ある喫茶店のマスターの話
花が香るいい季節になった。
寒さが苦手なため、冬の間は仕入れ以外では店にこもりきりの場合が多い。そのため、暖かい日が続くようになると、嬉しくなってくる。
「知ってる? トリスタン。カイルくんたち、近いうちにSランクの昇格試験受けるんですって」
常連客の一人であり、冒険者だった頃の仲間のミランダが、紅茶を一口飲んだ後でそう言った。
「そうなのかい。早いものだね。つい最近、Aに上がったと言っていたような気がしていたけど」
「本当よね……って、やあね。お年寄りみたいなこと言わないでよ」
「それは失礼」
もうじき六十になるのだから、十分お年寄りだと思うけれど。
なんて言ってしまった日には、なにをされるか分かったものではないので、もちろん言わずに心の中でとどめておいた。
「先の戦争で大活躍だったらしいから、まぁ当然といえば当然なのかもしれないな」
「そうね。でも、まさかあの子たちがねぇ」
ミランダは、感慨深そうに言いながらティーカップを傾け、不意にこちらに目を向けた。
「……なんだい?」
「ううん。久しぶりに戦ってみて、なんだかちょっとムラムラしてたんだけど……トリスタンはどうだったかなって」
「ムラムラ……は、してないね。けれど、とても懐かしい気持ちにはなったよ」
「そう……今は穏やかな喫茶店のマスター。でも現役時代は、姿を見ただけで敵が恐れおののく、炎魔法のエキスパート。なーんて、カイルくんたちが知ったらなんて言うかな?」
「間違いなく質問攻めにされるだろうね。頼むから、言わないでおくれよ?」
「ふふ。分かってる」
いたずらっ子のような不敵な笑みを浮かべたミランダは、もう一杯紅茶をおかわりしていった。
研究所の魔物たちの世話に戻ると言って帰っていった彼女を見送り、客がいなくなった店内を眺めていると、なぜか郷愁を感じた。
言われてみれば、僕にもがむしゃらにひたすら前だけを見つめていたような時期があったなぁ。
◇◇◇
他の魔法は一切使わず、炎魔法一本に絞って研鑽を積み、ミランダの言うとおりの異名――「炎魔法のエキスパート」と呼ばれるまでになった。
だが、裏を返せばそれは、「それしかできない」とも言える。限界を感じ、引退を決意して、この喫茶店を開いた。
廃れてしまった故郷の〈クローブ〉を立て直そうとも考えたが、それは無理難題であった。第一に、未だあの町に住む人々のほとんどが、それを望んでいなかったから。そして、元より客がつきにくいからだ。
なんとか審査を通過して、店をオープンできたのはいいけれど、客がつくまでが本当に大変だった。ただでさえ、人間以外の種族は自営業で食っていくには難しいのだ。差別的な風土があからさまな〈ロディオラ〉ほどではないとはいえ、ここ〈サントリナ〉でもその気風はないわけではなかった。
やがて、メニューや店内装飾に意匠を凝らし、冒険者向けに価格を設定して宣伝したおかげで、ちらほらと客がくるようになった。情報屋の業務もこなすようになると、少しずつではあるが客足がのびていった。
さらには、勇者の称号を得たばかりのレックスが、うちのケラプス茶――当時はまだあまり知られていなかった――を気に入ってくれて、店の名もセットで広めてくれたのだ。おかげで、一時は大いに賑わうようになった。忙しいときは、とてもではないが一人では回せないほどだった。
そんな、嬉しい悲鳴とでもいうべきものがよく上がっていた頃に会ったのが、僕と同じ獣人のオリヴィアだった。
それは、雨が降る花冷えの日だった。店前に、ずぶ濡れの姿で震えている彼女を見つけ、迷わず中へと誘い入れた。
聞けば、生まれ育った〈リコリスの森〉を出て、〈ロディオラ〉を経て〈サントリナ〉に到着したばかり。持ってきた食べ物も底をつき、途方に暮れていたところだったらしい。
「〈ロディオラ〉へ行けば食べ物が手に入ると思ったのに……っ金はあるといくら言っても、なにも売ってもらえなかった。どうしてだ? 私が、獣人だからか? 獣人のどこが穢れているんだ?」
震えながら、涙声で訴える彼女が痛々しくて、思わず僕は、「ずっとここにいればいい」と言っていた。
