやりと座りこんでいた。
なんで、こんな目に遭わなきゃいけないんだ。
すっかりやる気を失って、自暴自棄になっていた頃に出会ったのが、〈パン屋ケルプ〉で働く女性のキャロルさんだった。
彼女は、僕がたき火をしようと火をつけて危うく火事になりかけたところに、たまたま通りかかったのだった。
「あんた、ばかなの? 練習なしでうまくできるわけないでしょうが。特訓しなさいよ、特訓」
キャロルさんは、消火を手伝ってくれた上に、ある人を紹介してくれた。すでに炎魔法を完全に会得し、その腕をふるって飲食店の〈カモミール亭〉を経営していたハロルドさんだった。
彼を師として――ほぼ強制的に――特訓に励んだ結果、なんとか火力調整の技術を身につけられた。
そして、それまではわざわざ炎魔法の使い手を頼んで派遣してもらっていた〈パン屋ケルプ〉に、キャロルさんの厚意で就職が決まり、今にいたる。
この店は、小さいながらも客の出入りは激しかった。パンは主食であり、人々の食事には欠かせないものだからだ。
パンそのものを買いにくる客はもちろん、生地を持ちこんで焼くのを依頼してくる客もいる。否、むしろ後者の方が多いかもしれない。なぜなら、庶民は自分でパンを焼くのを許されていないからだ。故に、専属の釜戸番がいれば、効率よく店を回せる。
そんな店でこき使われながら、それでも必死に食らいついてきたのは、ひとえに夢のためだった。お金を貯めて、都会から離れた静かな村に家を買って、誰にも邪魔されずに穏やかに暮らす。ただ、そのためだけに。
「ベック、ごめん。ちょっと出てくるから店番よろしく」
「……え?」
過去を回想しながらも、火加減を念入りに確認して釜戸のふたを閉めたところで、キャロルさんが言った。
今は、太陽が空の真上に上がろうとしている頃。もうじき昼の時間であり、混雑する時間帯である。そんな頃に、接客係の彼女がいなくなるなど、地獄以外の何物でもない。
「で、で、出てくるって、なんですか。ぼ、僕に、店番? むむ、無理。無理無理無理です」
「落ち着いて。今の時間ならお客そんなに来ないし、すぐ戻ってくるから大丈夫。じゃ、お願いね」
「ま、ま……っ!」
待ってください、と言葉が僕の口から出るより先に、キャロルさんは店を出ていってしまった。
呆然と立ち尽くした後、釜戸の中の様子を見て、焦げそうになっていたパンを救出する。火加減を少し弱めてから、ふう、と一息ついた。
確かに、言われてみればまだ昼前。客が来たとして、キャロルさんがいなければ引き返してくれるのでは――
「っ!?」
僕は、飛び上がるほどに驚いた。
店のカウンター――客の注文や依頼を聞いて、商品の受け渡しをするところに、赤い物体がいて、こちらをじっと見つめていたからだ。
あれは確か、常連客のカイルとかいう目つきが悪い客の肩によくへばりついている、魔物ではなかっただろうか。
「あ、こんにちは」
「……っこ、こんにち、は」
なんで喋るんだよ。喋るなよ。僕に話しかけてくるなよ!
こちらが一人パニックになりかけているのを知らずに、その赤い魔物は顔を半分覗かせた状態から、カウンターの上によじ登ってきた。
「キャロルさんはご不在ですか?」
「は……は、い。ちょっと今……出てて」
「そうですか。今日はちょっと早めにお昼を済ませたかったんですけど……だめですか?」
「……な、な……なにに、します、か」
「いいんですか? じゃあ、黒パン一つください」
注文を受けて無言で頷き、焼きあがったパンの中から黒パンをとって袋に包んだ。
いいから、早く帰ってくれ。
そう念じながら差し出すと、赤い魔物はそれを受け取りつつ、腰に下げているポーチから取り出した銅貨を渡してきた。
「ま……毎度、あり」
「はい。あの、すみませんでした」
「……な、なにが、です、か」
「〈リンジー魔物研究所〉のミランダさんから、口下手な方だとうかがってたので。急に話しかけて驚かせてしまったんじゃないかと」
「いえ……別に。だ、大丈夫……です」
実際、めちゃくちゃ驚いたから全然大丈夫ではないけれど。
「そうですか。ならよかった。あ、いつも美味しいパンをありがとうございます。お仕事、無理ない程度に頑張ってくださいね」
ずっとそれを言いたかったんです、と最後に言って、赤い魔物は笑顔で去っていった。
「……はああ」
大きなため息をついた。
まさか、魔物に「無理ない程度に」なんて気遣ってもらえるとは思わなかった。胸の辺りが、妙にもやもやする……っていうか、なんだか……温かい? なぜだ?
「ただいま! どうだった、お客……って、どうしたの? なに、その変顔」
帰ってきたキャロルさんに訝しがられたので、慌てて釜戸の前へと戻った。
今日はもう、とにかくこれ以上何事も起こりませんように。
そう祈りつつ、焼けたパンを取り出す作業に入った。