こうして、オリヴィアは我が店の看板娘となった。客からの評判は上々で、またオリヴィアも接客の仕事を気に入ってくれたようだった。
だがやはり、「そういう客」は、ここ〈サントリナ〉にもいた。
下劣な言葉を並べ、オリヴィアを「ケダモノ」と呼ぶ性質の悪い客だった。助けるため駆け寄ろうとしたところ、その客の隣のテーブルに座っていた客が、大げさな音を立てて立ち上がった。
「そいつがケダモノだってんなら、お前はそれ以下のゴミクズ野郎だな」
「本当だね。ゴミはさっさと焼却処分されてくれないかな。腐った臭いをまき散らさないでほしいんだけど」
それが、のちにオリヴィアが加入するパーティー『レジェンズ』のメンバーである、カイルとティムだった。
「マスター。私、冒険者になろうと思う。強くなって、私を助けてくれた人たちに恩返しをしたいんだ。もちろん、マスターにも」
そんな可愛いセリフを、恥じらいながら言うオリヴィアの顔は、今でもはっきり覚えている。
◇◇◇
新しい客が来たと知らせるドアベルが鳴り、一気に現実に引き戻された。
「よーっす、トリスタン。ちっと相談乗ってくんねーか?」
やってきたのは、顔なじみの人物。〈ルドルフの武器屋〉のスティーヴだった。
彼の顔を見るなり、少しだけ浮ついていた気持ちがしぼんでいくような感覚がした。
「お金は貸さないよ」
「はぁん!? なんでそうなるんだよ!?」
「最近、酒代が足りないとか言って色んな人から借金しているそうじゃないか」
「それは……アレだよお前! ちょっとばかし飲みすぎて、懐が寂しくなっちまっただけだって。あとでちゃんと返してるし、ひでー奴呼ばわりされる筋合いねぇんだけど!」
「冗談だよ。念のために釘を刺しておいただけさ」
「お前……っいつからそんなこと言うようになっちまったんだよ! 黒ヒョウだけに、腹ん中も黒いってか!?」
「それで、相談っていうのは?」
「自分で振った話題ぶった切るのはどうかと思うぞ!?」
カウンターに拳をどん、と叩きつけながら、未だにぶつぶつと文句を言っているスティーヴに、サービスで紅茶を出した。
スティーヴはそれを一口飲んで、ふう、とかはあ、とかいう大きな息を吐いた後、改めてこちらを見た。
「カイルたちの話、聞いたか?」
「ああ。Sランクの昇格試験を受けるらしいね」
「なら話は早いな。それの祝賀会をやろうと思ってよ。食料調達の方で手ぇ貸してくんねーか?」
スティーヴの言葉を聞き、たちまち疑問が沸き起こる。
「……祝賀会っていうのは、達成してからやるものじゃなかったかな?」
「そうだよ。なんだ、お前。あいつらがやらかすとでも思ってんのか?」
眉を寄せて、睨むような目つきをするスティーヴに対し、僕は呆気にとられていた。
Sランクは、冒険者の最高峰だ。試験内容がどんなものかは知らないが、それ相当だと認められるための試験である以上、とてつもなく厳格なのは想像に難くない。
目の前のこの男も、それを知らないわけがなかった。それにも関わらず、「受からないわけがない」と本気で思っているようだった。
絶対に、手に入れてみせる。勝ちとってみせる。そういう強い気持ちは、僕の中にもあった。
なんだか今日は、やたらと昔を思い出す。妙な日だ。
「……構わないよ。僕でよければ、協力しよう」
「本当か! お前ならそう言ってくれると思ったぜ!」
「彼らは確か、ジャンビン鳥がお気に入りらしいね。早速山に入って探しにいこうか」
「は? いやいや……無茶言うなよ」
「おや? 祝賀会を開くんじゃなかったのかい? それくらいの食材を用意しないと締まらないんじゃないか?」
「そりゃ確かにそうだけどよ! そんな簡単に手に入るもんじゃねぇって知ってんだろ!?」
「もちろん。でも……彼らは、もっと困難な状況を乗り越えようとしているんだ。僕らが尻込みしていては、話にならないだろう?」
スティーヴが飲み終えたティーカップとポットを片付けていると、顔を俯けた彼が大きな笑い声を上げた。
「そりゃそうだ! おし……行くか! ノボリを連れてくっから、ちょっと待っててくれや」
「ああ。支度をして待っているよ」
ばたばたと騒がしくスティーヴが出ていった扉を見つめ、僕はたまらず一人で笑みを浮かべていた。




